6月30日小田原城址散策(神奈川県小田原市)2013年07月01日 23時19分47秒

梅雨の時期だから6月は出かけることは無いと思っていたが、今年は本当に梅雨なのか判らないくらい雨が降らないため、月末の週末に小田原まで出かけて来た。目的地は今まで何度も来ている小田原城であるが、今回は新たに確認したい場所があったので再訪城となった。


紫陽花
小田原城址公園は春は桜が綺麗だが、梅雨の時期あたりには紫陽花が沢山咲いて綺麗なのでまずは園内に立ち寄った。画像は二の丸跡と弁天曲輪の間の堀跡沿いに咲いている白い紫陽花。


常盤門下の紫陽花
常盤門の下の斜面には青と赤の紫陽花が咲いており、ちょっとピークを過ぎた感じだったが、まだまだ見頃で十分堪能できる景色だった。


御用米曲輪の発掘現場
今回見たかった場所の1つが画像の御用米曲輪で、ここは北条氏時代の建物など気になる遺構が最近見つかった場所である。まぁ、本丸から見下ろすくらいしか出来ないため、ハッキリ言ってよく判らなかったが、発掘に関する記事がこの郭の周辺に張り出されていたので、少しだけ参考になった。


八幡山古郭東曲輪
御用米曲輪跡を見た後は陸橋を通って八幡山方面へ移動し、久々に「八幡山古郭東曲輪公園」へと立ち寄った。場所に難があるため滅多に人が訪れない場所だが、ここからは街や天守閣が良く見え、海側に向かってひらけている為なかなか気持ちが良い。


小田原高等学校の樹叢
八幡山古郭東曲輪公園から競輪場方面に移動すると、坂を登った場所に「神奈川県立小田原高等学校の樹叢」という天然記念物の説明板がある。どうやらここらへん一帯の広葉樹は伐採されずに今まで残されたもので貴重なものらしい。個人的にはこの看板の裏の雑木林の中にある小田原城の堀の遺構に驚かされたが、例によって茂みのおかげでそれを表現できるだけの絵が撮れなかった。


新堀土塁公園
坂を登りきった場所の交差点には小峯御鐘ノ台大堀切に続く巨大な堀が北側に見えてくるが、そちらは以前訪れているので、今回は逆に南側へと移動する。そこには今回訪れたかったもう一つの目的地である「新堀土塁公園」があった。ここには文字通り土塁がハッキリと残っていたが、土塁以外の平場は開発の影響か妙な構造になっていた。特に公園の南側の穴の空いたような区画はいったい何なのか気になってしょうがない。


新堀土塁公園から見た石垣山
公園からはちょうど西側の景色が良く見え、正面には豊臣秀吉が小田原城攻めの本陣とした石垣山が良く見えた。北条氏の時代には八幡山が主郭だったため、当時の篭城勢の武将たちはこのような位置から石垣山を見ていたのかもしれない。

7月13日三連休三陸遠征・その1【奇跡の一本松ほか】(岩手県陸前高田市)2013年07月16日 23時58分08秒

7月の三連休は三陸地方へと出かけて来た。春先に釜石方面を訪れた時に、もう少し時間をかけて沿岸部を移動したかった思いから、今回の目的地となった。

高田松原跡
天候が優れない中、気仙沼からBRTに乗って陸前高田へと入った。BRTとは謳っているがこの区間は一般道を走っているため、ただの代替バスである。7月13日から『奇跡の一本松駅』が出来たので、さっそくそこで降りて一本松方面へと向かった。画像は高田松原の跡で、海側では堤防の工事中で、内陸側では嵩上げのような丘が出来ている。


奇跡の一本松
奇跡の一本松自体は塩害で枯死してしまったが、現在はその跡にモニュメント?の一本松が立てられている。すっかり陸前高田のシンボルになってしまったせいで、この日もかなり多くの観光客っぽい人々がここを訪れていた。


気仙川の水門と二日市館
一本松付近から気仙川の水門が見えるが、水門の後ろに見える丘は長部千葉氏の居城の二日市館である。時間と天候が良ければ寄りたかったが、今回は残念ながらパスした。


湿地帯となった水田跡?
高田松原跡から旧高田市街地方面へと向かうが、かつての水田跡は湿地帯のようになっていた。だが、中世の陸前高田は案外このような風景だったのではないだろうか・・・。


