11月7日城跡紅葉紀行・その4(福島県須賀川市)2009年11月18日 20時11分54秒

郭跡ではなく開発によって丘が削られて出来た空間
【矢柄城】

宇津峰から塩田口へ下山後、夕暮れ時の山道を通って木曽の集落を目指した。もちろん帰るのが目的だが、道すがらに矢柄城に立ち寄ろうとも考えてこのルートを選んだ。

矢柄城は始まりは定かではないが宇津峰城の支城の一つで、1352年の宇津峰の戦いでは矢柄城に南朝勢が立て籠もっていたが、7月9日に北朝勢の攻撃で落城し、翌年の5月4日には宇津峰の本城もついに陥落して北畠顕信は出羽国へと敗走したという。

車道に沿ってひたすら進み、民家が立つ麓近くまで降りてきた所で矢柄城跡へと辿り着いたが。城跡の丘を削って車道が貫通しており、さらに丘も東側の大部分が削られて何かの廃材置き場のようになっていた。車道の部分はもしかすると掘切の跡なのかもしれないが、今となっては確認のしようも無いので判らない。

丘の西側に回りこむと、ちょうど丘の中腹が畑になっていて、一見すると郭跡のようだが、背後の丘の斜面は土がむき出しになっており、どうも削平されたのは近年になってからのように見えて判断できなかった。実際、古い資料にも「開発によって遺構らしいものは確認できない」とあるので、仮に郭跡だとしても本来はもっと小さいものだったのだろう。なお、同じく資料に丘の上に板碑が1つだけあるとあったが、肝心の丘の頂上に登れなかったので確認できなかった。