1月9日川匂神社参拝 ― 2012年01月10日 23時59分21秒
去年は相模国一宮の寒川神社を詣でたので、今年は相模国二宮の川匂神社に出かけて来た。

神社は平日だとコミュニティバスで近くまで行けるが、休日だと思いのほか駅やバス亭から歩くことになり、思いのほか交通の便が悪かった。神社は長閑な住宅地や畑のある丘陵地帯の奥にあり、もっぱら車で訪れるのが普通の場所ようだった。

鳥居を潜って階段を登った場所には随神門があり、神社では珍しい茅葺屋根の門だった。

神社の境内はけっして広いわけではなく、ごく普通の見慣れた中規模神社といった感じだった。拝殿で参拝を済ませた後におみくじを引いた所、今年は大吉が出たので去年よりは良い年になりそうな予感がする。

なお、この神社には夫婦杉という御神木があったそうですが、残念ながら去年の台風で1本が倒木してしまい撤去されたという。小さな石の輪がある場所がその跡で、奥の神楽殿の目新しい木々の部分が倒木時に破壊されて修繕した箇所だそうである。
12月25日肥の国旅行・ラスト(熊本県阿蘇市) ― 2012年01月06日 22時49分22秒
内牧城跡を散策した後は今回の旅の締めくくりとして阿蘇山へと登ってきた。結論から言うと、とにかく痛いほど風が寒くて強くてまともに見て回ることが出来なかったのが心残りだった。

阿蘇山へと登る道の途中からは阿蘇の特徴的な地形がよく見え、なかなかの絶景だった。なんといっても削り取ったように平らな山が連なる外輪山が印象的で、他ではなかなか見られないここならではの景色だった。

阿蘇山の山の上の杵島岳と烏帽子岳の間には草千里と呼ばれる高原が広がっており、夏場には草原と沼が見られるそうだが、現在は雪でごらんの通りだった。奥に見えるのが烏帽子岳で、画面とは逆の後ろの方に火山博物館やレストラン等の施設がある。

阿蘇山中岳の手前にはロープウェイ駅があり、そこから火口まで登ることが出来る。この麓側の駅の隣には寺院と神社があり、画像の寺院は西巌殿寺の奥之院で、本院は阿蘇山の北麓にある。一応、縁結びのご利益で知られた寺院らしい。

寺院の背後にあるのが阿蘇山上神社で、先に訪れた阿蘇神社の奥社でもある。こちらは建物がコンクリート造りになっており、なかなかごつい神社であった。

ロープウェーで中岳山頂に登ると火口を見ることができるそうであったが、火山性ガスの濃度が濃すぎて退避勧告が出されており、残念ながら拝むことができなかった。火口からは延々と水蒸気が立ち上っており、近くではかなり硫黄臭かった。しかも、ここは風が非常に強く、耳が痛くなるほど寒いため、冬に来る場所ではないなと思い知らされた。
12月25日肥の国旅行・その9(熊本県阿蘇市) ― 2012年01月05日 23時08分44秒
阿蘇神社の参拝後は内牧へと移動し、街に埋もれた内牧城跡を散策したが、とにかく風が冷たくて痛かった。

内牧城の本丸跡は市立体育館がある場所で、内堀だった旧河川に囲まれているため縄張りはわかりやすいが、特にこれといったものは無かった。一応、車道沿いには城跡の説明板がある。

画面を横切る道が街道の跡で、この正面に大手門である大門があった。この画面の奥が本丸跡となる。

内堀だった旧河川は途中で途切れて消滅しているが、よく見ると地形に跡が残っており、その上を今は車道が通っている。途切れている部分の周辺は公園として整備されており、地図を確認しないと一見池のようにも見える。

二の丸跡は主に駐車場と公園と化していたが、ここには石垣が残されていた。部分的に積みなおされている箇所もあるそうだが、使用されている石は加藤可重時代のものだという。

