3月20日木曽路中山道遠征・その4(長野県木曽町)2010年03月28日 23時27分53秒

山村代官屋敷
【山村代官屋敷】

関所を訪れた後は川を渡って対岸へと移動し、木曽代官の山村氏の屋敷跡を見に向かった。

木曽代官の山村氏は元々は木曽領主の木曽氏に仕えた家老だったが、木曽氏が改易になった後に徳川家康に取り立てられ、関が原の合戦時に中山道を進む徳川軍のために木曽谷を確保した手柄から後に木曽の代官となったという。

山村氏の代官屋敷は福島城のある山の麓にあり、福島城の根小屋整備して再利用したものだという。絵図を見た限りでは、屋敷というより平城のようで枡形の櫓門のようなものも確認できた。

代官屋敷に着いてみると絵図に見える屋敷の大部分が現在は福島小学校になってしまっていたが、東門の石垣の一部が残っており、地形的にも屋敷跡の名残がよく見て取れた。

屋敷跡の西側には現在も下屋敷の一部が残っており、外側の門などは新築されていたが、どうも資料と一致しないため正確な復元では無いようだった。

屋敷の内部は資料館になっており、山村氏や代官に纏わる資料が展示されていて興味深い内容もあったが、近代の改修のせいか屋敷内はどこかの田舎の民家のような感じで、あまり江戸時代らしくはなかった。

3月20日木曽路中山道遠征・その5(長野県木曽町)2010年03月29日 23時09分05秒

福島城本丸
【福島城】

代官屋敷を見た後は、大分時間が経ってしまっていたが木曽福島の町の背後に聳える福島城を目指して移動を開始した。

福島城は中世に木曽氏によって築かれた山城で、上之段城を居城としていた木曽氏が詰城として利用した城だという。

山の斜面に民家がならぶ地区を通り、興禅寺の背後の林道から城跡を目指して移動したが、このルートは難はないものの遠回りしているような道で、時間が押していることが少々不安でたまらなかった。

林道の途中の電波塔のあるあたりから城へ登る山道が延びているが、ここには熊用の鳴らし鐘が設置してあり、他では見たことがないだけに新鮮だったが、熊が出た実績でもあるのか少々不安な気持ちにもなった。

山道は比較的歩きやすく、道なりに進んでいったら城の背後の堀切・土橋へと出てしまった。この土橋の場所から帯郭を通って直登した場所が福島城の本丸で、それほど広くはないものの周囲に展開する郭が良く見れてなかなか良かった。

本丸から南にかけて二の丸、三の丸が連郭式に展開しており、各郭間は堀切で切られていてなんとも判りやすい縄張りだったが、想像していたより小さな城で、簡単に散策できてしまったのは少々予想外だった。

夕方に山城に登ったため日が落ちる前に下山できるか不安だったが、意外とあっさりと散策できたため、思いのほか早く山道から林道へ降りることができた。また、帰り道は城山と麓を最短距離で結ぶ神社-電波塔ルートを通ったが、この道は急斜面を人1人がやっと通れる道が斜めに続いているルートで、確かにあっという間に下山できたものの、足を踏み外したら転落しそうな箇所がある地味に大変な道であった。

3月21日木曽路中山道遠征・その6(岐阜県中津川市)2010年03月30日 23時35分49秒

馬籠城の説明板
【馬籠城】

木曽福島より中津川まで移動して一泊した翌日は、朝から宿場町で有名な馬籠へと移動した。前日とは打って変わって朝から愚図ついた天気だったが、馬籠に着いて早々降り出してきてしまい、雨の中を足早に馬籠宿から西に少し離れた場所にある馬籠城へと向かった。

馬籠城は中世に木曽氏の支城だった場所で、1584年の小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と徳川家康が対立した際には、木曽氏は豊臣氏に付き、徳川勢に備えるために家臣の島崎重通が城を守備したという。しかし、徳川方の信濃衆が攻め寄せてくると、島崎氏は馬籠城では支えきれないと判断し、妻籠城へと撤退したという。

雨の中馬籠城跡へとやってきたものの城跡は小さな丘で、確かに島崎氏が城を捨てて撤退したのも判るような縄張りであった。この丘は中山道が通っているため、今では民家が道路沿いに立ち並びあまり城跡の名残は見ることができなかった。なお、城の説明板は道路沿いにあり、城跡の中心?らしき場所は竹薮になって小さな社が祭られていた。