9月23日慶長出羽合戦遠征・その5(山形県米沢市)2009年10月01日 22時46分41秒

五穀稲荷神社のある粡町公園
【米沢城】(三の丸東北部・五穀稲荷神社)

長命寺から出た後は再び三の丸跡へ戻るため、商工会議所脇の道路から西へ進んだが、ここにはちょうど三の丸の城門跡があり、遺構は無いが、枡形の跡が今も車道に現れているのが面白かった。

三の丸門跡から城内側に入り、車道(土手の内通り)を北に向うと稲荷神社を祀った小さな丘に辿り着いた。この小さな丘が三の丸の土塁の跡で、説明板によれば頂上の稲荷神社の始まりは不明だが、米沢城の鬼門封じにここに置かれたものとしている。周囲に高い建物が無いためかこの土塁の上からの眺めは良く、このためか西條天満神社の土塁よりも高い感じだった。

五穀稲荷神社の土塁で三の丸の北端へと着いたので、今度はここから西へと移動することにした。途中で色部氏の屋敷跡や清野氏の下屋敷跡を通過したが、いずれも説明などは無く、前者は裁判所跡、後者は住宅地で特に見るべきものは何も無かった。

その後は掘立川沿いに南下したが、川沿いにある禅林寺(法泉寺)の庭園はなかなか広大で、水が枯れているのが残念だったが、文殊堂などと共に街中にあるにも関わらず落ち着いた空間を醸し出していたのがなんとも印象的だった。なお、この場所は米沢初の図書館の先駆けとなった禅林文庫の跡でもあり、文庫を開設したのが直江兼続と兼続が招いた九山和尚だという。

9月23日慶長出羽合戦遠征・その6(山形県米沢市)2009年10月02日 21時57分24秒

直江兼続屋敷跡は現在はただの住宅地
【直江兼続屋敷跡】

禅林寺(法泉寺)を出た後はそのまま道なりに南下し、関東管領上杉家創設以来の重臣である千坂屋敷跡を通過し、上杉景勝の旗本の屋敷が建ち並んでいた五十騎町を散策したが、ここらへんは全て住宅地に埋もれており、屋敷の名残のようなものは見つけられなかった。

五十騎町南端の武田氏の屋敷跡(これも今は住宅地)まで散策した後は東へと進路を変更し、上杉鷹山の隠居屋敷だった餐霞館跡へと寄ったが、ここには一応史跡碑が建っていて、跡地の一部が庭園状の小さな公園となっていた。なお、餐霞館が建てられる前はここには火縄銃の火薬の原料を貯蔵した塩硝蔵が建ち並んでおり、これらの蔵は鉄砲の軍備を重視した直江兼続の指示で造られたという。

餐霞館跡を散策した後は二の丸堀跡の外側に沿って東に移動し、直江兼続屋敷跡へと辿り着いたが、ここも例に漏れずやはり住宅地と化していた。それでも他と違うのは説明板が道路沿いに立てられていたことである。

こうして三の丸跡を反時計回りに散策して再び「伝国の杜」へと戻ってきたわけだが、いくつか寄りたいところをカットしたにも関わらず予想以上に時間を消費し、既に街灯が点灯しそうなほど辺りは暗くなってきていた。

9月23日慶長出羽合戦遠征・その7(山形県米沢市)2009年10月03日 16時52分39秒

秀公園(三の丸堀跡)
【米沢城】(三の丸南東部・秀公園)

「伝国の杜」に戻った後はさすがに暗くなってきたので、ホテルに帰ることにしたが、帰るついでに三の丸南東部に立ち寄っていくことにした。

三の丸南東部、南部小学校と市民会館の間の部分が直江兼続の与力筆頭だった志駄氏の屋敷跡で、ここも説明板等は全く無いが、今は何やら空き地のようになっていた。

志駄屋敷跡から東側が三の丸の堀跡で、幼稚園と秀公園となっていたが、遺跡図によればこの公園部分が堀跡で、幼稚園の建物のある部分にかつて土塁があったのだという。公園の一角には小さな丘があるが、地図上では一応土塁のあった場所に重なるのでこれも土塁の名残かもしれないが、手持ちの資料には特に記載は無いため遺構と言えるかは判らない。

