10月29日第二次北陸遠征・その5(石川県白山市)2009年11月06日 23時03分02秒

舟岡城の石垣
【舟岡城】

白山比咩神社の参拝を終えた後は、既に太陽が沈みかけていたため、急いで神社のすぐ側に聳える舟岡山へと南側の竹薮の山道から登ることにした。

船岡山はかつて白山比咩神社の本宮が置かれていた場所で、神社が遷宮した後は城として利用されたようで、15世紀頃には一向宗の拠点として坪坂平九郎が城を守っていた。城が織田軍によって攻略された後は丹羽氏、続いて前田氏の城となり、前田氏家臣の高畠氏が置かれたという。

倒木ならぬ倒竹が道を塞ぐ山道を登っていくと、山の上の削平地へと辿り着いたが、切岸だと思った郭の斜面は良く見ると石積みとなっており、日が沈みかけて暗い森の中な上に草木や土に埋もれて確認し辛かったが、確かに郭の側面には石積みの跡が確認できた。

登った先の郭(出丸?)には郭を仕切るような土塁があり、土塁の先は広い郭になっていたが、郭の中央あたりには白山比咩神社創始之地の石碑が建っていた。資料の郭名の標記がかなりいい加減なため判りづらいがたぶんここが本丸なのだろう。

本丸の北側の大きな空堀の土橋を渡った先の郭が恐らく二の丸で、雑木林の中を細々と山道が続いていた。ここの郭の土橋の西側には算木積みのような石積みがあり、てっきり全て野面積みかと思っていただけにこれには少々驚いてしまった。たぶん丹羽氏か前田氏の時代頃に積まれたのだろうか。

郭の外側を通るように伸びる山道を進むと山道が分岐していたので、「馬出し門」の表示の方面へと進んだが、なんだか端が見えないほど広がる森の中を彷徨うことになり、さっぱり馬出し門とやらが見つからなかったので結局分岐点まで戻ることにした。後から地図を見直してみたところ、どうやら一段降りた所で道を間違えて四の丸方面へと進んでいたようである。

分岐点からは北進することにしたが、ここの郭は只管に南北に長く、本丸や二の丸のような技巧的な遺構は見られなかった。また、斜面の部分もただの切岸のようで石積みはここにはもう見られなかった。なんだか良く判らないが矢印看板から推察するとここが三の丸だろうか。

三の丸を抜けて一段下がった郭は只管に広大で、正直なところ郭と呼んでいいか困るほどだったが、看板から推察するとここが四の丸なのだろう。長い道のりを経て四の丸から帯郭のような所に降りると、山道の北口と「青年の家」の建物が見えてきたが、帯郭の矢印看板に「大手山道」を示している道があったため、帯郭沿いに再び山の中へと進むことにした。しかし、途中の矢印看板で「三の丸」と「大手口」を示す分岐点があったのだが、大手口を示す方向は草に覆われて道が無かったため、なんだか良く判らないまま引き返すことにした。

結局北口から森の外へと脱出したが、ちょうどこの船岡山の北口に城跡の地図があり、これを見て初めて東側が大手口だと知ったため、先に北口に着ていれば迷わなかったと少々後悔してしまった。さすがに既に森の中はライトが必要なほど暗くなっていたため、大手口と馬出は諦めることにして今回はここで宿に引き揚げることにした。