陸前高田の駅前ストリート跡
とりあえず、陸前高田駅前まで辿り着いたが、駅前通りはごらんの通り道路しか残っていない。正面突き当たり見える丘は高田千葉氏と浜田千葉氏の居城となった高田城である。


陸前高田の駅前ストリート跡(逆から)
画像は高田城の麓付近から駅前通りを見た風景。道路の先には陸前高田駅があった。画像左奥に前述の水門が見えるが、その手前辺りに一本松がある。

7月13日三連休三陸遠征・その2【高田城】(岩手県陸前高田市)2013年07月17日 23時58分41秒

高田城も麓付近は津波の打撃を受けたようで、天照御祖神社の参道入口には今も狛犬や鳥居の無残な跡が見られた。参道の階段を登った先には腰郭のような一角があり、そこからさらに登った先が神社の境内となる。

天照御祖神社
天照御祖神社は三陸地方に広く分布しているが、神社によって由緒がまちまちで何故この地方に広まっているのかはよく判らない。一応、総本社は伊勢神宮ということでいいのだろうか。この神社のある場所はけっこう広い郭で、おそらく高田城の二の丸に相当する郭になると思う。


本丸公園(四阿)
神社の西側にさらに高い場所があり、その一帯が本丸公園として整備されている。画像は公園の南端で、恐らく本丸腰郭の跡だろう。四阿はここだけにあり、ここから旧高田市街地が見えるはずだが、木々が邪魔で眺めは悪かった。なお、画像右奥にあるのは震災の碑。


本丸公園中心部
城跡南部で最も高い場所が本丸跡で、今は広い木々に囲まれた空間となっている。画像正面奥にさらに少し高くなった場所があり、そこには忠魂碑が設置されているが、高田城の標柱もその辺りにある。なお、公園の縁の方には土塁の遺構と思われるものが確認できた。


堀切と土橋
城跡は北側がちょうど丘陵続きとなっているが、本丸跡の北側には大きな堀切が設けられており、土橋の跡も見られた。画像手前が本丸側、奥が八幡郭側で、それを繋ぐように土橋が架かっている。


八幡神社
堀切を渡った先の丘の上が八幡郭で、元は八幡館という高田城よりも古い時代の城跡だという。当然、名前の通りこの場所には八幡神社が鎮座している。高田城では最も高い場所とされているため、ある意味「詰の丸」と言っても良さそうだ。ここも一応土塁が遺構として確認できた。


八幡神社北の堀切
八幡郭の北側にも堀切が設けられており、雑木林ではあるがその先の北側も削平地だったので郭の跡なのだろう。


4つ目の堀切と土橋
雑木林の郭跡のさらに先にも小規模な堀切があり、その先にも平場があったがこちらは耕作地が藪化したような場所だった。そこからさらに北に行った先にあるのが画像の堀切と土塁で、本丸公園から数えると4つ目の堀切となる。ここより北には堀切は無く、地形も自然地形に近いのでここが縄張りの北端かもしれない。


鳴石公園横の山道入口
雑木林の中に続く山道をどんどん進んでいくと、民家の裏山を抜けて鳴石公園の脇へと出た。画像がその出口で、ここから手前の方には鳴石団地が広がっている。ここまで辿り着くまでずっと雨が降っており、何気に足元が泥だらけで、下半身は雨で濡れてしまった。道中滑りそうな足場もあったので、雨の日は八幡神社より奥に行くのは止めた方がいいかもしれない。


盛駅
高田城散策の後、他にも色々行きたかったが雨が強くなってきたため断念し、BRTに乗ってさらに北上した。大船渡駅まではずっと一般道を走っていたが、ここでやっとBRTの本質である専用道に入り、盛駅へと辿り着いた。盛駅はJRのホームが完全に車用に改造されており、画像のような奇妙な風景に様変わりしていた。結局、この後はずっと雨だったため寄り道はせず、吉浜まで三陸鉄道南リアス線で移動してその後はバスを乗り継ぎ、今回の旅の宿をとっていた釜石へと向かった。

7月14日三連休三陸遠征・その3【笠間館】(岩手県宮古市)2013年07月18日 23時56分10秒

連休2日目は釜石を出発してまずは宮古を目指して移動した。震災の影響で釜石-宮古間の山田線は止まっている上に代替バスも無いため、路線バスで移動する。途中、「道の駅やまだ」で岩手県交通から岩手県北バスに乗り換えて2時間半ほどで宮古へと着いた。道中、沿岸部の低いところは軒並み荒地と化していたが、一方でプレハブ店舗が結構至る場所で目に付いたのが印象的だった。