城跡の説明板によれば、浄信寺と明行寺の山門は内牧城の廃城時に移築されたものらしいが、どちらの寺にも特に山門についての説明は書かれていなかった。
12月25日肥の国旅行・その8(熊本県阿蘇市) ― 2012年01月04日 23時24分10秒
4日目の最終日は阿蘇へと出かけ、まず始めに肥後国一ノ宮の阿蘇神社へと参拝することにした。

阿蘇のこの日の天候は雪で気温も寒く、手水舎の水が冷たくて大変だった。南北に伸びる参道の途中の西側に神社の楼門があり、参道が正面に延びていない珍しい構造だが、これを「横参道」と呼ぶという。さらに楼門も神社では珍しい2階建ての大きなもので、「日本三大楼門」の一つに数えられているという。たしかに、楼門だけを見ると神社というより寺院という感じで、なかなか面白いものだった。

楼門を潜った先にはすぐ拝殿があり、楼門の規模の割には普通な感じがする社だった。参拝を済ませた後はいつもどおりお守りを買って、おみくじを引いて来たが、ここのおみくじは縁起物の小物が付いてくるという面白いものだった。

神社の門前町は参道の北側にあり、神社には参道の南側から来たため危うく見落とすところだった。とりあえず、寒かったので阿蘇牛のカレーパンを買って見て回ってみたが、後からもう少しゆっくりしても良かったかなと後悔した。
12月24日肥の国旅行・その7(長崎県南島原市) ― 2012年01月03日 00時32分23秒
島原城を見た後は半島を一気に南下し、「島原の乱」の終焉の地となった原城へと向かった。原城は天草四郎を盟主としたキリシタン、旧領主の家臣だった浪人、そして農民たち約3万人が立て篭もった場所で、幕府軍12万と激しい攻防戦を繰り広げた場所である。結果は篭城側の約3万人が撫で斬りされるという凄惨なもので、これによって島原の多くの集落が無人になったというから恐ろしい話しである。

城は丘陵を利用して築かれており、真砂温泉側から城内へと向かうと、まるで城壁のように丘が立ちはだかっているのが印象的だった。城内へと入る大手門跡は車道が貫通しているため構造がわかりづらいが、未完成の城だったことを考えると、普通の平虎口だろうか?

三の丸は西側が高台で、東側は窪地のようになっていた。窪地は元は沢だったと思われ、先は海に通じていた。縄張り図によれば、この海側にも門があったらしい。

二の丸は三の丸より高く、なによりもその広さに驚かされた。三の丸もそうであったが、二の丸も現在は全体が耕地となっており、かつてここに3万人も篭城していたとは思えない長閑さであった。

二の丸と本丸の間には空堀があり、土橋が架かっていて、現在は車道として利用されていた。

その本丸の空堀はかなり大きなもので、乱での篭城戦時はここにも人員を収容していたという。

本丸の西側には本丸と同じくらいの高さの鳩山郭があり、ここも現在は耕地となっていた。上の画像はこの鳩山郭から本丸を見た景色。

鳩山郭からの景色にも写っているが、この本丸の櫓台が本丸では最も特徴的な部分であった。「島原の乱」後の城の取り壊しにより、石垣はかなり失われているが、それでも根元部分に残っている石垣は思ったより多かった。

本丸の虎口部分は元々埋まっていたらしいが、発掘によってごらんのような虎口跡が現れたという。そして、その発掘時には取り壊された石垣や塁壁の残骸に混じっておびただしい数の人骨も出てきたという。これは、乱で無くなった3万の人々が城を墓標にして埋められていたということであり、この城にはまだ人知れずに眠っている人々も多く居るのだろうと考えさせられた。

本丸の背後は断崖絶壁で、海に面しており、「島原の乱」の時にはこの海からオランダ船による砲撃が加えられたという。

本丸の一部は発掘調査中なのか掘り起こされてブルーシートが掛けられている場所があった。正直なところ、この城に限っては何が出てくるのか、知りたいような知りたくないような複雑な気分である。