雑記:残念な大河ドラマ「天地人」 ①春日山城 ― 2009年09月01日 00時37分50秒
【春日山城の模型】
NHK大河ドラマは幼少の頃から欠かさず見ている数少ないTV番組だが、ファミリードラマ路線に転換してからは見応えが無くなってきた。今年の「天地人」もやはりだんだん見るのが辛くなってきたが、ガス抜きも兼ねて少し我慢ならない所でも書いてみようと思う。原作も読んでみた感じでは淡々と状況説明が続くだけなのでストーリーはこの際諦めることとして、やはりこのサイトとも関連する点で一番気になったのは「城」である。
先週、ついに越後の春日山城を去って会津の若松城へと移ってしまった上杉家だが、この春日山城の全景シーン(CG)を初めてTVで見た時、「何だこれは?」と思わず首を捻ってしまった。山そのものはこの際目を瞑るとしても、城下に総構えや城下町が無いどころか、砂浜が広がって海があるというのがおかしすぎるのである。春日山城を訪れたことがある人なら判ると思うが、この城は海とは3kmほど離れた内陸にあり、南北と西を山に挟まれ、東側にのみ関川沿いの平地が開けている場所に立地しているのだ。今思えばこれは落水城と間違えたのではないのだろうかと思いたくなるくらいで、このドラマを見た何も知らない視聴者が、春日山を観光で訪れて「昔はここは海だったんだぜ」と言い出さないだろうかと心配になってくる。
他のニュースサイトで読んだ話だが、大河ドラマに絡む春日山の観光で一つ困ったエピソードがあった。ある日、春日山を訪れた観光客が地元の方に「上杉謙信の洞窟はどこか?」と尋ねたそうだ。もちろん春日山には洞窟なんてないので地元の方は「そんなの聞いたことが無い」と答えたという。どうやらこの観光客は大河ドラマ「天地人」で謙信が毎回洞窟に篭るシーンを見てこれが実際にあるものと思い込んでいたらしい。当然これは架空の場所であり、史実に照らし合わせるなら謙信が毎日篭っていた場所は毘沙門堂という春日山城の本丸よりやや北にある小さな御堂だったという。たぶんドラマのスタッフは「風林火山」の時と差別化をしたくて洞窟にしたのだろう。
それにしても、ドラマと現実(史実)は別物として見るのは常識としても、あまりにも剥離しすぎるのも少々考え物だと思う。
NHK大河ドラマは幼少の頃から欠かさず見ている数少ないTV番組だが、ファミリードラマ路線に転換してからは見応えが無くなってきた。今年の「天地人」もやはりだんだん見るのが辛くなってきたが、ガス抜きも兼ねて少し我慢ならない所でも書いてみようと思う。原作も読んでみた感じでは淡々と状況説明が続くだけなのでストーリーはこの際諦めることとして、やはりこのサイトとも関連する点で一番気になったのは「城」である。
先週、ついに越後の春日山城を去って会津の若松城へと移ってしまった上杉家だが、この春日山城の全景シーン(CG)を初めてTVで見た時、「何だこれは?」と思わず首を捻ってしまった。山そのものはこの際目を瞑るとしても、城下に総構えや城下町が無いどころか、砂浜が広がって海があるというのがおかしすぎるのである。春日山城を訪れたことがある人なら判ると思うが、この城は海とは3kmほど離れた内陸にあり、南北と西を山に挟まれ、東側にのみ関川沿いの平地が開けている場所に立地しているのだ。今思えばこれは落水城と間違えたのではないのだろうかと思いたくなるくらいで、このドラマを見た何も知らない視聴者が、春日山を観光で訪れて「昔はここは海だったんだぜ」と言い出さないだろうかと心配になってくる。
他のニュースサイトで読んだ話だが、大河ドラマに絡む春日山の観光で一つ困ったエピソードがあった。ある日、春日山を訪れた観光客が地元の方に「上杉謙信の洞窟はどこか?」と尋ねたそうだ。もちろん春日山には洞窟なんてないので地元の方は「そんなの聞いたことが無い」と答えたという。どうやらこの観光客は大河ドラマ「天地人」で謙信が毎回洞窟に篭るシーンを見てこれが実際にあるものと思い込んでいたらしい。当然これは架空の場所であり、史実に照らし合わせるなら謙信が毎日篭っていた場所は毘沙門堂という春日山城の本丸よりやや北にある小さな御堂だったという。たぶんドラマのスタッフは「風林火山」の時と差別化をしたくて洞窟にしたのだろう。
それにしても、ドラマと現実(史実)は別物として見るのは常識としても、あまりにも剥離しすぎるのも少々考え物だと思う。
