5月7日奥州桜と城址の旅第三陣・ラスト【土沢城】(岩手県花巻市)2013年05月11日 23時58分06秒

高館跡を見た後は花巻方面へと移動し、土沢へと立ち寄った。ここには南部氏が伊達氏に備えて築いた土沢城があり、旧葛西氏家臣で葛西氏滅亡後に南部氏に仕えた江刺氏が治めた城下町である。


田屋ヶ井戸
土沢の城下町は当時の建物は残っていないが、当時の絵図にも描かれている田屋ヶ井戸がしっかり残っていた。絵図ではちょうどここは城下町の袋小路のようになっているが、今は丘の上に登る車道などが通っている。


土沢城堀跡
土沢城は街の背後の丘の上にあり、丘の比較的高い場所の周辺に横堀を設けて城の縄張りを構築していた。城跡はほぼ全域が公園になっており、画像の堀跡の左側が城内となる。堀跡の右側は絵図では城外になるのだが、現場を見る限りでは出丸のような感じがする。


土沢城東郭
公園となっている城内は郭ごとに標柱が立てられ綺麗に整備されていた。丘なので郭ごとに段差があるが、基本的に主要な郭は直列に並んでおり、連郭式に近い縄張りである。斜面には躑躅が植えられていたが、時期がまだ少し早いため花は咲いていなかった。画像は端にある東館の郭。


土沢城本丸の桜
頂上の御本館(本丸跡)には桜の木が植えられており、どの桜もピークを少し過ぎた感じだが、まだ満開に近い花を咲かせていて綺麗だった。公園に植える桜というとソメイヨシノが多いが、ここは意外にもヤマザクラがメインのようだった。


土沢城西郭から中郭を見る
画像は西側の端にある西館の郭から中館の郭方面を見た様子。西館と中館の間には微妙な段差があるが、中館と御本館は段差が無いので境界が判らない。ただ、境界と思うあたりに大手門跡の枡型?の窪地があった。


土沢城大手橋跡
大手門跡付近から麓まで大手道が公園の歩道として整備されており、途中には大手桜丸の郭があり、ここは今は稲荷神社となっていた。画像の左上が大手桜丸。画像中央の今は土橋のようになっている箇所には当時は木橋が架けられていた。手前の池は堀跡である。


土沢城大手道の桜
公園の歩道はほぼ当時の大手道に沿って続いており、公園から出て降った場所には萬鉄五郎美術館がある。大手道沿いにはソメイヨシノが植えられていたが、幾分か散ってしまっていたので、少々残念な状態だった。


萬鉄五郎記念美術館
画像は萬鉄五郎美術館。画像の左外に公園に続く大手道跡の登りがあり、大手道はちょうど美術館の裏を通って丘の上へと伸びている。ちなみに萬鉄五郎は画家で、土沢城跡の一画やこの丘から見た町も絵に描いている。

5月7日奥州桜と城址の旅第三陣・その3【高館】(岩手県遠野市)2013年05月10日 22時26分45秒

横田城の桜の古木を見た後は猿ヶ石川沿いに移動し、旧宮守町の鱒沢へと向かった。目指すは阿曾沼氏家臣の面懸左衛門尉の居館と伝わる高館跡である。ただ、面懸左衛門尉以下輩に横領されたと阿曾沼朝綱の代官の朝兼が訴えて、陸奥国代の南部師行が沙汰を下したという記録からは家臣というより、同じ地頭同士の領地のいざこざにしか見えない。「面懸」も「おもがい」ではなく「つらかけ」と読んでおり、「角懸(つのかけ)」の誤記という説もある。角懸氏は遠野保の隣の江刺郡角懸郷の土豪であり、遠野保の阿曾沼氏と領地の争いがあってもおかしくないし、こっちの方が先の裁定の話の筋が通る。


高館八幡神社
高館跡の丘の上には今は八幡神社があり、境内は比較的広く、確かに館跡と言われると納得できなくもない。しかし、先に言ったように要害には全く見えない。画像は車道から境内に上る階段だが、この車道は沢伝いから急に逸れて丘を削って伸びており、もしかすると堀のあった場所に道を通したのかもしれないが、想像の域を出ない。


