10月12日三連休道南函館江差の旅・その1【宇須岸河野館】(北海道函館市)2013年10月18日 23時02分45秒

10月の三連休は北海道の道南方面へと出かけて来た。初日は函館へと着いた所で、雨に祟られてなかなか移動できなかったが、雨が止んだのを見計らって道南12館の一つの宇須岸館跡へと向かった。宇須岸館は安東氏家臣の河野政通の居館跡で、館の外観が方形だったことから別名「箱館」と呼ばれ、後にそれが地名となって現在の「函館」の発祥となった縁の地である。


箱館跡
江戸時代の絵図を見る限りでは宇須岸館は山の中腹に建てられており、上段の本丸と下段の二の丸が連郭式に並んでいて、それぞれが方形の土塁で囲まれている。現状では館跡と断定できる遺構は見当たらないが、説明板のある場所の広場(画像参照)が本丸のあったあたりと思われる。


諸術調所跡
前述の広場から降った場所は駐車場となっており、絵図と照らし合わせるとここが二の丸の跡と思われる。今はここに「諸術調所跡」の説明板があり、武田斐三郎が開設した学問所の跡だという。なお、宇須岸館は「コシャマインの乱」であっけなく陥落しているが、絵図や現状を見ても到底篭城できる場所のようには見えない。その後の江戸時代には箱館奉行所がここに置かれ、五稜郭が完成するまではここが函館の行政の中心であったという。

10月12日三連休道南函館江差の旅・その2【弁天台場】(北海道函館市)2013年10月19日 23時57分02秒

宇須岸館跡を見た後は、そこから函館どっく方面へと移動し、次の目的地である弁天台場跡を見に向かった。

在りし日の弁天台場
市電「函館どつく前」駅の隣にある公園には弁天台場についての説明板があり、画像はその説明板に載っていた在りし日の弁天台場の写真。台場は函館港を外国船から防衛するために江戸幕府によって築かれたが、幕末の函館戦争で旧幕府軍が立て篭もり、新政府軍によって攻撃されて陥落した。


弁天台場跡
駅に隣接するY字路を北に行った行き当たりの函館どつくの門?あたりに台場跡の標柱が設置されていた。ここが台場の中になるそうだが、現状では台場の面影は全く無く、標柱が無ければただの市街地にしか見えない状態だった。


港湾改修記念碑
それでも台場を取り壊した後の石垣が転用されているそうなので、駅から西の港へも向かってみた。港湾改修記念碑の説明板にも石垣が転用されたことが書かれており、画像の記念碑も台座部分は弁天台場の石垣で出来ているそうである。


弁天台場から転用された石垣
説明板によれば港の防波堤の一部に転用されたと書かれており、確かに画像のように石垣を積んだ形の防波堤も見ることが出来た。現状ではコンクリートでかなり補強されているが、台場の取り壊しを行った当時は純粋に石垣だけ積んで防波堤にしていたのだろうか…。

10月13日三連休道南函館江差の旅・その3【開陽丸】(北海道江差町)2013年10月20日 21時46分00秒

連休2日目は函館からJR江差線に乗って江差へと向かった。JR江差線は来年の5月の廃線が決まっており、その影響なのか観光客やカメラマンで車内は終始一杯になっていた。


江差駅
画像は終点の江差駅の様子で、ホームは乗車待ちの行列や記念撮影の観光客で賑わっていた。ちなみに天候は曇り空で日本海側から強風が吹きつける上にたまに雨が降る有様で、前日の函館よりもさらに寒い状態だった。


復元された開陽丸
江差について真っ先に向かったのが開陽丸で、戊辰戦争で旧幕府軍の軍艦として戦った船を外観復元?したものである。開陽丸は江差での新政府軍(松前藩兵)と旧幕府軍との戦いを援護するために榎本の命で投入されたが、江差沖で座礁沈没してしまったという。


海側から見た開陽丸
外観復元された開陽丸は港にあるのだが、船として浮かんでいるのではなく、むしろ建造物のように港の中に『建っている』という感じであった。海側から見ると砂浜に乗り上げて座礁しているようにも見えるのが、なんとも言えない光景である。


開陽丸の甲板
内部は撮影禁止なので画像は無いが、幕末の造船関連や戊辰戦争についてのパネル展示、それと海中から引き揚げた弾丸などの遺物が展示されていた。甲板の上にも登ることができ、ここから見る港や江差の街の景色もなかなか良かった。これで天候が良くて風が弱ければ申し分無いのだが、さすがに季節柄しょうがないのだろう。


