6月26日岩手遠征初日【志波城】(岩手県盛岡市)2014年07月02日 00時42分34秒

久方ぶりに平日に休みが取れたため、梅雨前線を回避して岩手県方面へと出かけて来た。春先もGWも仕事で潰れて酷い目にあっていたため、今回は鬱憤を晴らす良い機会になった。

志波城
盛岡に着いてまず向かったのが志波城で、平安時代に大和朝廷が最も北に造った古代城柵である。この城を訪れるのは3度目になるが、前回来た時はまだ整備の途中だったため、整備完了後の城跡を見るのは初となる。


たんぼアート
外郭南門をくぐって内部に入ると、大通りの左手に田んぼアートがあった。後ろの文字がわかり辛かったが、文字は「いにしへの風に逢う」だろうか?


復元された官衙建物とその跡
大通りを政庁に向けて進んだ右手には前回来た時には存在しなかった復元された官衙建物と平面復元群があった。建物内部はちょっとした資料展示になっているようだが、常時閉鎖されており、内部に入るためには案内所に申請が必要だという。今回は時間が色々シビアなため、内部を見るのは諦めることにした。


政庁東門
前回整備途中だった政庁東門はごらんの通りしっかり出来ており、この外側には立派な公衆トイレも出来ていた。


政庁北門
東西南の政庁の門は復元されてるが、何故か北門だけは柱だけの平面復元となっていた。外郭北部は水害で失われているが、政庁まで水害の影響があったとは聞いていないため、ここだけ他と違う理由がよく判らない。

なお、政庁内部は前回同様に平面復元のみで今はだだっ広い空間となっており、外郭は以前同様に大半が畑や水田のままであった。

6月26日岩手遠征初日【盛岡城】(岩手県盛岡市)2014年07月03日 01時05分04秒

志波城を散策した後は盛岡市街に戻り、街の中心にある盛岡城跡へと向かった。盛岡城はもう何度も訪れているが、昔訪れた時にどうしても解せない事があった。それは盛岡城跡の近辺に歴史資料館が無いことで、一応敷地内に図書館はあったが、盛岡城や中世~近世の歴史に充実した図書があるのかといえばそうでもなく、酷くガッカリした思い出がある。


もりおか歴史文化館
そんな盛岡城にも平成23年になってやっと歴史資料館が開設された。資料館の名は「もりおか歴史文化館」であり、実は前述の図書館がかつてあった場所にある。今回、やっとこの資料館を訪れることが出来たが、展示の内容を見た感想としてはもうちょい盛岡城築城以前の展示が欲しいと感じた。まぁ、それでも不来方城からの変遷や、盛岡城の模型を見れただけでも十分満足であった。


盛岡城のバラ1
盛岡城内は前回と変わりない様子だったが、三の丸石垣の直下のバラ園ではちょうどバラの花が真っ盛りで美しかった。


盛岡城のバラ2
バラ園自体は小さなものだが、赤、白、黄色の様々なバラが植えられており、どれも咲き方に特徴があって思った以上に楽しむことが出来た。


解体修理中の時鐘
内丸方面に移動すると土塁の上にあったはずの鐘楼が無くなって驚いたが、どうやら鐘楼と土塁の修復工事のために5月に一時的に解体されたのだという。なお、工事は今年中には完了するらしい。

6月27日岩手遠征二日目【五日市館】(岩手県八幡平市)2014年07月04日 00時38分45秒

今回の旅では新安比温泉にお世話になり、翌日は宿から街に向かう道中にある博物館へとまず立ち寄った。

八幡平市博物館
「八幡平市博物館」は旧安比町の博物館で、展示内容ではこの地出身で寛永寺の僧主となった孝順大僧正や、この地の産業を支えた山師、塗師などの資料がなかなか興味深いものだった。二階の現存史跡の写真は鹿角街道に纏わるものが多く、気になるものもあったが今回の旅では時間等の都合でいずれの史跡にも立ち寄ることは無かった。


里城公園
博物館を出た後は国道を北上して五日市の集落へと向かったが、ここは浄法寺街道が鹿角街道に合流する手前の宿場町だった場所で、中世には浄法寺氏家臣の五日市左近(青澤左近)が治める城下町であった。画像は五日市氏の居城の五日市館の南麓にある里城公園。


五日市館南部の断崖
里城公園から見た城は断崖となっているが、実は昭和43年の十勝沖地震で大崩落した跡であり、この時に直下の空堀と土塁も失われたという。画像は公園側の車道から城跡の断崖を見上げた図であり、よく見ると木が宙吊りになっていていつ落ちてきてもおかしくない状態だった。


