9月24日慶長出羽合戦遠征・その12(山形県高畠町)2009年10月08日 22時32分20秒

亀岡文殊堂
【亀岡文殊堂】

高畠の街から山沿いに南下するとやがて亀岡の集落に着いた。綺麗な三角形の文殊山を背にするこの場所には『日本三文殊』の一つである『亀岡文殊』があり、受験シーズンには県内県外各地からやってきた多くの受験生で賑わうのだという。

亀岡文殊は807年頃に徳一上人によって堂宇が建立されたのが始まりで、その後も時の領主達に保護され、江戸時代には将軍綱吉から直々に御朱印を賜ったという。この文殊堂は上杉氏の時代も重要な場所として保護され、ここで直江兼続などの家臣による歌会などが開かれ、それが『亀岡百首』として残されている。

集落の中心から文殊堂へとまっすぐに登る道を進むとやがて仁王門が見えてくるが、車道は仁王門を迂回して大聖寺の前まで伸びている。とりあえず、仁王門を潜って正面から階段を登っていくとやがて大聖寺に着くが、文殊堂はここからさらに上にあり、道なりに登っていくと終点の文殊堂へと辿り着いた。

文殊堂に参拝した後は記念に学業のお守りを買い、この文殊堂を訪れたもう一つの目的の歌会の資料の展示を見ることにした。展示はお守り等を売っている場所の隣の休憩所のような空間にあり、壁には歌の写真や現代語訳等が展示されていた。芸術には疎いため歌の良し悪しはさっぱり判らなかったが、なかなか面白く興味深いものだった。

文殊堂の参拝を終えた後は大聖寺の付近まで降り、駐車場付近の土産物屋で一休みしてから南の岬の上にある青麻神社を訪れた。この神社のある場所は小館山といい、伊達家家臣の飯坂茂広の館跡の一つだという。なお、神社は元々は飯坂氏の西館の邸内にあったが、飯坂氏が伊達家の移封に従って仙台へと移った後に小館山に遷宮したのだという。

大聖寺方面からだとちょうど神社の背後から登ることになるが、この裏の道は苔の絨毯と化しており滑りやすく危険なもので、手すり代わりのロープが転倒防止に張られていた。まぁ、道の脇の土の上を登れば安全ではあるが・・・。小館山の上は細長い削平地で神社のある場所からさらに西へ階段状に郭が展開しており、たしかに館跡の名残が見て取れた。神社に参拝した後は西側の階段状の郭跡から道なりに降っていったが、途中で堀切と土橋のような部分に辿り着き、その先にも神社の社があった。この社には特に表示が無かったため、青麻神社のものなのか別の神社なのかは良く判らなかった。この社のある部分が岬の先端部で、ここから降りると亀岡の集落の南北の通りへと出た。

亀岡散策を終えた頃にはもう日が沈みかけていたため、ここで本日の散策を追え、高畠町から山形市へと移動して山形で宿をとった。