7月31日里帰り寄道紀行・その1(青森県むつ市)2009年08月06日 23時26分38秒

フェンス左が自衛隊の敷地、右が城ヶ沢小学校の敷地
【順法寺城】

困ったことに今年はお盆が仕事で潰れることが決定したため、一足先に休暇をとって里帰りすることにした。しかし、毎度毎度ただ帰るだけじゃ勿体無いので、普段は立ち寄らない場所へ寄道していくことにした。

早朝に家を出て午後のまだ日が登っているうちに陸奥国の下北郡へと辿り着いたので、さっそく軍都大湊を目指して移動した。別に自衛隊を見学するためではなく、今回の目的である『蠣崎蔵人の乱』に関連する史跡散策のためである。

市街地から大湊基地を抜けて海沿いに出た場所が城ヶ沢の集落で、地名はかつてこの地にあった順法寺城に由来するという。

順法寺城は中先代の乱で亡くなった護良親王の子の良尹王が、南部家の庇護を受けて下向し居城とした場所で、名前の通り天台宗の順法寺を整備して居城としたものである。良尹王の子孫は5代に渡ってここに住み、北部王家と称されるが、5代目の義純は家臣の蠣崎蔵人によって謀殺され、結果的に滅亡している。

とりあえず城ヶ沢小学校の場所が順法寺城跡とされているため、訪問してみたが、思いのほか海に近い平地で特に城跡らしきものは確認できなかった。一応、学校の敷地の入り口の近くに木製の城址碑と説明板があったが、説明板には石垣や3階櫓など南北朝時代の東北の城郭にはあり得ないようなものが書かれており、明らかに後世の誇張表現のため正確な縄張りなどの情報は得られなかった。しかも、学校の隣はなんと自衛隊の敷地でフェンスが張り巡らされ、散策の余地はほとんど無かった。伝承によれば海軍基地が出来る前は土塁や堀が確認できたと伝わるため、城跡は現在の基地の敷地内にあった可能性もある。

城ヶ沢を散策した後は大湊の市街へと戻ったが、大湊の高台から見た港は芦崎の洲の特異な風景がなんとも面白く、南北朝時代に水運と鉱山で栄えた北部王家の船もここに出入りしていたと想像すると何故か納得できてしまうのが不思議だった。

8月1日里帰り寄道紀行・その2(青森県むつ市)2009年08月07日 21時39分38秒

錦帯城公園(見張曲輪跡)からの眺め
【蠣崎城(錦帯城)】

大湊で一泊した次の日、旧川内町と旧脇野沢村の境界付近にある蠣崎へと出かけた。

蠣崎は南部氏より良尹王付きの家臣として派遣された武田信義が居城とした場所で、武田氏の嫡流は代々蠣崎氏を称した。後に北部王家滅亡の原因となる蠣崎蔵人信純はこの武田信義の5代目の子孫である。

1448年、蠣崎信純は北部王家の5代目である義純を蠣崎城の酒宴に招き、泥酔した義純を舟遊びに誘い出して溺死させ、義純の子も謀殺したという。そして主の居なくなった北部王家に村松御所で隠居中の義祥を招いて6代目とし、信純が義祥の養子となることで7代目を相続することに成功した。これに怒ったのが北部王家を庇護していた根城南部氏で、時の当主の南部政経は蠣崎信純討伐の兵を挙げた。これが南部家の記録に残る『蠣崎蔵人の乱』で、開戦当初は蠣崎蔵人に味方した安東氏やアイヌの軍勢に南部氏は押され、七戸城を落とされるほど劣勢を強いられたという。南部軍はなんとか七戸城の奪還に成功するが戦況が硬直状態となったため、1457年に海路からの奇襲を実施する。途中、嵐に巻き込まれて予定通りには行かなかったが、蠣崎城への奇襲には成功し、戦いに敗れた蠣崎氏一族は城を捨てて海路から蝦夷島(今の北海道)へと逃亡したという。

蠣崎の集落に付いてからさっそく城跡へと向うが、城跡は集落から男川を挟んで少し離れた場所にあり、居館跡は今は蠣崎小学校(廃校)の敷地となっている。家臣の屋敷があった場所は雑木林や畑になっており、城跡の大部分が自然へと回帰してしまっていた。

居館跡では特に目に付くものは見れなかったので、「錦帯城公園入り口」の看板がある道から山城部分へと向った。公園とは言ったもののいわゆる憩いの場所とか遊ぶ場所ではなく、山の木を少し刈って見通しを良くした場所で、ベンチ等は全く無く、山の上に蠣崎蔵人の供養碑がある以外は特に何も無い場所である。ただ、頂上からは麓や海が一望でき、なかなかの眺めだった。

この「公園」がある場所は蠣崎城の見張曲輪跡で、遺構としては郭跡の他に土塁の一部ようなものや、堀切を崩して道を作った跡などが確認できた。なお、本丸跡や詰丸跡、西曲輪跡、東曲輪跡といった城跡の大部分は山林に埋もれてしまっており、林道沿いに近くまでは行けたが夏場で草が多かったため内部への侵入は出来なかった。

