10月28日第二次北陸遠征・その1(石川県宝達志水町)2009年11月02日 22時01分01秒

末森城の本丸から見た二の丸(奥村永福視点)
【末森城】

11月以降は仕事で忙しくなることになったため、急遽駆け込みで10月最後に再び北陸へと遠征してきた。今回の舞台は、以前金沢城の復元された菱櫓等を見に行った時以来となる石川県である。

かなりマニアック?な場所に宿をとったため、初日はもっぱら移動だけの予定だったが、ちょうど宿の近くに前田利家vs佐々成政で有名な末森城があったため、宿に向う前に寄る事にした。

末森城は畠山氏家臣の土肥親真によって築かれたとされる城で、後に織田軍が能登にまで進出してくると土肥氏は降伏し、織田氏家臣の前田利家の与力となった。その後、本能寺の変を経て羽柴秀吉と徳川家康が対立すると、前田家は秀吉側で、佐々家は家康側に味方したため、1584年に佐々成政は1万4千の大軍を率いて前田領の末森城へと攻め込んだ。城には奥村永福率いる500名の精鋭がいたが、さすがに多勢に無勢だったため、本丸の手前まで攻め込まれたという。それでも永福は城を守りきり、佐々軍は前田利家率いる援軍の強襲を受けて総崩れとなって退却したという。

末森城のある山の近くまで来ると国道沿いに大きな末森城の看板があり、なんとも判りやすい限りだが、なぜか案内表示は城のある山とは逆の方向を向いていた。面白いことに末森山の山道は国道を跨いだ伊勢山から陸橋を渡って続いており、なんとも妙な構造である。陸橋を渡ると比較的新しい城の石碑があり、どうやら数年前の大河ドラマ「利家とまつ」の時に建てられたものらしい。

山道は末森山から延びる尾根伝いに続いており、いわゆる森林作業車が通れる幅に造成されているため、当時の登城路がどのようなものだったのかは明確には判らない。途中で城戸跡や武家屋敷跡を通るが特に看板などは無いため、登っている時には気付かず、山頂の縄張り図を見た後の下山時に確認できた。

しばらく登ると「本丸まであと5分」の看板のある場所で、若宮丸の標柱が見えたので道の脇から登ったが、郭は綺麗に草が刈られており、さらに若宮丸から南へ5段階に渡って続く郭群も同様に草が刈られていたため、道は無いが非常に散策がし易かった。

若宮丸周辺を散策した後、山道に戻ってさらに登ると三の丸だが、三の丸は藪で内部は良く判らなかった。また、山道の側に堀のようなものも確認できた。

三の丸からさらに登ると横掘を備えた二の丸へと辿り着くが、こちらは三の丸と違って綺麗に草が刈られていたため、非常に確認しやすかった。また、二の丸の標柱の側には柿木があり、ちょうど1個だけ残った柿の実がなんとも印象的な風景だった。

二の丸から少し登ると本丸だが、当時ここまで佐々軍の兵が攻め込んでいたと考えると、なんとも不思議な気持ちになる。本丸は二の丸よりは広いが、正直なところ500人の兵がこの本丸に押し込まれたとは考えにくい広さで、恐らくは二の丸陥落後も城内の至る所で戦っていたのだろう。本丸からは木々の間から海がよく見えるが、少々絶景には物足りないものがある。

本丸からさらに奥に進むと搦め手となるが、郭の先は急斜面となっており、搦め手の郭にどこから降りれるのか判らなかったため、散策はここまでとすることにした。下山途中には見落とした馬場の郭へと立ち寄ったが、ここも草が刈られていて確認し易かった。

末森城は山城の割には非常に散策し易かったため、思いのほか早く下山となったが、日暮れが早い晩秋の微妙な時間帯だったため、予定より早いが宿へとインし、温泉を楽しむことにした。

10月29日第二次北陸遠征・その2(石川県白山市)2009年11月03日 21時13分14秒

鳥越城の前二の丸から本丸方面を見た景色
【鳥越城】

千里浜に泊まった次の日は、手取川上流の山間部方面へと出かけて鳥越城を訪れた。

鳥越城は本願寺から派遣された鈴木出羽守が築いた城で、織田軍の加賀国侵攻に抵抗する一向宗山内衆が篭城し、一度は織田軍を撃退したという。しかし、城主の鈴木出羽守は織田軍の偽の和平交渉に誘い出されて謀殺され、これに伴い指導者を失った鳥越城は落城したという。

城は2つの川に挟まれた南北に細長い山の上に築かれており、山の西側に旧道の山道が付いているためそこから登ることにした。道は只管山を斜めに登るように続いており、ちょうど小さな尾根に登る部分で折り返し後三の丸へと続いていた。ここの尾根の先端は堀切で切られており、見張り台のようにも見えるが近くまで行ってないので良く判らない。

