10月31日第二次北陸遠征・ラスト(富山県魚津市)2009年11月12日 23時29分18秒

魚津城跡(大町小学校)にある観光用?看板
【魚津城】

小松城跡の散策後は体調が悪いのでそのまま神奈川へ帰ろうと思い移動を開始したが、帰途の途中で富山市に立ち寄って昼食を食べた後、またしても気力が湧いてきたので、帰りがてらに前回の北陸遠征では回避した魚津城へと向うことにした。

魚津城は椎名氏によって築かれたと伝わる城で、後に上杉氏に攻略されて越中国の上杉家の拠点となった。その後、1582年には魚津城は織田軍4万に包囲され、上杉景勝は魚津城救援のために援軍を率いて天神山まで兵を進めたが、この隙を突いて信濃国より織田軍が越後国へと侵攻したために救援を果たせずに退却し、魚津城に篭城した将兵は開城を潔しとせず玉砕したという。

魚津に着いてさっそく城跡の大町小学校へと移動するが、やはり周囲は市街地化して城跡らしきものは見当たらなかった。学校の北口付近には最近立てられたような城跡の看板があり、周囲には天地人の旗も立っていた。

学校の敷地内には城跡の碑があると聞いていたが東口付近には見当たらず、南口へと移動してやっと見つけることができた。しかも南口にはいわゆる観光地によくある顔の部分に穴が開いた直江兼続とお船と看板があり、見た感じ手作りっぽいものだったので、たぶん学校の生徒が製作したのだろう。

とりあえず事前知識通りに遺構らしきものは見当たらないが、パンフレットにあった当時の絵図と現在の地図を付き合わせると、何気に道が現在も一致するのが面白かった。絵図を頼りに本丸大手門跡のあった場所へ向うと、ちょうどそこは学校の西口あたりで、上杉謙信の歌碑と常葉の松(2代目?)が立ていた。ふと、グランドの隅を見ると土塁のような箇所があり、絵図を見るとちょうど本丸の北西隅に該当するが、遺構かどうかは説明が無いので判らなかった。

学校の外に出て土塁っぽいものの外側の車道を移動すると、やはり車道は堀の跡のようで、グランドの北側の道路を挟んだ先の民家には高台のようになっている箇所(恐らく二の丸跡か)もあり、さりげなく遺構の名残が確認できたのは良かった。

城跡をぐるりと一周した後は今度こそ本当に神奈川への帰途に着き、長旅の末に家に着いて即寝込んだが、翌日も体調が戻らなかったのがなんとも自業自得だった(苦笑)

11月7日城跡紅葉紀行・その1(福島県郡山市)2009年11月13日 22時31分21秒

谷田川城の切岸と郭跡
【谷田川城】

北陸地方に出かけているうちに東北地方の紅葉はどんどん進み、気付いた時には各地で落葉だらけになっていたため、慌てて奥州へ紅葉の旅に出かけてきた。目指した場所は霊山と共に奥州南朝の山城として名高い宇津峰である。とりあえず郡山へと移動し、7つある登山口のうちの馬場平口を目指して移動したが、せっかくなのでまず始めに宇津峰城の支城である谷田川城へと立ち寄った。

谷田川城は宇津峰城の北を守る支城の一つで、南朝勢の田村氏の家臣が守っていたとされるが、8月には谷田川に北朝勢が陣を張っているので、それ以前に谷田川城を含む北の支城群は陥落していたと思われる。

城は谷田川の北の丘陵にあり、どちらかというと黒石川に面した丘陵と言った方が良いかもしれない。とりあえず城の東側に大蛇神社という気になる箇所があったので向ってみたが、社は丘の急斜面の途中にあり、特に由緒などを記した看板などは無かった。神社の裏は切岸状態だが、藪が無いので登れないこともないが、他にも気になる箇所があったのでここから登るのは遠慮することにした。

神社から戻った後は丘の北側に回り込んでみたが、こちらは丘の裾を黒石川が流れており、川を渡らないと丘に取り付けないためダメだった。最後は丘の南の田畑が広がる部分から城跡に向ってみたが、ちょうど雑木林と畑?の境界線の部分で藪が無くなっている部分があり、そこから雑木林の中へと入ることが出来た。

雑木林の中には3段に渡って削平された腰郭のような跡があり、丘の頂上も一つの郭のようだった。ただ、頂上より西側の斜面には明確な腰郭は見られず、全体的に自然地形のままの箇所が多いため、この城がどこからの攻撃に備えたものなのかはちょっとよく判らなかった。

蛇足になるが、ここは針葉樹林&笹薮のため紅葉とは関係ない。(大蛇神社にはイチョウの木が1本あったが、まだ完全には黄葉していなかった)

11月7日城跡紅葉紀行・その2(福島県郡山市)2009年11月15日 22時54分44秒

宇津峰城の頂上鞍部から山頂側を見上げた風景
【宇津峰城】(前半)

谷田川城を散策した後は、いよいよ本命の宇津峰に登るため馬場平口へと移動した。馬場平口は谷田川口とも言い7つある登山口のうちの一つで、谷田川から途中までは車道と一緒になっており、宇津峰の鳥居がある馬場平で登山道と車道が分岐している。