9月7日奥羽古城散策更新 ― 2009年09月07日 23時47分32秒
奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/
今回は甲信越地方に城を6箇所追加しました。あとは、青森県の一覧表示を修正し、岩手県に新たに一覧表示を追加しました。
青森県の一覧表示については弘前城と中里城の評価を改めて★を一つ追加しました。これは一覧表示機能は東北地方のみの実装の予定なので、評価も少々甘く修正した結果です。
そして今回新たに追加した岩手県の一覧表示についてですが、金ヶ崎城が「観光向け」になっているのはいわゆる武家屋敷を観光資源として換算したためです。城跡そのものは「玄人向け」(城址マニア向け)だと思いますが・・・。あと、平泉の高館は義経堂で既に観光スポットになっているので「観光向け」に分類しています。こちらも城跡そのものは「玄人向け」だと思います・・・。
今回は甲信越地方の中の新潟県の城を追加しました。浦佐城は去年地元の方々がボランティアで整備していた城跡で、木々が刈られたばかりの頂上からの眺めはなかなか良かったですが、本丸や実城に登る際に滑り落ちた苦い思い出があります(苦笑)。蔵王堂城は長岡市の市街地の北側にある平城で、あまり期待はしていなかったのですが、主郭の土塁が郭の形が判るほどハッキリ残っていたのが印象的でした。新潟城に関しては結局収穫が無かったのですが、新発田重家の乱における重要な城なので、いつか必ず遺構が見つかることを願っています・・・。五十公野城は本丸周辺から二重堀あたりまでの遺構はハッキリしているのですが、それより東側の丘陵地帯の遺構がいまいちよく確認できなかったため、思いのほか単純な構造の城に見えました。五十公野御茶屋は掲載する予定では無かったのですが、一応溝口秀勝さんが新発田城を修築する前に住んでいた縁の場所なので居館跡として掲載しました。江上館は想像していたよりも立派な方形館だったので、かなり感動しました。そばに坊城館跡もありましたが、こちらはちょうどこれから公園として整備するらしく、現状はただの更地で見るべきものはありませんでした。
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/
今回は甲信越地方に城を6箇所追加しました。あとは、青森県の一覧表示を修正し、岩手県に新たに一覧表示を追加しました。
青森県の一覧表示については弘前城と中里城の評価を改めて★を一つ追加しました。これは一覧表示機能は東北地方のみの実装の予定なので、評価も少々甘く修正した結果です。
そして今回新たに追加した岩手県の一覧表示についてですが、金ヶ崎城が「観光向け」になっているのはいわゆる武家屋敷を観光資源として換算したためです。城跡そのものは「玄人向け」(城址マニア向け)だと思いますが・・・。あと、平泉の高館は義経堂で既に観光スポットになっているので「観光向け」に分類しています。こちらも城跡そのものは「玄人向け」だと思います・・・。
今回は甲信越地方の中の新潟県の城を追加しました。浦佐城は去年地元の方々がボランティアで整備していた城跡で、木々が刈られたばかりの頂上からの眺めはなかなか良かったですが、本丸や実城に登る際に滑り落ちた苦い思い出があります(苦笑)。蔵王堂城は長岡市の市街地の北側にある平城で、あまり期待はしていなかったのですが、主郭の土塁が郭の形が判るほどハッキリ残っていたのが印象的でした。新潟城に関しては結局収穫が無かったのですが、新発田重家の乱における重要な城なので、いつか必ず遺構が見つかることを願っています・・・。五十公野城は本丸周辺から二重堀あたりまでの遺構はハッキリしているのですが、それより東側の丘陵地帯の遺構がいまいちよく確認できなかったため、思いのほか単純な構造の城に見えました。五十公野御茶屋は掲載する予定では無かったのですが、一応溝口秀勝さんが新発田城を修築する前に住んでいた縁の場所なので居館跡として掲載しました。江上館は想像していたよりも立派な方形館だったので、かなり感動しました。そばに坊城館跡もありましたが、こちらはちょうどこれから公園として整備するらしく、現状はただの更地で見るべきものはありませんでした。
9月8日会津遠征(上杉ゆかりの地編)・その1(栃木県日光市) ― 2009年09月12日 22時59分50秒
【鶴ヶ渕城】