道を登りきった先には堀切と横掘があり、三の丸の下の腰郭(横堀跡?)を進むと、三の丸へと登る足場があった。三の丸は比較的広い郭で、特にこれといった目に付くものは無かったが、三の丸の下の横掘に連結してあやめ池がある光景はなかなか面白い構造だった。

三の丸から進むと土橋跡付近に後二の丸への登る部分があるが、最初は気付かずにそのまま本丸の城門へと進んでしまった。本丸の城門は平石の布積みで枡形を造っており、復元された城門とともになかなか印象的な風景を作り出していた。本丸の内部には建物は無いが、建物跡が平面復元されており、またここから見た景色もなかなか絶景なものだった。

本丸から一度出てさらに南に進むと前二の丸があり、前二の丸の西側に中門が復元されてあるが、門の外から見ると櫓門の窓が無いため、少々妙な感じだった。なお、門の外の道は少し下にある腰郭へと出るが、そこからどこに続いているかはよく判らなかった。前二の丸からさらに奥の堀切を越えて進むと、前三の丸があるがこちらは整備はされておらず雑木林となっていた。それでも雑木林の中には道が続いており、途中まで進んだがどこまで続くか判らなかったため引き換えしてしまった。後で城の地図を見たところ、どうやらこの城最大の郭の馬場へと続いており、道はちょうど釜清水のトンネルの上から麓へと降りれるようになっているようである。

再び城内中枢へ戻った後は、車道沿いに下山することにしたが、三の丸の横掘の先には自然の沢を利用した巨大な堀切のようなものが2つあり、この堀切の間や先にも小さいながらも郭跡のようなものが確認できた。車道を有る程度降ると小さな広場があり、なぜかこんな中途半端な場所に城址碑と城の地図があった。道をさらに下ると城の守り神の社があり、額を見たところ熊野神社と書いてあった。まさに紀州の生まれの鈴木氏らしい守り神であり、これにはうかつにも納得して感動してしまった。

麓に降りるとちょうど車道の入り口の部分にも城の説明板があったが、何気に見難い位置にあり、車で来る人がこれを読んでいるとは思えない哀愁が漂っていた。

10月29日第二次北陸遠征・その3(石川県白山市)2009年11月04日 21時52分59秒

ニ曲城の石切り場
【ニ曲城】

鳥越城から下山した後は道の駅「一向一揆の里」で昼食を食べ、道の駅と同じ敷地にある一向一揆資料館を訪れた。資料館の内部には一向一揆についての展示の他に、鳥越城やニ曲城の発掘などの展示もあり、小さいながらもなかなか面白いものだった。資料館の展示を見た後は資料館近くの三角山にあるニ曲城を見に向った。

ニ曲城は鈴木出羽守の居城で、麓の殿様屋敷という場所に住んでおり、山の上はいざという時に立て籠もるための場所だった。鈴木出羽守は後に鳥越城を築いて移り住むが、その後も城は一向宗の山内衆の拠点となり、織田軍との戦いではこの城も何度も戦場となった。

ニ曲城も山道が整備されており、入り口にはしっかり杖も用意されていたが、入り口の階段は湧き水で濡れているせいか、かなり滑りやすくなっており、これは少々問題なのでは思われる。

谷の部分を登る山道を進むと、中腹あたりに谷を塞き止める砂防ダムのような土塁があり、これがなんとも特徴的な遺構だった。谷から山の尾根の堀切の部分に登ると、掘切の上には比較的大きな郭があり、そこから山頂までは沢山の小さな腰郭が造られていた。

そこから腰郭伝いに山の斜面を登ると、すぐに三角山の山頂の本丸へと辿り着いた。本丸は鳥越城ほど高くないものの木々が切り払われているために眺めは絶景で、眼前には鳥越城の城山の全景を見渡すことができた。なお、山頂には小さな社があり、登ってくる時の山道にも古い階段の残骸のようなものがあったので、廃城後も神域として利用されていたのかもしれない。

山頂まで登った後は登ってきた道とは逆の道から降りて、隣の山へと登ったが、こちらの山の上には三角山と違い明確な遺構は無かった。しかし、見ようによっては山頂の平場の外側に土塁があるようにも見え、正直なところ判断はできなかった。

隣の山の山頂を確認した後は再び谷へと降り、そこから下山したが下山途中にには前述の砂防ダムのような土塁の遺構が三重に渡って確認でき、さらには山の中腹に石切り場も確認できたが、この石切り場がいつの時代のものかはよく判らなかった。また、周囲には石切の残骸なのか石積みの残骸なのか良く判らない石が散乱しており、まだ発掘中のような場所も見受けられた。全体的に良く判らない遺構もあったが、小さいながらもここはなかなか面白い城跡だった。

