11月21日糠部三連休遠征・その2(岩手県二戸市)2009年12月06日 20時12分11秒

判りづらいが奥から手前までが堀ノ沢
【堀野館(小四郎館)】

佐々木館跡を散策した後は馬淵川を渡って対岸にある二戸市立歴史民俗資料館を訪れた。資料館は二戸市の体育館や武道館、公民館が集まっている一角にあり、建物自体はかなり小さかったが、中の展示はなかなか面白かった。特に明治の頃の酒の自動販売機は初めて見たので興味深いものだったが、他にも九戸城の展示などがなかなか良かった。

資料館の展示を見た後は、そのまま公民館の上へと続く峠道を通り、堀野地区へと出た。山裾の丘の部分にある堀野館(小四郎館)を確認するためである。

城郭大系によれば東西を掘状の沢で仕切られているそうなので、沢を探して移動したところ、「堀ノ沢」という沢を見つけたが、このどちら側が城跡なのかはどうもよく判らなかった。比高5mとあるのでおそらく堀ノ沢の西側の住宅と畑がある部分がそうだと思われるが、どうもハッキリした遺構は見て取れなかった。なお、堀ノ沢の東側は高台になった墓地で、ここも見た感じでは館跡っぽい雰囲気があったが、ハッキリしたものは確認できなかった。

11月21日糠部三連休遠征・その3(岩手県二戸市)2009年12月07日 21時55分48秒

四戸城の標柱とべこ石
【金田一城(四戸城)】

小四郎館付近を散策した後はそこから北上して金田一へと向った。船越山の麓の台地の上にある金田一城を訪れるためである。

金田一城がいつ築かれたかは定かではないが、いつごろか四戸郷から南部氏一族の四戸氏が移り住み四戸城と称したという。四戸氏は宗春の代に南部信直への謀反の嫌疑をかけられて秋田に出奔し、以後は大光寺氏や中野氏が城代として置かれ、後に金田一氏が城主となったという。

現地に着いてまず向ったのは長寿寺と八坂神社で、両寺社共に金田一城の上館(主郭)の腰郭の位置にあるためである。上館の丘の上には墓地もあるため、寺と神社の間らへんから登れるようだったが、とりあえず腰郭の墓地を通って中館(ニの郭)との間の堀切へと出た。上館の丘の上にはこの堀切の部分から登れるように道が出来ていたが、丘の上に登ってみるとかなり広い平地となっており、これには驚かされた。丘の上は畑や墓地などになっており、中央に意味深な岩と四戸城の標柱が建っていた。この岩は「べこ石」というそうだが、由来や謂われ等は説明には書かれておらず、後で調べてもさっぱり判らなかった。上館の船越山の裾と繋がっている部分には当然堀が掘られていたが、思いのほか幅が狭く、あまり防御には役に立たなさそうな感じだったため、上館より西の山裾の部分も縄張り内だったのかもしれない。

上館を散策した後は車道となった掘切を越えて中館へと登った。中館は南側が児童公園となっており、公園の中に立つ柿木が沢山の実を付けている風景がなんとも印象的だった。公園の隅には土塁のようなものが確認できるが、どうも公園化の削平時に削り残した跡のようにも見えてハッキリしなかった。中館は平坦な上館と違い全体的に北側に傾斜しており(雛壇状の郭跡か?)、公園より北には1軒の民家と畑が広がっていた。

中館から西側の堀跡の沢沿いに通る車道に降りた後、そこから北上して今度は下館(三の郭)へと向った。中館と下館の間もまた堀切となっており、ここには民家が1軒すっぽりと納まっていた。下館の丘の上に登ると、そこは秋葉神社の敷地で、北側半分以上は墓地となっていた。上館と中館は展望はイマイチだったが、下館からはちょうど遮蔽物無しで金田一の街を見渡すことが出来てなかなか良かった。下館はちょうど秋葉神社の周辺によく土塁が残っており、神社の階段を降りた下には元からあったのか神社のために掘ったのか水手の窪地があった。