今回はまとまった休みが取れたため、福島県の会津へと出かけてきた。会津へ出かけることになった理由は、会津若松城の上杉家関連の展示が大河ドラマに合わせて強化されていることと、神指城が地元の方々によってちょっぴり整備されたと新聞で知ったことが原因である。今回も初夏の会津遠征同様に下野街道(会津西街道)方面から移動し、途中で栃木県日光市の上三依へと寄道をした。
この地は栃木県ではあるが、中世の長沼氏の時代からずっと会津の領主の治める南端の地であり、上杉景勝が会津領主となった時代には白河口同様に関東との重要な境界の地だった。このため、上杉家は長沼氏が築いた鶴ヶ渕城を重視し、これに突貫工事で改修を加えて街道を封鎖する関塞を築き上げた。
日光から続く街道と塩原から峠を越えて来た街道が交差する上三依の地からさらに北上すると、ナラ入沢の分岐点を越えた先に鶴ヶ渕城跡があった。本来は東側にそびえる姥捨山も城跡だが、麓を歩いた限りでは登山道らしきものは無く、急斜面のため草木の多い夏場は登るのは大変そうなので、今回は無理して登らないことにした。
姥捨山側(国道側)から男鹿川に架かる橋を渡った対岸には鶴ヶ渕城の麓を通る街道を遮断するための防塁があり、こちらは土塁と空掘がはっきりと確認できた。中でも東西に伸びる塁壁から突出た馬出の部分が印象的で、馬出の外への出口はなぜか沢側にあり、説明板によれば鶴ヶ渕城塁壁の内部には街道から川を渡って馬出を通って入るように出来ていたのだという。
この塁壁は西の山の中腹まで野岩鉄道の線路を越えて続いているそうだが、笹薮が酷くて確認はできなかった。ちなみに東の姥捨山には擂鉢郭など上杉家独特の遺構が見られるそうだが、西の山(田代山の支峰)には中腹まで塁壁と堀が延びているだけで郭等は造られていないそうである。なお、塁壁の内側も人の背丈ほどある笹薮が酷いため、整備されている部分以外は散策できなかった。
今回はまとまった休みが取れたため、福島県の会津へと出かけてきた。会津へ出かけることになった理由は、会津若松城の上杉家関連の展示が大河ドラマに合わせて強化されていることと、神指城が地元の方々によってちょっぴり整備されたと新聞で知ったことが原因である。今回も初夏の会津遠征同様に下野街道(会津西街道)方面から移動し、途中で栃木県日光市の上三依へと寄道をした。
この地は栃木県ではあるが、中世の長沼氏の時代からずっと会津の領主の治める南端の地であり、上杉景勝が会津領主となった時代には白河口同様に関東との重要な境界の地だった。このため、上杉家は長沼氏が築いた鶴ヶ渕城を重視し、これに突貫工事で改修を加えて街道を封鎖する関塞を築き上げた。
日光から続く街道と塩原から峠を越えて来た街道が交差する上三依の地からさらに北上すると、ナラ入沢の分岐点を越えた先に鶴ヶ渕城跡があった。本来は東側にそびえる姥捨山も城跡だが、麓を歩いた限りでは登山道らしきものは無く、急斜面のため草木の多い夏場は登るのは大変そうなので、今回は無理して登らないことにした。
姥捨山側(国道側)から男鹿川に架かる橋を渡った対岸には鶴ヶ渕城の麓を通る街道を遮断するための防塁があり、こちらは土塁と空掘がはっきりと確認できた。中でも東西に伸びる塁壁から突出た馬出の部分が印象的で、馬出の外への出口はなぜか沢側にあり、説明板によれば鶴ヶ渕城塁壁の内部には街道から川を渡って馬出を通って入るように出来ていたのだという。
この塁壁は西の山の中腹まで野岩鉄道の線路を越えて続いているそうだが、笹薮が酷くて確認はできなかった。ちなみに東の姥捨山には擂鉢郭など上杉家独特の遺構が見られるそうだが、西の山(田代山の支峰)には中腹まで塁壁と堀が延びているだけで郭等は造られていないそうである。なお、塁壁の内側も人の背丈ほどある笹薮が酷いため、整備されている部分以外は散策できなかった。
9月9日会津遠征(中世編)・その2(福島県下郷町) ― 2009年09月13日 21時51分10秒
【姫の宮(館本館跡?)】
初日は会津入りして湯野上温泉に泊まり、翌日は会津本郷に出かける予定だったが、朝に宿を出て時間的余裕があったため、長沼氏の時代に湯野上温泉の領主だった湯原右京の居館跡を確認することにした。
湯野上の集落より橋(小さい方)を渡った対岸には「舘乃湯」があり、いかにも館跡があったような地名が残っているが、舘乃湯のある場所は狭く、護岸技術がある今だから建造物があるような所なので、ここが館跡とは思えない。