結局、部分的にしか散策できなかったが、下北地方では唯一ともいえる戦歴のある城址なだけに今後の発掘調査にも期待したいものである。

8月1日里帰り寄道紀行・その3(青森県むつ市)2009年08月08日 23時24分59秒

田名部城西側の堀跡にある土塁の一部(板壁で封印されている)
【田名部城】

蠣崎城と蠣崎の集落を散策した後は再び大湊に戻り、今度は逆方向のむつ市中心地の田名部へと向った。

田名部には南北朝時代には南部氏家臣の赤星五郎が館を構えており、後に赤星五郎は蠣崎の武田信義同様に良尹王付きの家臣として派遣された。後に蠣崎蔵人が北部王家5代目の義純を蠣崎城の宴に招いた際、赤星五郎の子孫の赤星修理が義純に同行しており、義純同様に蔵人の罠にかかって溺死している。江戸時代になると田名部城跡には南部藩の代官所が設けられ、田名部が下北半島の集積地として発展している。

田名部城はむつ市の街中にある丘に築かれた城で、一見すると独立丘陵に見えるが、元々は西側の丘と続いており、舌状の丘陵端を堀で切り取って築かれた単郭の城だった。丘の上は今は落ち着いた公園となっているが、公園の丘に登る道が一つしかないことや、公園内に特に遊べるような場所も無いためか、自分が訪問した時は人が全く居なかった。

とりあえず丘の上は公園化のためか目立った遺構は確認できず、園内にいくつも凸凹があるが、果たしてそれが土塁の跡なのかはさっぱり判らなかった。丘の上を散策した後は丘を降りて西側の堀切の跡へと向ったが、ここは今は大きく削られて車道が通っていた。そして、この車道の脇に土塁の一部が残っており、周囲を板で囲って保存してあるが、年月によるものなのかこの板が部分的に傾いており、いずれ土塁ともども崩壊するのではないかと少々心配になった。

8月1日里帰り寄道紀行・その4(青森県むつ市)2009年08月09日 20時45分08秒

愛宕山から脇野沢川湊跡を望む
【愛宕山遠見番所】

田名部城を散策した後はその足で実家に帰省する予定だったが、思いのほか時間が余ったため、再度下北半島西通りの散策へと出かけた。なんとも我ながら行ったり来たりの効率の悪い散策である(苦笑)
しかし、特に目的地が有るわけでも無かったため、最終的に脇野沢の集落まで行ってしまった。

中世の脇野沢の様子は定かではないが、脇野沢の『九艘泊』や『源藤城』などの地名は源義経伝説に因むものだという。江戸時代には川湊の出口にそびえる愛宕山に遠見番所が置かれ、南部藩の侍1人と足軽10人が常駐していたという。

愛宕山は現在は頂上に神社があり、登ってみたものの木々が邪魔で思いのほか眺めは良くなかった。それでも中腹付近からは川湊のあった場所が良く見え、まさに内と外を監視するのにうってつけの場所に遠見番所が置かれていたことが判った。山の麓付近の斜面は公園となっていて桜の木々が植えられていたので、恐らく春には綺麗な景色が見られるんだろう。

8月4日里帰り寄道紀行・その5(青森県外ヶ浜町)2009年08月10日 21時50分53秒

観瀾山から蟹田港と蟹田の街を望む
【観瀾山館】

実家でダラダラと過ごし、神奈川に戻る最終日。やはり直行するのは勿体無いので、少し寄道をしていくことにした。往路では下北半島を散策したので、復路の寄道先は津軽半島の外ヶ浜とすることにした。

まず立ち寄ったのが外ヶ浜の蟹田の街の北にある観瀾山で、かつての蝦夷の城塞の跡である。海岸に近い独立丘陵のような丘(実際は北側が別の丘に繋がっている)のため、江戸時代には津軽藩によって台場が築かれた場所でもある。

南側の神社の参道より丘に登ると、斜面に登るように咲く紫陽花が綺麗でなかなか絵になる景色だった。丘の中腹の神社は稲荷神社だが、特に何か謂れや歴史があるようでもなかった。なお、神社は山頂の中心部にもあるが、こちらは何を祀っているのかすら判らなかった。

山頂は南北に伸びた平場が広がっており、中央の神社のある位置と北側の電波塔のある場所との間には堀切があったような痕跡があり、蟹田台場の碑はこの北側の郭にあった。丘の斜面は断崖絶壁のため、なかなか要害だが、頂上部分は段差の無い広場となっているため、技巧的なものは全く見られなかった。

現在中心部の海側にはログハウス風の展望台があるが、個人的には南端部の太宰治の碑がある部分からの眺めが絶景で素晴らしいと感じた。恐らく晴れていれば下北半島が見えただろうが、生憎の曇り空で海の先は全く見えなかった。