11月21日糠部三連休遠征・その3(岩手県二戸市)2009年12月07日 21時55分48秒

四戸城の標柱とべこ石
【金田一城(四戸城)】

小四郎館付近を散策した後はそこから北上して金田一へと向った。船越山の麓の台地の上にある金田一城を訪れるためである。

金田一城がいつ築かれたかは定かではないが、いつごろか四戸郷から南部氏一族の四戸氏が移り住み四戸城と称したという。四戸氏は宗春の代に南部信直への謀反の嫌疑をかけられて秋田に出奔し、以後は大光寺氏や中野氏が城代として置かれ、後に金田一氏が城主となったという。

現地に着いてまず向ったのは長寿寺と八坂神社で、両寺社共に金田一城の上館(主郭)の腰郭の位置にあるためである。上館の丘の上には墓地もあるため、寺と神社の間らへんから登れるようだったが、とりあえず腰郭の墓地を通って中館(ニの郭)との間の堀切へと出た。上館の丘の上にはこの堀切の部分から登れるように道が出来ていたが、丘の上に登ってみるとかなり広い平地となっており、これには驚かされた。丘の上は畑や墓地などになっており、中央に意味深な岩と四戸城の標柱が建っていた。この岩は「べこ石」というそうだが、由来や謂われ等は説明には書かれておらず、後で調べてもさっぱり判らなかった。上館の船越山の裾と繋がっている部分には当然堀が掘られていたが、思いのほか幅が狭く、あまり防御には役に立たなさそうな感じだったため、上館より西の山裾の部分も縄張り内だったのかもしれない。

上館を散策した後は車道となった掘切を越えて中館へと登った。中館は南側が児童公園となっており、公園の中に立つ柿木が沢山の実を付けている風景がなんとも印象的だった。公園の隅には土塁のようなものが確認できるが、どうも公園化の削平時に削り残した跡のようにも見えてハッキリしなかった。中館は平坦な上館と違い全体的に北側に傾斜しており(雛壇状の郭跡か?)、公園より北には1軒の民家と畑が広がっていた。

中館から西側の堀跡の沢沿いに通る車道に降りた後、そこから北上して今度は下館(三の郭)へと向った。中館と下館の間もまた堀切となっており、ここには民家が1軒すっぽりと納まっていた。下館の丘の上に登ると、そこは秋葉神社の敷地で、北側半分以上は墓地となっていた。上館と中館は展望はイマイチだったが、下館からはちょうど遮蔽物無しで金田一の街を見渡すことが出来てなかなか良かった。下館はちょうど秋葉神社の周辺によく土塁が残っており、神社の階段を降りた下には元からあったのか神社のために掘ったのか水手の窪地があった。

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