舘乃湯の背後の山にも登ってみたが、緩やかな斜面はあるものの削平地は無く、強いて言えば意味深な古い墓のようなものがある程度だった。
舘乃湯と新湯の間には畑が広がる比較的広い空間があり、館があったのは恐らくここだろうと思うが、明確な遺構は確認できなかった。強いて言えば舘乃湯との間に竪堀を護岸して道路を通していることくらいで、あとは畑の中に「姫の宮」なる祠があるくらいだった。余談になるが、「姫の宮」については現地では何も情報を得られなかったが、帰ってきてから調べた感じでは高倉宮の側室の桜木姫にちなんだ社らしい。
初日は会津入りして湯野上温泉に泊まり、翌日は会津本郷に出かける予定だったが、朝に宿を出て時間的余裕があったため、長沼氏の時代に湯野上温泉の領主だった湯原右京の居館跡を確認することにした。
湯野上の集落より橋(小さい方)を渡った対岸には「舘乃湯」があり、いかにも館跡があったような地名が残っているが、舘乃湯のある場所は狭く、護岸技術がある今だから建造物があるような所なので、ここが館跡とは思えない。
舘乃湯の背後の山にも登ってみたが、緩やかな斜面はあるものの削平地は無く、強いて言えば意味深な古い墓のようなものがある程度だった。
舘乃湯と新湯の間には畑が広がる比較的広い空間があり、館があったのは恐らくここだろうと思うが、明確な遺構は確認できなかった。強いて言えば舘乃湯との間に竪堀を護岸して道路を通していることくらいで、あとは畑の中に「姫の宮」なる祠があるくらいだった。余談になるが、「姫の宮」については現地では何も情報を得られなかったが、帰ってきてから調べた感じでは高倉宮の側室の桜木姫にちなんだ社らしい。
9月9日会津遠征(上杉ゆかりの地編)・その3(福島県会津美里町) ― 2009年09月14日 22時22分54秒
【向羽黒山城】(前編)
館本館跡を散策した後は、湯野上温泉から北上して会津若松の市街に入る前に阿賀川を渡り、会津本郷へと入った。目的地は会津最大の山城である向羽黒山城である。
向羽黒山城は芦名盛氏の隠居所として1568年に築かれたというが、隠居所というよりも詰の城である。事実、芦名氏の滅亡後に会津の領主となった伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝はこの城に改修を加えており、特に上杉景勝の頃にはこの城が対徳川家康戦の最後の砦とされていたという。
会津本郷に着いてからはインフォメーションセンターから白鳳三山の散策を開始した。まず、登ったのが観音山で、向羽黒山城の北端部分だが特に面白い遺構は無く、山頂の手前に大山祇神社があるのと、山頂に厩嶽馬頭観音堂跡があるくらいで、強いて言えばその間に堀切のような箇所があるくらいだった。
観音山を降りて鞍部を進み、続けて白鳳三山第二の山である羽黒山へと登った。羽黒山については観音山とちがって小さな郭跡が確認できたが、山頂はさして広くは無く、木々が邪魔で展望も悪かった。山頂から南に下った箇所には羽黒神社があり、ここの郭と神社の階段を下った場所の郭が比較的広くなっていた。
羽黒山から下山して白鳳三山の最高峰の岩崎山へ続く道を進むと、東の谷地に広い郭跡が確認できた。遺跡の地図によればここが芦名盛氏の隠居所だというが、夏草で全体が覆われていたため内部までは散策できなかった。
続けて西の小さな丘に登ったが、非常に緩やかな斜面に芝生が敷かれた非常に見晴らしの良い場所だが、これでも三の丸跡という標柱が建っていた。なんとも防御性の無い郭だが、この緩やかな斜面は馬場として扱われていたらしく、城の説明によれば芦名氏はここで兵の訓練を行っていたのだという。
三の丸を越えると、すぐに羽黒山と岩崎山の間を切り裂くような巨大な堀切があり、いよいよ城の中枢に入ることを実感させられる。車道に沿って山を登っていくと、途中に横掘と水手曲輪群へと入る登城口が見えたが、思いのほか藪になっていたのでここからの侵入は諦めた。
御茶屋場まで登ると二の丸へ続く「みかえり坂」があったので、そこから侵入したが、思いのほか急斜面で、なかなか気が抜けない道だった。途中には横堀や枡形の跡が確認できたが、石積だけはなんだか後世に手が加えられたように見えて「これは当時の遺構だ」と断定できなかった。
二の丸のピークはなかなか広い郭となっていて、説明によればここの発掘調査で建物の跡が発見されており、実質的に城の中心となる御殿があったとされているそうである。
