9月25日慶長出羽合戦遠征・その13(山形県山辺町)2009年10月09日 23時55分30秒

畑谷城大手口の竪堀
【畑谷城】(前編)

山形市内のホテルで一泊した翌日は、今回の旅の本命である畑谷城址へ向うため朝早くから霞みかかった街を出て西へと進んだ。古舘のあたりより西は一気に山地となり標高も風景も全く異なるが、しばらく峠道を進むと簗沢の開けた盆地へと出た。この盆地からも南に畑谷城の館山が見えるが、ここからさらに山を迂回してすこし登った場所が畑谷の集落となる。

慶長出羽合戦が始まった1600年9月12日、直江兼続率いる上杉軍本隊2万は狐越街道を通ってこの畑谷へと攻め寄せた。当初、最上義光は畑谷城の江口五兵衛に城を捨てて山形城へと来るように伝えていたが五兵衛はこれを拒み、わずか5百の兵で篭城戦を挑んだ。結果は上杉軍を1日足止め出来たものの江口氏以下5百の兵は討死して玉砕した。義光は五兵衛を救援するために飯田播磨守以下60人と谷柏相模守40人を向わせたが、畑谷落城までに間に合わず、しかも落人を守って撤退中に殿を務めた飯田播磨守が討死して果てた。

畑谷の集落は簗沢より標高の高い場所にある小さな盆地で、中央の田畑を囲むように環状に民家が建ち並んでいるのが特徴的だった。畑谷に着いてまず先に向ったのが畑谷城の出城である采女館跡で、畑谷合戦で真っ先に戦場となった場所である。

東黒森山の麓の岬状に突出た部分にある館跡は西端に社があり、東側は民家となっていたが、この民家と社の間に土塁のようなものがあった。ただ、後世に削平された時にできたようにも見えるのでなんとも判断し難い。

采女館跡を見た後は館跡の少し北にある吉田作兵衛邸を見に行ったが、すでに建物は無いようで、基礎と庭園だけが残っていた。この吉田作兵衛邸は1710年に江戸幕府の巡検使が一泊した場所で、当時の山形城主の堀氏が慌てて接待役や商人を派遣したのだという。確かに何故巡検使の人々はこんな山奥に一泊しようと思ったのか不思議なものである。

吉田邸跡を見た後はいよいよ畑谷城へと登るべく大手口へと向ったが、どうもドラマの『天地人』の影響なのか大手口近くの民家が休憩所として整備されており、ボランティア?の方がここに常駐していて畑谷についての説明を行っていた。なお、地元の方や観光客と思われる先客も既におり、平日でも訪れる人が居る事が少々驚きであった。

なお、休憩所からは既に大手口の竪堀が見えており、竪堀沿いに登ると畑谷城で最も特徴的なコの字形の大手郭へと辿り着いた。ここの堀がまた見事で、大きな堀が部分的に二重になっており、館山と尖り森の中腹まで竪堀が伸びている様子はなかなか面白かった。なお、堀は北側が浅いため、南と尖り森からの攻撃を想定して築いたものと思われる。

(後半へ続く)