10月29日第二次北陸遠征・その6(石川県白山市)2009年11月07日 00時28分26秒

加賀一の宮駅
【加賀一の宮駅】

白山比咩神社を参拝した時に、駅前に人だかりやTVカメラマンが居るのを見て初めてしったのだが、どうやら10月一杯で北陸鉄道の「加賀一の宮」~「鶴来」間が廃線となるそうである。加賀一の宮駅は白山比咩神社の最寄り駅なため、参拝客にとっては打撃になるが、これも経営が苦しい地方鉄道の宿命なのだろう。

舟岡城の散策を終えた頃にはすっかりあたりは暗くなっていたが、せっかくなので加賀一の宮駅から鉄道に乗って金沢方面へと戻ることにした。駅や車内には地元の通勤通学の人に混じって、明らかに廃線記念乗車と見られる人もおり、今週の土曜の運行最終日はさぞかし観光客で賑わうのだろうと考えると、なんともいえない気持ちになった。

10月30日第二次北陸遠征・その7(石川県七尾市)2009年11月08日 22時33分01秒

長坂登城路の途中の七曲り付近
【七尾城】(前編)

遠征三日目は能登方面へと出かけ、今回の旅で最も行きたかった場所である七尾城へと向った。

七尾城は15世紀頃に能登国守護の畠山氏によって築かれた山城で、後に拡張整備されて戦国時代最大の山城となった。1577年に上杉謙信に攻め込まれるが、1年に渡ってその攻撃を退けた。だが、当主が若年だったことから重臣の対立を治められず、重臣の遊佐氏が内応したことで城は開城となったという。後の豊臣政権の時代には前田利家が能登の領主となり七尾城を居城としたが、山城で不便なため、結局海に近い小丸山の丘に新たに城を築いて移り住み、七尾城は廃城となったという。

まず、城に登る前に立ち寄ったのが山の麓にある七尾城史資料館で、館内は狭いものの七尾城に関する縄張り図や発掘結果などもあり、事前勉強にはちょうど良い感じだった。なお、資料館と同じ敷地内に江戸時代の住居である飯田家があって内部に入ることができ、多少近代に改築されている部分もあったが、庭園等もあってなかなか興味深いものだった。

資料館を出た後は古城町に残る総構えの跡を見て、そこから大手道沿いに七尾城への登城を開始した。住宅地から森に入り、工事中のラの池の側を通って進むと、やがて蔵屋敷との分岐点に辿り着いた。蔵屋敷方面は道が判らなかったので今回は無視し、大手道(赤坂口)に従って尾根に取り付く道を登ることにした。

尾根に登った後は只管1本の尾根の上を進む道となり、両脇が断崖だったり、堀底道だったりだったりするものの特に大きな変化は無く、どんどん山の上へと登っていった。途中に時鐘跡があったが、それらしき場所は狭くしかも平坦ではないため、本当にここに時鐘があったのか疑問に思えた。

時鐘跡からさらに登ると、道は七曲へと入り、看板によればここに楼門があったのだという。狭い山道に楼門というのも凄いが、七曲り手前に少し広い空間があるので、そこにあったのだろうか。

七曲りを登ってさらに進むと番所跡があったが、ここは山道の脇にある狭い郭で、今は草木が茂り全体は良く判らなかった。番所跡からさらに登った場所で安寧寺跡との分岐点となり、ここには沓掛跡とされる小さな郭跡があった。ここで登城した家臣は正装をしたというので、ここからがいよいよ城内の中枢ということなのだろう。

分岐点から安寧寺跡へと行く途中には木々が開けた場所があり、ここからは七尾の市街地が遠くに見渡せて絶景だった。安寧寺跡には恐らく畠山氏の庇護する寺があったのだろうが、現在は畠山氏の墓碑がポツンとあるのみで、なんとも盛者必衰を感じる一角だった。

安寧寺跡から袴腰(腰郭)に登り、さらに登った場所が三の丸跡だが、この部分の道は急斜面で何気にきつかった。三の丸跡は比較的広かったが、郭の中央には何やら敷居の跡のような石垣の根の部分が残されていた。復元図でも三の丸は2つの郭に分かれているので、恐らく敷居跡なのだろう。

(後編へつづく)

