11月11日城址と紅葉黄葉の旅・その5(岩手県一関市)2012年11月16日 21時58分19秒

山吹城と棚田を散策した後、大原の街の東端にある八幡神社へと向かった。この神社の由緒もいわゆる源義家の「後三年の役」における奥州遠征に始まるが、由緒書きの説明板には奥州藤原氏のことから葛西氏、大原千葉氏、亀卦川氏、そして藩政時代に伊達吉村が幼少の頃にここで学んだことまで長々と気合を入れて書かれていた。


八幡神社拝殿
神仏分離の名残のような山門を抜けて階段を登った先に八幡神社の拝殿があり、境内はどちらかというと狭いほうだが、脇のほうには境内摂社がいくつかあった。敷地の隣には2重の鳥居を備えた稲荷神社もあり、その隣には出雲大社もあってこの周辺がちょっとした神社の集まりのようになっていたのがなんとも印象的だった。


伊達吉村公御学問所跡
神社下の山門の隣の敷地には公民館があり、ここには「伊達吉村公御学問所跡」の標柱が立っていた。仙台藩の5代藩主の伊達吉村公は、元々は伊達氏一族の田手氏(宮床伊達氏)の出身で、ここ大原の街で生まれたという。そして幼少の頃は八幡神社に置かれた学問所で学んだと記録されているので、その学び舎の跡がこの場所ということになる。


堀底道?
神社の参拝を済ませた所で、稲荷神社脇の山道から背後の山へと入った。神社の参拝とは別の目的の新山城跡(八幡館跡)を確認するためである。山道を登ってすぐ右に大きな横堀が見えたが、これは八幡神社の裏を通って山の南西の麓に続いているようで、もしかすると本来の大手道(堀底道)なのかもしれない。


堀切というより郭
登ってきた山道は堀底道のような旧道と合流して東の山の上へと続いているが、この合流地点から南側の山の上に登る道があった。登った先には明らかに人工的削られた堀切があったが、堀切というよりはこれは虎口を兼ねた郭のような気がする。というのも、この中ほどから画面左上の郭に登る道があるからである。登った先は軽い藪になっているが、比較的広くなっており、ここが主郭と思われる。


出雲大社
一度山道に戻り、今度は山道を挟んで逆の北側へと登った。こちらは出雲大社の奥社が上のほうにあり、神社の背後の一段高くなった場所が郭の跡のようで針葉樹の覆い茂った広い平場になっていた。城郭体系には3つの郭が連なっていると書かれているので、恐らくもう一つ広い郭があるはずだが、今回は装備と雨空の関係でこれ以上奥は確認はしていない。ちなみに出雲大社側の斜面には腰郭が多数設けられていた。たぶん社殿のある場所も腰郭を拡張して造ったものだろう。