五日市館主郭入り口
主郭への入口は集落がある城跡西側にあり、ここに立派な標柱が立てられている。ちなみに城跡の説明板は里城公園にあった。


八幡神社
主郭の西端には八幡神社が祀られており、摂社のように蒼前神社の社もあったが、蒼前神社は元は副郭の西隣にあったらしい。余談になるが空掘の外側に設けられていた土塁跡の上には神明社と薬師も祀られていた。


五日市館主郭内部
主郭内部は大部分が畑になっており、ちょうど農作業をしている方が居たので話を聞いたが、丘の上は神社と畑以外に是といったものは無いそうだった。なお、郭内はけっこう広く、微妙に高低差があったので複数の区画に仕切られていた可能性もある。


郭より堀底を覗く
この城で最も特徴的な遺構が丘の上の郭を囲んでいたという空堀で、堀の外側に丘の削り残しから造ったと思われる大きな土塁がセットで設けられている。画像は非常にわかり辛いが、主郭から堀底を覗いた光景で、一郷主が造ったとは思えないくらい深く幅も広い空堀だった。


堀底を通る車道
画像は現在車道が通っている堀底で、右に見える斜面の上が主郭、正面に見える丘が副郭、左の畑の外側に見えるのが土塁である。副郭も主郭同様に空堀が周囲を囲んでいるが、斜面は急で内部は雑木林だったので詳しくは確認していない。

6月27日岩手遠征二日目【有矢野館】(岩手県八幡平市)2014年07月05日 02時46分15秒

五日市館跡を散策した後は、五日市集落を跨いで西側の段丘の上にある有矢野館跡へと向かった。この館の歴史は謎に包まれているが、位置的に見て五日市氏の血縁の者の館跡ではないかと思われる。

有矢野館跡標柱
旧五日市小学校へ続く坂道を登って行くと、坂を登りきった先のカーブに館跡の標柱を確認することが出来た。この周辺の地形を見ると空堀を埋めた跡のようにも見えるし、登城路の跡のようにも見える。


有矢野館郭内
標柱背後の段丘端が郭内の跡となるが、土塁等の遺構は見られず現状は特筆すべきものは何もなかった。


旧五日市小学校(現在は「学校の宿希望の丘」)
有矢野館跡には旧五日市小学校があり、恐らく学校建築の際に整地されたと見られ、館跡の縄張りが何処まであったのかが非常に判りづらくなっている。余談になるが、画像の旧五日市小学校の校舎は現在は宿として利用されており、「学校の宿 希望の丘」という宿泊施設になっている。

6月27日岩手遠征二日目【小屋畑館】(岩手県八幡平市)2014年07月07日 01時33分46秒

有矢野館跡を見た後は282号線沿いに南下し、道中「北の蕎麦屋」や「味噌茶屋」に寄道しながら小屋の畑まで移動した。前者では「コーヒー善哉」、後者では「味噌ソフト」を食べたがどっちも美味かった。余談になるが、前々回の記事にある博物館によれば山師の住んでいた集落は地名の最後に「畑」が付くのが特徴で、「小屋の畑」も山師の集落として掲載されていた。


小屋畑館跡
ここまで南下した目的は「小屋畑館跡」で、館跡は集落の中の段丘端にあった。画像は館跡の標柱だが、段丘端ギリギリに正面が外を向いて建てられており、丘の上からだと正面が見えず、丘の下からだと背景が空で文字が見えない等、写真泣かせの標柱だった。なお、手持ちの資料だとこの館跡の歴史は不明であるが、何故か一般の地図に遺跡として載っている。(※五日市館と有矢野館は載っていない)


小屋畑館の郭内
この時期に何も植えられていないのが不思議だったが、郭跡の内部は恐らく神社の参道以外は畑と思われる。この郭跡が恐らく主郭で、正面の林の奥に神社がある一段低い狭い郭がある。


館跡の神社
画像が前述の神社の社殿で、この郭は社の幅分しかスペースが無かった。当時は何に使用されていたのか気になる構造の郭跡である。


空堀
館跡は背後の丘との間に空堀を設けて切り離していたと見られ、神社のある位置からは大きな空堀を見ることが出来た。画像は神社の社殿脇から見た空堀。


堀跡
画像は前述の空堀の延長線上で、途中から埋まって浅くなっている。恐らく丘に登って来る車道も空堀の跡で、ここと繋がっていたと想像される。