八幡神社の桜
神社の境内には桜の木が数本植えられており、小ぶりだが綺麗な桜の花を咲かせていた。最初見た時は日影で咲きそろっていないソメイヨシノかと思ったが、よくよく考えて見るとこれはエドヒガンの若木だったのかもしれない。


高館八幡神社のエドヒガン
・・・というのも、この境内には樹齢700年と伝わるエドヒガンの古木があるからで、今回ここを訪れたのもこの桜の木を見るのが目的だったのである。ただ、肝心の桜はあまり咲いている花が見られず、ここも横田城の桜の二の舞に終わった。なお、面懸氏お手植の桜との伝説だが、1334年の争乱の内容から見てその可能性は低い気がする。


堀切跡?
高館の背後はそのまま台地に続いているため、これも全く要害らしくない要因の一つだが、周囲を歩き回って見てみると、画像の中心やや奥あたりに台地から高館のある丘の末端を切り離すような横堀の跡があったような形跡が見られた。

5月7日奥州桜と城址の旅第三陣・その2【横田城】(岩手県遠野市)2013年05月09日 21時58分20秒

鍋倉城から街に戻った後は、逆方向の北側の山裾あたりにある阿曾沼氏の居城の横田城を目指して移動した。


水仙の群集
画像は移動途中に一日市のあたりで見た水仙の群集。規則正しく並んでいる水仙もあったので、この付近の民家の方が植えて増やしたものだろうか?余談になるが、一日市は阿曾沼氏時代に城下町の中心があった場所でもある。


横田城への道
横田城は近くまで行くと看板があるので迷うことは無いが、城内への道はちょっとわかり辛いかもしれない。画像は丘の西側を流れる小川の側に立つ案内板。ここから小川と丘の間の道を辿ると、途中に丘に登る階段が現れる。


遠野遺産
丘に登る道の下には以前来た時は無かった「遠野遺産」の表示板が設置されていた。板にも書かれている通り、今回の訪城目的は「彼岸桜」と「山桜」である。


横田城の城内
横田城は山裾の段丘の上にあり、丘に登ってしまえばあとはあまり段差の無い広い空間が広がっている。実際は微妙に雛壇状になっているので、当時はいくつかの郭に分かれていたのかもしれない。画像中央奥にあるのは城跡の中心にある薬師堂。


ヤマザクラとヒガンザクラ
そして、薬師堂の隣に目当ての桜があるのだが、樹勢がもう無いのか、今年の気候の所為かは定かではないが、花がほとんど付いていない状態だった。良く見ると樹の高い場所に花が咲いているのが確認できたので、花の時期が極端に遅いとかの個体差では無さそうだ。ちなみに左がヒガンザクラ、右がヤマザクラで、どちらも樹齢は300年以上の巨木である。左の隅に見える朽ちた木も桜に見え、画面の外側にも桜の木の跡らしきものがあったので、かつては薬師堂を囲むように桜があったのかもしれない。


城内の若い桜の木
ちなみに城内南側の藪の中に咲く比較的若そうな桜は綺麗な花を咲かせていた。ただ、周りが雑木と藪なので花は樹の上の方にだけ集中しており、近くから見ると空の色に解けて上手く映像に残すことが出来なかった。


自生している桜
城跡には明らかに自生と見られる桜があり、殺風景な木々に混じって一本だけ桜の木があるような箇所が見られた。これらの桜はちょうど満開の花を咲かせており、綺麗で逞しくもあった。


横田城空堀
なお、横田城は山裾の段丘にあり、東西に沢があって北側だけが山に続いているが、この部分には大きく抉ったような空堀があり、城は山から分断されていた。画像がその空堀を上から写したもの。余談だが、ここの山側に朽木を利用するタイプの蜂の巣らしきものがあった。