開陽丸の遺品(シャフト)
なお、開陽丸の遺品はセンターの庭にもあり、エンジンのシャフト部分や船体の一部、それと大砲と碇などがある。

10月13日三連休道南函館江差の旅・その4【弁天島台場】(北海道江差町)2013年10月21日 23時59分39秒

開陽丸を見た後は陸繋島となっている鴎島へと移動した。ちなみに元々は弁天島と言い、江戸時代の絵図では陸繋島ではなく江差の沖に浮かぶ島として描かれている。


北前船係留地跡
島の内海側北部にはピット跡のような形跡がいくつもあり、現地の説明によれば北前船の係留場所の跡だという。実際、この日は強風が酷かったが、この場所は島のおかげで風はあまり当たらず、船を係留するには絶好の場所だというのがよく判った。


瓶子岩
なお、島の内海側には絶妙なバランスで立つ面白い岩がある。『瓶子岩』と言い、昔弁天島の翁より瓶子を貰った姥が、その瓶子を海に投げ入れたものがこの岩になったという。そして、この瓶子を海に投げて以降、江差は鰊が豊漁となったという。


鴎島南部
鴎島の上はほとんど隠れる場所が無いため、強風がまともに当たって大変だったが、島の南側の蟻の門渡りのような場所が最も大変だった。


キネツカ台場
島の南端まで移動すると、微妙に窪地になった一画があり、ここが松前藩が海防のために設置したキネツカ台場の跡だという。幕末には旧幕府軍がここを占領し、新政府軍と砲撃戦を行ったとされる。たしかに、ここからは海が180度以上見渡すことができるため、台場を置くにはベストな場所と感じた。


鴎島北部
南端まで向かった後は再び道を戻り島の北部へと向かった。北部は南部と違って広い平地が続いており、晴れた日なら気持ち良さそうな草地が広がっていた。ちなみに画像とは逆の画面外には灯台もある。


厳島神社旧鳥居
島の北部には江戸時代の絵図にもある厳島神社(弁才天社)があり、その境内に折れた鳥居のようなものがある。これは天保年間の頃に回船問屋によって奉納された一の鳥居の残骸で、元々は海に向けて立てていたが嵐で破損して海中に沈んでしまったものを引き揚げてここに立てたものだという。


千畳敷
島の西の日本海側は強風が吹きつけ、波のしぶきが島の上まで飛んでくるおかげでカメラのレンズがすぐに汚れるほどだった。島の西の波打ち際に下りた場所には岩場が広場のように開けた場所があり、ここは「千畳敷」と呼ばれている。江戸時代の絵図ではここに人々が集まって宴会をしている様子が描かれているので、実際イベント広場のように利用されていたのだろう。この日は残念ながら千畳敷が波で洗われている状態のため、島の上から見るだけに止めた。


テカエシ台場
南のキネツカ台場同様に島の北部にも台場があり、こちらはテカエシ台場と呼ばれている。キネツカ台場と違ってこちらは塁壁は無く、ただの平場となっているが、風化によって失われてしまったのだろうか?なお、こちらの台場は完全に西側にのみ向いており、北から東にかけては死角になってしまっている。

10月14日三連休道南函館江差の旅・その5【花沢館】(北海道上ノ国町)2013年10月23日 02時49分32秒

連休最終日も再びJR江差線に乗って出かけたが、前日までの天候不良が嘘のような秋晴れとなり、すがすがしい絶好の散策日和となった。今回は江差ではなく手前の上ノ国で下車し花沢館跡へと向かった。花沢館は道南十二館の一つで蛎崎氏の居城であるが、どちらかというと『コシャマインの乱』で落城しなかった二城の一つと、蛎崎氏の客将の武田信広が活躍した場所として印象深い場所である。


花沢館跡標柱
天の川に架かる橋を渡ってすぐの車道脇山側に花沢館跡の標柱があり、ここから登った丘の上が城跡となっている。


花沢館中腹の郭
山道を登った中腹に比較的広い郭があり、ここに城跡についての説明板が設置されていた。個人的にはここが平時の住居があった郭のように思える。


花沢館主郭?
北側斜面には数段に渡って腰郭が設けられており、そこを登りきった頂上が主郭跡のようだ。ただ、頂上は削平状態が微妙で、それほど広くも無いため平時は利用されていなかったように思える。


花沢館頂上からの眺め
木々があるため眺めはあまり良くないが、北側の一角から街の方を眺めることが出来た。やはり、当時もここは見張り台として使用されていたのだろうか。


花沢館二重堀切
主郭の背後にはハッキリと二重堀切が残されており、主郭側にも土塁が設けられているため、このあたりの遺構はなかなか見応えがあった。


動物の糞
できればもっと奥の方も見ておきたかったが、腰郭の場所で見つけた新しい動物の糞の塊が気になってしかたなかったため、堀切まで見てから足早に撤退した。民家も近く、背後の山には風車が回っているため、さすがにヒグマのものではないだろうが、果たして何の動物のものだったのだろうか…。