9月9日会津遠征(上杉ゆかりの地編)・その3(福島県会津美里町)2009年09月14日 22時22分54秒

水手曲輪と二の丸との間の虎口
【向羽黒山城】(前編)

館本館跡を散策した後は、湯野上温泉から北上して会津若松の市街に入る前に阿賀川を渡り、会津本郷へと入った。目的地は会津最大の山城である向羽黒山城である。

向羽黒山城は芦名盛氏の隠居所として1568年に築かれたというが、隠居所というよりも詰の城である。事実、芦名氏の滅亡後に会津の領主となった伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝はこの城に改修を加えており、特に上杉景勝の頃にはこの城が対徳川家康戦の最後の砦とされていたという。

会津本郷に着いてからはインフォメーションセンターから白鳳三山の散策を開始した。まず、登ったのが観音山で、向羽黒山城の北端部分だが特に面白い遺構は無く、山頂の手前に大山祇神社があるのと、山頂に厩嶽馬頭観音堂跡があるくらいで、強いて言えばその間に堀切のような箇所があるくらいだった。

観音山を降りて鞍部を進み、続けて白鳳三山第二の山である羽黒山へと登った。羽黒山については観音山とちがって小さな郭跡が確認できたが、山頂はさして広くは無く、木々が邪魔で展望も悪かった。山頂から南に下った箇所には羽黒神社があり、ここの郭と神社の階段を下った場所の郭が比較的広くなっていた。

羽黒山から下山して白鳳三山の最高峰の岩崎山へ続く道を進むと、東の谷地に広い郭跡が確認できた。遺跡の地図によればここが芦名盛氏の隠居所だというが、夏草で全体が覆われていたため内部までは散策できなかった。

続けて西の小さな丘に登ったが、非常に緩やかな斜面に芝生が敷かれた非常に見晴らしの良い場所だが、これでも三の丸跡という標柱が建っていた。なんとも防御性の無い郭だが、この緩やかな斜面は馬場として扱われていたらしく、城の説明によれば芦名氏はここで兵の訓練を行っていたのだという。

三の丸を越えると、すぐに羽黒山と岩崎山の間を切り裂くような巨大な堀切があり、いよいよ城の中枢に入ることを実感させられる。車道に沿って山を登っていくと、途中に横掘と水手曲輪群へと入る登城口が見えたが、思いのほか藪になっていたのでここからの侵入は諦めた。

御茶屋場まで登ると二の丸へ続く「みかえり坂」があったので、そこから侵入したが、思いのほか急斜面で、なかなか気が抜けない道だった。途中には横堀や枡形の跡が確認できたが、石積だけはなんだか後世に手が加えられたように見えて「これは当時の遺構だ」と断定できなかった。

二の丸のピークはなかなか広い郭となっていて、説明によればここの発掘調査で建物の跡が発見されており、実質的に城の中心となる御殿があったとされているそうである。

二の丸まで登ったが、今度は北側に下り水手曲輪群を見に向ったが、ちょうどこの二の丸と水手曲輪の間の部分の刈り払いが行われており、二の丸へと入る折れ曲がった虎口跡が明確に見える様子はなかなか素晴らしかった。また、この虎口の手前の窪地には水手の一つがあり、中央を石積で区切った2つの升のような窪地はなんとも興味深い遺構だった。ただ、残念ながら窪地の上から見た感じでは現在は水は枯れているようだった。なお、残りの水手曲輪群については草木が深かったため確認するのは諦めることにした。

水手曲輪から再び二の丸へと登り、さらに二の丸から本丸へと続く道を降りたが、この降りきった場所には大きな堀切があり、現在はここを車道が通っていた。当時もこの堀切は本丸への堀底道として使われていたらしく、城の説明板によればここに門があったのだという。

(後編へつづく)