公園を出た後はホテルへ直行するつもりだったが、南部小学校の南東口付近で少々気になるものを見つけてしまった。校庭の一角にある丘なのだが、ちょうど三の丸堀跡のあたりにあり、しかも西條天満神社の土塁並の高さがあるため、どうも土塁の遺構に見えるのだが、これも手持ちの資料には特に記載はなかった。このため、恐らく学校の整備の時に土を盛っただけの場所とも思えるが、正直なところはどう判断したものか判らなかった。

9月24日慶長出羽合戦遠征・その8(山形県高畠町)2009年10月04日 23時35分43秒

高畠城本丸内堀の一部
【高畠城】

一日中雨模様だった23日とは違い、24日は朝から晴天に恵まれたため米沢から高畠方面へと出かけることにした。高畠の街についてまず向ったのは高畠城跡で、直江兼続の与力だった春日元忠が城代を務めた城である。

春日元忠は慶長出羽合戦では直江兼続の本隊に参加し、畑谷城合戦から長谷堂城合戦まで付き従っていた。菅沢の上杉陣では春日隊は山崎側の北の平地に陣を構えていたが、9月16日の夜に横尾勘解由と大風右衛門が率いる最上軍の夜討ちを受けて大混乱となり、100人以上を討ち取られる失態を犯してしまっている。

現在の高畠城は主郭が保育園や小学校となっているが、内堀の南西部だけが辛うじて現存してた。水堀は西側が曲線を描いているが、絵図を見ると主郭は釣鐘のような形をしており、このため現存部分が釣鐘の上部にあたる部分だというのが良く判った。

水堀以外にも何か遺構は無いかと周囲を散策したが、ここで今日が平日(シルバーウィークの隙間部分)だということに気づき、小学校では大勢の児童が校庭をランニングしたりしていて気まずいため、散策は短時間で切り上げて次に移動することにした。

9月24日慶長出羽合戦遠征・その9(山形県高畠町)2009年10月05日 23時08分33秒

安久津八幡神社入り口の三重の塔
【安久津八幡神社】

高畠城址を散策した後は高畠の街を東へ進み、安久津八幡神社を目指して移動した。鳥居町の交差点に立つ大鳥居を抜けて川を渡った先の山の麓が八幡神社で、山形の神社では珍しい三重の塔が遠くからでもよく見えた。

安久津八幡神社は元々は慈覚大師がこの地の安久津磐三郎の協力を得て860年に建てた阿弥陀堂で、後に源義家がここに戦勝を祈願して八幡宮を勧請したため安久津八幡神社となったのだという。神社は置賜郡を伊達氏が領していた時代に最盛期を向え、後に衰退してしまうが、米沢の領主となった直江兼続によって1598年に再建されることになった。しかし、1600年の慶長出羽合戦の敗戦で中断し、上杉家の減封によって再建の余裕すらなくなるが、1617年に上杉景勝によってなんとか拝殿が再建され、次の上杉定勝の代の1630年にやっと本殿を再建することができたという。

三重の塔があるだけでも十分珍しかったが、塔の近くの神社の鳥居にはなぜか長い二本の石が横たわっており、なんとも奇妙な光景だった。後で調べたところ、この石は昔ある老夫婦が石鳥居を奉納しようとしたところ、鬼に邪魔されて壊されてしまったものの残骸なのだという。

鳥居から神社の参道を進むと道を遮るように能舞台があり、能舞台からさらに登った場所に神社の拝殿があった。拝殿は茅葺のなかなか立派なものだったが、本殿のほうはまだ工事中らしく工事用の幕で覆われていた。ここからさらに山を登ると奥の宮があるそうだが、道が良く判らないので登るのは諦めることにした。

神社に参拝した後は神社の鳥居から東にすぐの所にある郷土資料館に立ち寄ることにした。資料館の展示は主に古代と近代の展示品が多く、中世の展示は少なかった。なお、城址に関連する展示は『高畠城の古絵図』と、『志田館の石積み』に関するものだけだった。

なお、安久津神社から西のほうには縄文時代の住居を復元したものや、本物の古墳などを展示した歴史公園となっており、公園の西には県立の考古資料館があった。先に訪れた町立の資料館と違い、県立だけあって建物が大きく綺麗だったが、ここの展示品はほぼ全てが古代関連だった。