10月30日第二次北陸遠征・その8(石川県七尾市)2009年11月09日 22時17分36秒

七尾城の調度丸付近の石段
【七尾城】(後編)

三の丸の散策を終えた後は二の丸に向うため一度側面から郭の下に降りたのだが、三の丸と二の丸の間の堀切は以外に深くてなかなかのものだった。おかげで、堀切から二の丸に登る階段は急で、疲れた足には少々きついものがあった。

二の丸は広くは無いものの城の説明看板やベンチがあり、三の丸とは違って、観光客が来るのを意識しているように見えた。まぁ、あの堀切を越えて三の丸へ行くのは本当にこういう場所が好きな人だけだろうが・・・。

二の丸から温井屋敷跡へと降りると、ここら辺は石垣造りになっており、西側の斜面には巨石を何個か積んだ石垣も見られた。復元絵図にはちょうどここらへんに門のようなものが見られるので、城門の石垣だろうか。

温井屋敷から奥に進むと広大な桜馬場の郭となり、ここの側には西の丸があるはずだったが、西の丸のあるはずの場所には小高い藪だらけの丘があり、上がどうなっているかはさっぱり確認できなかった。

桜馬場の先の石垣の向こうには遊佐屋敷跡があり、ここからさらに登った場所が本丸だが、ちょうど山頂付近の開けた部分に積まれた石垣はなんとも立派なものだった。本丸からは七尾市街方面が見渡せてなかなかの絶景だったが、山頂は本丸より少し高い神社が祭られている場所にあり、そこから見る眺めもまた良かった。

本丸でしばし眺めを楽しんだ後は本丸の搦め手側から遊佐屋敷方面へ降り、そこから調度丸へと降りた。この調度丸からは桜馬場斜面の石垣や本丸石垣を見渡すことができるため、なかなか圧巻な景色で、よくここの写真が本やHPで見られるのも納得できるものだった。

調度丸からは立派な石段の道を降りて寺屋敷跡へと向ったが、ここは郭全体が草木に覆われていて遺構は良く判らなかった。寺屋敷跡を散策した後は再び階段を登って調度丸に戻り、駐車場のある方面へと移動した。自分は麓から長坂を登って本丸まで来たためヘトヘトだが、一般の観光客なら車で駐車場まで来て、あとは本丸まで歩いて5分ほどなので、見るだけならさほど苦労はしないのである。

駐車場の側の山の上は長屋敷跡なのだが、登れそうな場所が無く、藪っぽかったのでそこは諦めることにした。また、ここからさらに進むと「城山展望台」という七尾城の百間馬場跡があるが、これも気力の都合で諦めることにした。

七尾城からの下山は元来た道では無く車道ルートを通ることにした。距離で言えば車道ルートは長坂登山道の倍の距離があるのだが、一応車道沿いの方にも七尾城の大門道という登城路があるので、そちらも確認したかったためである。

車道はたまにしか車が通らないため、鳥の鳴き声だけが聞こえる静かな道だったが、車用に何度も道が折れており、やはり少々歩くには無駄に距離が伸びてきついものがあった。しばらく降りた所でやっと大門道跡を発見したが、看板があったのはちょうど登り口の部分で、どうやら降って来る時に降り口の部分は見逃してしまったようだった。

麓の七尾城史資料館付近に着いた時には昼も大分過ぎていたが、そこから市街へと戻り、かなり遅い昼食を取ることにした。

10月30日第二次北陸遠征・その9(石川県七尾市)2009年11月10日 21時07分37秒

小丸山城本丸跡
【小丸山城】

市街で遅い昼食を食べた後は小丸山城へと向ったが、太陽は既に沈みかけていたため、足早に散策することになった。

小丸山城は前田利家によって築かれた平山城で、利家は七尾城を廃して七尾城の城下町を小丸山に移し、今の七尾の街の原型を造ったという。

城跡は公園化されているため、本丸の丘の北側の園道より上へと登ったが、丘の上は「利家とまつ」の銅像が立っていたり、池や四阿が作られていたりと完全に公園となってしまっていた。それでも南側の両隅には櫓台の土台がしっかり残っており、木々で土合の上からの眺めは良くなかったが、遺構が残っているだけでもいい収穫だった。