10月29日第二次北陸遠征・その4(石川県白山市)2009年11月05日 21時20分36秒

白山比咩神社の南参道(表参道)
【白山比咩神社】

ニ曲城を散策した後は再び手取川沿いに来た道を戻り、鶴来町の加賀一の宮へと立ち寄った。いわゆる白山神社の総本社とされる白山比咩神社へと参拝するためである。

白山比咩神社は白山信仰から生まれた神社で、奥宮は白山の山頂にある。本宮は元々は舟岡山にあったが、火事などの理由で何度か遷宮し、1480年に現在の場所に落ち着いたという。

南側の参道より神社の境内へと向ったが、太陽が傾きかけてきたためか、木々が立ち並ぶ参道はうっすらと暗く、どこか神秘的な雰囲気が漂っていた。参道は緩やかな階段で、しばらく登ると拝殿の前へと辿り着いたが、なぜかここには手取川の説明板があった。説明を読む限りでは手取川の水源が白山だから、神社に関連するものとして設置したようだ。

拝殿で参拝を済ませた後は、総本社を訪れた記念に御守りを購入し、帰りは北側の参道から境内の外へと出た。北側の参道は比較的新しい造りで、手水舎も南参道と違ってかなり新しいものだった。神社の前には広い駐車場があるので、車で来る人向けの参道なのだろう。

10月29日第二次北陸遠征・その5(石川県白山市)2009年11月06日 23時03分02秒

舟岡城の石垣
【舟岡城】

白山比咩神社の参拝を終えた後は、既に太陽が沈みかけていたため、急いで神社のすぐ側に聳える舟岡山へと南側の竹薮の山道から登ることにした。

船岡山はかつて白山比咩神社の本宮が置かれていた場所で、神社が遷宮した後は城として利用されたようで、15世紀頃には一向宗の拠点として坪坂平九郎が城を守っていた。城が織田軍によって攻略された後は丹羽氏、続いて前田氏の城となり、前田氏家臣の高畠氏が置かれたという。

倒木ならぬ倒竹が道を塞ぐ山道を登っていくと、山の上の削平地へと辿り着いたが、切岸だと思った郭の斜面は良く見ると石積みとなっており、日が沈みかけて暗い森の中な上に草木や土に埋もれて確認し辛かったが、確かに郭の側面には石積みの跡が確認できた。

登った先の郭(出丸?)には郭を仕切るような土塁があり、土塁の先は広い郭になっていたが、郭の中央あたりには白山比咩神社創始之地の石碑が建っていた。資料の郭名の標記がかなりいい加減なため判りづらいがたぶんここが本丸なのだろう。

本丸の北側の大きな空堀の土橋を渡った先の郭が恐らく二の丸で、雑木林の中を細々と山道が続いていた。ここの郭の土橋の西側には算木積みのような石積みがあり、てっきり全て野面積みかと思っていただけにこれには少々驚いてしまった。たぶん丹羽氏か前田氏の時代頃に積まれたのだろうか。

郭の外側を通るように伸びる山道を進むと山道が分岐していたので、「馬出し門」の表示の方面へと進んだが、なんだか端が見えないほど広がる森の中を彷徨うことになり、さっぱり馬出し門とやらが見つからなかったので結局分岐点まで戻ることにした。後から地図を見直してみたところ、どうやら一段降りた所で道を間違えて四の丸方面へと進んでいたようである。

分岐点からは北進することにしたが、ここの郭は只管に南北に長く、本丸や二の丸のような技巧的な遺構は見られなかった。また、斜面の部分もただの切岸のようで石積みはここにはもう見られなかった。なんだか良く判らないが矢印看板から推察するとここが三の丸だろうか。

三の丸を抜けて一段下がった郭は只管に広大で、正直なところ郭と呼んでいいか困るほどだったが、看板から推察するとここが四の丸なのだろう。長い道のりを経て四の丸から帯郭のような所に降りると、山道の北口と「青年の家」の建物が見えてきたが、帯郭の矢印看板に「大手山道」を示している道があったため、帯郭沿いに再び山の中へと進むことにした。しかし、途中の矢印看板で「三の丸」と「大手口」を示す分岐点があったのだが、大手口を示す方向は草に覆われて道が無かったため、なんだか良く判らないまま引き返すことにした。

結局北口から森の外へと脱出したが、ちょうどこの船岡山の北口に城跡の地図があり、これを見て初めて東側が大手口だと知ったため、先に北口に着ていれば迷わなかったと少々後悔してしまった。さすがに既に森の中はライトが必要なほど暗くなっていたため、大手口と馬出は諦めることにして今回はここで宿に引き揚げることにした。