宇津峰城は中世に田村荘司によって築かれた山城で、1340年に南朝の鎮守府将軍の北畠顕信を城に向かえるために拡張整備されたという。その後、1347年に北朝勢の総攻撃によって落城したが、1351年に観応の擾乱に乗じて奪還している。しかし、擾乱の終結と共に再び北朝が盛り返して多賀城の北畠顕信を討ち破り、顕信は宇津峰城に退いて立て籠もった。1352年より篭城戦が始まるが、宇津峰城の支城は次々に落城し、宇津峰本城も1353年5月4日についに落城したという。

麓から車道沿いに登り、馬場平の鳥居より山道に入るが、ベンチやトイレがある馬場平を過ぎると一気に森の中となり、自分の足音しか聞こえないくらい辺りは静まり返って少々寂しくも思えた。山道は沢沿いに登って堀底道のような場所を通り、急斜面をくの字に登ると再び車道と合流となった。

車道の先にも山道が続いているが、今回は御井戸清水に寄りたかった為、再び車道沿いに登ることにした。車道の途中には見晴台があり、ここからは遠くの郡山市街を望むことができ、なかなかの絶景ポイントだった。

見晴台からさらに登ると車道の終点があり、ここから再び山道に入って少し登った場所に御井戸郭があった。この郭には四阿があり、北側には展望も利くが見晴台よりは視界が狭いので絶景とは言い難い。しかし、この郭の一番の特徴は清水であり、郭の付け根からは今も懇々と水が湧き出る御井戸清水があった。この清水はかつて篭城していた南朝の将(北畠顕信や守永親王など)も飲んでいたとされ、なかなか興味深い場所である。

清水のある場所から切岸をほぼ直登するような道を登ると次々に階段状に小さな郭が現れ、登り切った場所が山頂のちょうど鞍部のような場所だった。とりあえずゴツゴツした石碑がある方へ登ったが、ここらへんが山頂らしく雲水峰の碑や南朝関係の碑などがあった。頂上周辺には少しピークを過ぎたような紅葉した木々があったが、本丸の急崖に咲いていたカエデ?などは真っ赤でなかなか綺麗だった。

本丸から東へ進むと少し降りた場所に長平郭があり、一面笹薮だったため内部には入れなかったが、本丸以上の広さはありそうだった。長平郭よりさらに降ると、ちょうど長平の郭の直下に横掘があり、正直なところ堀は無いんじゃないかと思っていただけに、東乙森方面から登ってくる敵に備えた堀の遺構が明確に残っているのはなんとも嬉しかった。

横掘よりさらに降ると東乙森や、柴塚城口、埋平口などに行けるが、今回はこちらから下山するつもりは無いので再び登って山頂へと戻った。

(後半へつづく)

11月7日城跡紅葉紀行・その3(福島県須賀川市)2009年11月16日 20時52分17秒

宇津峰城の千人溜
【宇津峰城】(後半)

横掘から山頂へと戻った後は、今度は鞍部の逆側の頂に登ったが、ここは千人溜という方形の郭になっており、周囲は全て土塁に囲まれていて、山の上にハッキリと遺構が残っているのは素晴らしかった。ただ、千人というのは少々大げさすぎるのではなかろうか(笑)

郭の外の鳥居のあたりからは南の方面を見渡すことができたので、ここでしばし休憩したが、麓から持ってきたパンの袋がいつのまにかはちきれそうになっていたのには少々驚いた。標高は700mに満たないし、麓からの比高差は400mほどなので、大して気圧は変わらないと思ったのだが・・・。

休憩を終えた後はさらに西側の郭(鐘撞堂跡)を散策し、そのまま気付かずに塩田口方面へ降りるつもりが馬場平口方面へ下山しそうになったが、途中で気付いて再び山頂へと引き返した。塩田口方面の山道は千人溜の外の鳥居から出てすぐの場所にあり、獣道かと思うほど狭かったのでうっかり見逃してしまっていたのだった。

塩田口方面への山道を下山するとすぐに道の脇に星神社の祠があったが、注連縄などは朽ちており、木の鳥居もなかなか年季の入ったもので、忘れられた社といった感じ雰囲気があった。

山道はさほど急ではないものの、階段が崩れていたりと少々荒れ道で意外と歩き難くかったが、思ったよりも早く西乙森との間の鞍部まで下山できた。この鞍部の部分は広い空間になっていたが、トイレやベンチなどがあり、恐らく公園化で削平されたもので、実際にここに郭があったのかはよく判らなかった。ただ、公園といってもここは登山客しか来ない気がするので、少々寂しい雰囲気だった。

鞍部からは西乙森へ登ったものの、ここは二つの頂がある小山で、宇津峰の支城と伝わるものの、ハッキリとした遺構は確認できなかった。山の西側には古峰神社の祠と東屋があるものの、周囲は藪に囲まれて展望はイマイチで、さらに道は袋小路になっており、正直ここも訪れる人は居なさそうな雰囲気があった。

西乙森から再び元来た道を戻って鞍部に降り、そこから沢沿いに山道を降ると塩田口へと辿り着くことが出来た。宇津峰山を登り始めたのが12時頃で、かなり出遅れていたため日没までに下山できるか不安だったが、思いのほか早く辿り着けてホッとすることが出来た。だが、塩田口も山の中腹にあるため、ここからさらに麓まで下山する道も長かったのは少々誤算だった。

11月7日城跡紅葉紀行【閑話】2009年11月17日 00時10分17秒

膨らんでしまったパンの袋
比高200m程度の山に登った時はこんなことは無かったのですが、宇津峰山(標高676.9m、比高約400m)ではパンの袋が膨張してパンパンに・・・。もっと標高が高い場所じゃないとこうならないだろうと思っていたので、少々驚かされました。