本丸と天性丸の丘との間には深い堀切があるが、ここには橋が架かっており、橋を渡った先の天性丸の郭もまた公園となっていた。こちら側には特にこれといったものは無かったが、南側に木々が無いため展望が利くのが良かった。ここからは国道と鉄道で分断された大念寺山の郭が見えるが、遠めに見ても住宅地で散策の余地は無さそうだった。

天性丸の郭から堀切へと降りた後は、丘の鞍部にある相撲土俵の脇を通って、もう一つの郭の丘である宮丸へと向った。宮丸は元々は気多本宮社があった場所で、利家が小丸山城を築いた時にここから所口に遷宮されたのだという。宮丸もまた公園の一部で鷲?のオブジェやら庭石のようなものやらがあったが、奥にある石のオブジェのようなものが実は忠魂碑の残骸だというのには少し驚かされた。

一通り散策を終えた後は既に辺りは暗くなりかけていたため、市内で軽く飯を食べてから千里浜の宿へと戻った。

10月31日第二次北陸遠征・その10(石川県小松市)2009年11月11日 23時13分05秒

天守台から二の丸跡方面を見た景色(グランドの大部分はかつて水堀だった)
【小松城】

四日目の最終日は朝起きても体の節々が痛く、おまけに体が重い状態で、三日連続で山城に登ったせいで疲れが取れないのかと思ったら、どうやら風邪を引いたらしく、宿を出て移動中に急に頭痛が襲ってきた。とりあえず金沢に立ち寄って薬を飲んで栄養ドリンクを飲み、なんとか気分だけでも良くなった(プラシーボ効果?)ので、小松市に向かい小松城を散策することにした。

小松城は元は一向宗門徒の若林長門によって築かれた湿地帯に浮かぶ要害だったが、後に織田軍によって攻め落とされている。江戸時代には前田利常の隠居城として再整備され、利常の死後も城番が置かれたという。

小松に着いてまず向った先が芦城公園で、三の丸跡に造られた公園である。教育センター脇より公園に入ったが、すぐに比較的古そうな石垣のようなものが確認できた。もしかすると公園化の際に造られた模造石垣かもしれないが、縄張り図と照らし合わせるとちょうど門のあたりになるので、たぶん遺構なのだろう。

三の丸跡を散策する前に、とりあえず公園に入ってすぐの場所にある市立博物館を訪れたが、なんだか近代の特別展示中で、係員の人に常設展示はやってないと言われてショックを受け退散した。

気を取り直して三の丸跡を散策したが、いわゆる日本庭園風の広い公園になっており、さすがに金沢の兼六園には劣るがなかなかのものだった。城の遺構っぽいものとしては公園の隅に土塁のようなものがあったが、正直遺構かどうかは判らなかった。

三の丸跡を散策した後は、二の丸跡は学校になっているためパスし、天守台が残っている本丸跡を目指した。ちょうど芦城公園から本丸跡へ向っては大勢の子供やその家族と思われる人々が移動しており、どうやら何かのイベントが行われているようだった。ちょうど学校のグランドの隅にある天守台跡に着くとどうやら天守台がチェックポイントらしく大勢の人々で溢れかえっていた。

明らかに自分だけ場違いなのであるが、さすがにイベントが終わるのを待っているのもアレなので、人々に紛れて天守台の周辺を散策することにした。天守台のある本丸跡はあきらかに周囲より高くなっており、西側の本丸の斜面には石垣の一部が現存していた。天守台の石垣はさほど大きくは無いもののなかなか立派で、北側には井戸があった。そして井戸の上を見ると何やら石垣に穴が開いており、どうやら井戸の屋根かまたは水組み用の滑車がここにあったのであろうことが想像できた。天守台といっても周囲より少し高いだけの平地にあるので、頂上からの眺めは民家の二階の屋根から見るようなものだったが、それでも周囲に高い建物が無いためよく見渡すことができた。

本丸跡から引き揚げる途中で、公民館の前に城の郭の一つである「葭島跡」の碑を見つけたが、周囲は住宅地で特に見るべきものは無かった。同様に城の郭の一つの竹島の跡らへんには公園があって、土塁のようなものも見られたが、たぶん特に城の説明には載っていないので公園化でできたものだろう。

本当なら移築城門なども見たかったが、体調が悪い中を薬で誤魔化している状態なので、今回は諦めて小松市を後にした。