宮古市立図書館(笠間館居館跡)
宮古に到着後、さっそく駅から少し西に行った場所にある笠間館跡へと向かった。笠間館は閉伊氏の初期の居城で、画像の市立図書館のあるあたりが居館跡になっている。市街地に埋もれてしまってはいるが、よく見るとこの辺り一帯だけが周囲よりやや高くなっており、かすかに縄張りの名残が感じられる。


山口川
居館跡に隣接して山口川が流れており、笠間館の堀でもあったと考えられる。また、地形から考えて当時は八幡公園側に蛇行していたとも思われる。


館合近隣公園
笠間館の南にある独立丘陵の横山は笠間館の出城跡で、今は横山八幡神社の境内となっており、そちらは過去に一度散策している。このため、今回は笠間館の北の詰城跡へと向かった。詰城跡の東郭は今は館合近隣公園となっており、公園の最高所には画像の経塚と社があった。この経塚は南北朝時代のものとされ、雲公なる人物によってここに治められたものだという。社の方は鳥居から見て稲荷神社だろうか。なお、ここは山の上ではあるが木々のために展望は悪い。


虎口?
山の斜面には腰郭が確認でき、南側の一角には画像のような虎口のような箇所もあった。東郭だけでも城跡らしい遺構が見られたが、詰城の中心は公園の西側に隣接する山の上にあり、そちらにも行こうと思っていたが、思いのほか藪が酷くて登れる箇所が見当たらなかった。後で地図を見てみたら、逆方向の長根寺がある辺りから登れそうだったので、いずれは秋頃に再訪してみたい。

7月14日三連休三陸遠征・その4【舘ヶ崎台場】(岩手県宮古市)2013年07月19日 21時56分14秒

笠間舘跡の散策後は、宮古市でも有数の観光地である浄土ヶ浜へと向かった。もちろんただの観光が目的ではなく、江戸時代末期に築かれた砲台の陣地である舘ヶ崎御台場が目当てである。


竜神崎展望台
浄土ヶ浜は宮古湾の北側にある独特の形をした半島にあり、この半島にある岬(丘陵)が台場として利用されていた。とりあえず、最も南側の竜神崎展望台へと登ったが、ここからは宮古の港が一望できてなかなか良い眺めだった。ただ、ここが台場だったかは確認できなかった。


舘ヶ崎展望台
竜神崎から丘陵伝いに東に移動した先にあるのが舘ヶ崎展望台で、船遠見番所があったとされるが、平場以外に特に目に付くものは無かった。ここには画像のような展望塔が立っていた。


舘ヶ崎展望台から見た宮古湾
展望塔の最上部からは樹木越しに宮古湾が見えるが、確かに港を守るためにはこの場所に台場を築くのがベストだと感じられる景色だった。


宮古湾海戦記念碑
ちなみに幕末の1869年には、旧幕府軍の軍艦が宮古湾に停泊中の新政府軍の軍艦へ奇襲をかけた宮古湾海戦がこの地で行われており、結局奇襲は失敗に終わるが、この海戦に新政府軍として参加していた東郷平八郎などは一定の評価をしており、この時代の海戦の一例としてなかなか興味深い。画像は浄土ヶ浜にある『宮古湾海戦記念碑』。


御台場展望台
浄土ヶ浜の内海の中心に突き出るように伸びている岬には御台場展望台があり、恐らくこの突端部の平場に砲台が設置されていたのだろう。この展望台からは浄土ヶ浜の内海を一望でき、沖の岩場越しに外海もよく見えるため、なかなかの絶景ポイントだった。


御台場展望台から見た浄土ヶ浜
画像は御台場展望台から見た浄土ヶ浜の内海。外海との間にある岩場が独特の景色を生み出しており、17世紀に「浄土ヶ浜」と名づけた竜湖和尚もこのような景色を見て何か感じるものがあったのだろう。


ボート乗り場付近から見た浄土ヶ浜
浄土ヶ浜では沿岸一帯を巡る遊覧船や沖の岩の洞窟等を案内するボート等が出ており、この日も大勢の観光客で待ち時間が発生するほど賑わっていた。自分は残念ながら今日中に行きたい場所がまだあるため、一通り散策後は浄土ヶ浜を後にして宮古市街へと戻った。