二の丸まで登ったが、今度は北側に下り水手曲輪群を見に向ったが、ちょうどこの二の丸と水手曲輪の間の部分の刈り払いが行われており、二の丸へと入る折れ曲がった虎口跡が明確に見える様子はなかなか素晴らしかった。また、この虎口の手前の窪地には水手の一つがあり、中央を石積で区切った2つの升のような窪地はなんとも興味深い遺構だった。ただ、残念ながら窪地の上から見た感じでは現在は水は枯れているようだった。なお、残りの水手曲輪群については草木が深かったため確認するのは諦めることにした。
水手曲輪から再び二の丸へと登り、さらに二の丸から本丸へと続く道を降りたが、この降りきった場所には大きな堀切があり、現在はここを車道が通っていた。当時もこの堀切は本丸への堀底道として使われていたらしく、城の説明板によればここに門があったのだという。
(後編へつづく)
館本館跡を散策した後は、湯野上温泉から北上して会津若松の市街に入る前に阿賀川を渡り、会津本郷へと入った。目的地は会津最大の山城である向羽黒山城である。
向羽黒山城は芦名盛氏の隠居所として1568年に築かれたというが、隠居所というよりも詰の城である。事実、芦名氏の滅亡後に会津の領主となった伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝はこの城に改修を加えており、特に上杉景勝の頃にはこの城が対徳川家康戦の最後の砦とされていたという。
会津本郷に着いてからはインフォメーションセンターから白鳳三山の散策を開始した。まず、登ったのが観音山で、向羽黒山城の北端部分だが特に面白い遺構は無く、山頂の手前に大山祇神社があるのと、山頂に厩嶽馬頭観音堂跡があるくらいで、強いて言えばその間に堀切のような箇所があるくらいだった。
観音山を降りて鞍部を進み、続けて白鳳三山第二の山である羽黒山へと登った。羽黒山については観音山とちがって小さな郭跡が確認できたが、山頂はさして広くは無く、木々が邪魔で展望も悪かった。山頂から南に下った箇所には羽黒神社があり、ここの郭と神社の階段を下った場所の郭が比較的広くなっていた。
羽黒山から下山して白鳳三山の最高峰の岩崎山へ続く道を進むと、東の谷地に広い郭跡が確認できた。遺跡の地図によればここが芦名盛氏の隠居所だというが、夏草で全体が覆われていたため内部までは散策できなかった。
続けて西の小さな丘に登ったが、非常に緩やかな斜面に芝生が敷かれた非常に見晴らしの良い場所だが、これでも三の丸跡という標柱が建っていた。なんとも防御性の無い郭だが、この緩やかな斜面は馬場として扱われていたらしく、城の説明によれば芦名氏はここで兵の訓練を行っていたのだという。
三の丸を越えると、すぐに羽黒山と岩崎山の間を切り裂くような巨大な堀切があり、いよいよ城の中枢に入ることを実感させられる。車道に沿って山を登っていくと、途中に横掘と水手曲輪群へと入る登城口が見えたが、思いのほか藪になっていたのでここからの侵入は諦めた。
御茶屋場まで登ると二の丸へ続く「みかえり坂」があったので、そこから侵入したが、思いのほか急斜面で、なかなか気が抜けない道だった。途中には横堀や枡形の跡が確認できたが、石積だけはなんだか後世に手が加えられたように見えて「これは当時の遺構だ」と断定できなかった。
二の丸のピークはなかなか広い郭となっていて、説明によればここの発掘調査で建物の跡が発見されており、実質的に城の中心となる御殿があったとされているそうである。
二の丸まで登ったが、今度は北側に下り水手曲輪群を見に向ったが、ちょうどこの二の丸と水手曲輪の間の部分の刈り払いが行われており、二の丸へと入る折れ曲がった虎口跡が明確に見える様子はなかなか素晴らしかった。また、この虎口の手前の窪地には水手の一つがあり、中央を石積で区切った2つの升のような窪地はなんとも興味深い遺構だった。ただ、残念ながら窪地の上から見た感じでは現在は水は枯れているようだった。なお、残りの水手曲輪群については草木が深かったため確認するのは諦めることにした。
水手曲輪から再び二の丸へと登り、さらに二の丸から本丸へと続く道を降りたが、この降りきった場所には大きな堀切があり、現在はここを車道が通っていた。当時もこの堀切は本丸への堀底道として使われていたらしく、城の説明板によればここに門があったのだという。
(後編へつづく)