11月22日糠部三連休遠征・その4(青森県南部町)2009年12月08日 21時14分04秒

東側の沢(堀跡?)越しに見た鎧神館跡(画面奥の台地)
【大向館】

二戸から八戸に移動して一泊した翌日は、朝から三戸方面へと移動し、南部氏の「三戸五ヶ城」の中でまだ確認したことが無い「大向館」を訪れた。

大向館は中山構、蝦夷館、鎧神館を合わせた総称であり、中山構は南部師行が根城を本拠地とする以前に居た場所と伝わり、鎧神館は鎧に似た岩を御神体として祀っていた場所だという。

三戸駅から北東に見える台地の部分が中山構であり、上に登ってみるとなかなか広く、畑が広がり一部は住宅地となっていた。特にこれといったものは見つけれなかったが、後で三戸図書館で調べたところ、どうやら祠などがあるようで、自分が見るべき場所を間違えていたようだった。

中山構から北東の台地はさらに高くなっており、ここが蝦夷館で頂上部分は畑となっており、南側の腰郭のような場所は果樹園となっていた。全体的にメリハリが無いが、現在県道134号が通っている部分を堀跡と考えると、確かに蝦夷館跡は周囲から切り離された丘となっており、なんらかの建物があっても良さそうな広さも十分あった。

蝦夷館から沢を隔てて北に見える丘が鎧神館で、北側は馬淵川に接する急斜面で、東西を自然の沢に挟まれており、唯一陸続きの南側を切って切岸を造るなど明らかに人工的に造られた要害となており、中山構や蝦夷館よりもハッキリした遺構だった。館跡は全体的に果樹園と畑となっており、ちょうど陸続きだった場所には民家が集まっていて、収穫時期を過ぎたとはいえ農道を外れて散策することは出来なかった。文献に書かれている衡清水や鎧神の岩についてもよく判らず、畑に居た現地の人に聞いても手がかりすら掴めなかった。

11月22日糠部三連休遠征・その5(青森県三戸町)2009年12月09日 23時41分59秒

観福寺山門(旧三戸代官所門)
【観福寺】(旧三戸代官所門)

大向館跡を散策した後は、大向館から南西へと移動し三戸城の城下町へと向った。目的は厳密には三戸城ではなく、城に関連する移築建築物のほうである。

まず始めに向ったのが観福寺で、三戸代官所の門が移築されている寺である。とりあえず寺のある同心町へと移動し、タウンページの地図を利用して寺を探すがどうも見つからない。とりあえず付近にあった玉岑寺に入った所、どうやら玉岑寺の奥にも別の寺があるようだったので、一度境内から出た後にスーパーマーケットのユニバースの駐車場から奥に移動したところ、やっと観福寺を見つけることが出来た。寺探しに無駄に手間取ったのは、タウンページの地図の観福寺が現在地より北側を示していたことと、丘の上に寺が3つも並んで密集していたことに気付かなかったのが原因である。

三戸代官所の門を移築した観福寺の山門は、確かに寺の山門として見るとシンプルなもので、小さな屋敷の門と言われても納得できるような造りであった。

11月22日糠部三連休遠征・その6(青森県三戸町)2009年12月10日 22時20分14秒

下が関根の清水で、上にあるのが関根の松
【関根の松・関根の清水】(一戸氏屋敷跡)

観福寺を訪れた後は、三戸図書館に立ち寄って少し郷土史料や教育委員会の調査資料を読み漁ったが、おかげで思いのほかここで時間を潰してしまった。

図書館を出た後は六日町方面を移動し、途中で関根の松と清水がある場所へと立ち寄った。この場所は南部家の御野馬別当(牧場の最高責任者)を勤めた一戸五右衛門の屋敷の跡で、関根の松は五右衛門の祖先の一戸兵部綱定が清水の近くに庭園を造って高寺の松を植えたのが成長したものだという。

関根の清水は車道沿いにあり、周囲は石垣で護岸されているが、恐らくこれらは後世に造られたものだろう。清水は今も石垣から突出たビニールパイプから流れ出ているが、周囲は住宅地になって開発されているため正直なところ今も飲んで大丈夫なのか不安な環境である。

清水の真上の丘の上には関根の松があり、高さは無いものの枝が地を這うようになっており、なかなか見栄えのいい立派な松だった。松のある丘の上には図書館側と東の丘の下から登れるようになっているが、民家の庭先を切り取ったような地形になっており、元々個人宅にあったものを文化財化してから解放したような感じだった。