踏鞴場跡の標柱
横田城からさらに山の奥の方へと行くと「山蛍の里 踏鞴製鉄の跡」という標柱があった。どうやらこの付近には製鉄の遺跡があったようだが、下調べはしていなかったために具体的にどこにあるのか判らなかった。


横田城から少し離れた場所にある枝垂桜
横田城跡の桜はガッカリな結果に終わったが、城跡から少し離れた場所には綺麗な桜がいくつか確認できた。画像は城跡より少し西側の段丘上にあった満開の枝垂桜。

5月7日奥州桜と城址の旅第三陣・その1【鍋倉城】(岩手県遠野市)2013年05月08日 23時53分51秒

GW後半は帰省していたが北東北は晩秋から冬に入る頃の気候のように寒く、風は強いし雨は降るしで、桜の花も全く咲かない状態だった。結局、帰省中は花見が出来なかったため、7日にUターンを開始する途中で岩手県の遠野へと立ち寄った。


遠野駅前の桜
例年より遅れているためどこが満開か悩んだが、岩手県の北上山中の標高の高い遠野あたりが満開と読んで遠野へと出かけた。実際、遠野の街の桜は満開な木が多く、駅前の桜も見事な花を咲かせていた。


図書館前の桜
とりあえず、鍋倉城へと向かうと城の麓のベニシダレ系はまだ蕾だったが、ソメイヨシノ系は満開の花を咲かせていた。


鍋倉城の南部神社付近
ただ、鍋倉山の桜はどうもパッとしない状態で、花びらは散った形跡が無いのに花も蕾もあまり付いていないような感じだった。


鍋倉城の桜
画像は三の丸のヤマザクラ。花は確かに咲いているがやはりボリュームが無い。やはり今年の気候が何か影響しているのだろうか。


鍋倉城の斜面
なお、鍋倉山の三の丸斜面では伐採が行われており、街側の斜面は草木が刈られてスッキリした状態になっていた。ただ、山の斜面は急斜面のため、植生が無くなると崩れやすくなるのではないかと心配でもある。


鍋倉城二楼門跡
余談になるが、いままで気付かない場所にも説明板が設置されていることに今回の散策で気付かされた。画像は阿曾沼氏時代の搦手門跡で、二階建ての楼門だったため、「二楼門」と呼ばれていた。残念ながら遠野南部氏の時代にこの門は撤去されてしまった。

4月29日奥州桜と城址の旅第二陣・ラスト【花巻城】(岩手県花巻市)2013年05月07日 22時19分53秒

釜石から花巻へと戻り、神奈川への帰途に着く前に花巻城へと立ち寄った。ただ、既に太陽の位置は低くなっていたため、駆け足で巡ることにした。

花巻城鐘楼
花巻城の大手門跡付近には鐘楼があり、ここの桜は満開で綺麗だった。この鐘楼の時鐘は元は盛岡城のために造られたものだが、音が小さすぎて城下に響かなかったため、花巻城に移されたという経緯がある。


花巻城濁り御堀
花巻城は西側が台地続きになっているため、この部分を削って堀を作り、台地から切り離している。この堀の跡はよく残っており、今は駐車場などに変わって入るが、名前から言って当時は泥炭に近い水堀だったのだろうか。画像は市役所裏の駐車場。


本丸御台所前御門跡
大手門跡付近から公園となっている本丸跡へと向かうと、御台所前御門跡に説明板が新しくできていた。説明板に描かれた枡型の絵と現状を比べると、思いのほか当時の枡型の形が残っていることが判る。


花巻城本丸の桜
本丸跡の桜はまだ満開ではなかったが、予想していたよりは咲いており、花見客も何人か訪れていた。


花巻城の桜
桜としては本丸跡よりも本丸の丘の北麓を流れる後川沿いに多く咲いており、ここいらの桜は満開で綺麗だった。


鳥谷ヶ崎公園の桜
花見客もこの辺り一帯の公園内に集中しており、大勢の人々で賑わっていた。27日と28日は冷たい強風が吹いて花見どころじゃなかった感じがするが、この日は風も落ち着いて強風は吹いておらず、4月末としては少し寒いが大分花見はし易くなっていたように思う。