3月21日木曽路中山道遠征・その7(岐阜県中津川市)2010年04月01日 23時22分11秒

馬籠宿
【馬籠宿】

馬籠城跡を見た後は、そのまま街道沿いに戻って馬籠宿へと入り、宿場町の中を散策したが、緩やかな斜面に沿って立ち並ぶ町並みはなかなか趣があって良かった。これで雹交じりの雨が降る天候でなければ尚良かったのだが、これはこれで町の店を交互に渡り歩いて散策でき、思いのほか苦痛には成らなかった。

馬籠宿は過去に大火で焼失しているため、当時の建物は残っていないそうだが、それでもこれだけ統一された街づくりがされていると、文化財と見間違っても不思議じゃないように思えてくる。宿場町の本陣も例に漏れず焼失しているが、現在はある程度整備されて島崎藤村の資料館となっていた。なお、文豪の島崎藤村は馬籠宿本陣を預かっていた島崎家、古くは馬籠城を預かっていた島崎重通の血筋の人である。

馬籠宿を坂の上まで散策した後は、宿の端にある店で昼食に蕎麦を食べたが、ちょうど昼食を終えた頃には雨と雹が止んでいた。天候が回復するのであれば、このまま旧街道を進んで馬籠峠を歩いて越える予定だったが、以前不安定な空模様で、かつ昨日とは比べ物にならないほど寒かったため、徒歩での峠越えは結局諦めることにした。

3月21日木曽路中山道遠征・その8(長野県南木曽町)2010年04月02日 23時54分37秒

妻籠宿
【妻籠宿】

徒歩での馬籠峠越えは諦めたものの、馬籠宿と妻籠宿の間にはバスが通っているため、それに乗って峠を越え、妻籠宿へとやってきた。

妻籠宿は山の谷間の沢沿いに拓けた宿場町で、馬籠宿とは立地は全く異なるものの、ここもまた宿場町の町並みをよく再現しており、なんとも趣のある風景が広がっていた。

この宿場町の本陣は一部が復元されてなかなか良かったが、脇本陣の方は資料館となっていた。また、宿場町をまっすぐ抜けて口止め番所跡を越えた先にある鯉岩もなかなか印象的だったが、観光客は水車の場所で折り返す人が多く、こちらまで来る人は意外に少なかった。

妻籠散策時には寒風は相変わらずだが、太陽が出て大分天候が回復していたたため、このまま宿場町を抜けて中仙道沿いに南木曽方面へと歩くことにしたが、ここでまた急に雹が降り出して結局再び天候に悩まされることになってしまった。

3月21日木曽路中山道遠征・その9(長野県南木曽町)2010年04月03日 23時44分46秒

妻籠城の堀切
【妻籠城】

妻籠宿を散策した後は、そのまま中山道沿いに北上し、宿場町の北に聳える妻籠城へと向かった。

妻籠城は木曽氏の支城のひとつで、1584年の小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と徳川家康が対立した際には、ここにも馬籠城同様に木曽氏家臣の山村良勝が置かれ、信濃衆の攻撃に耐え凌いだという。

妻籠宿を出て中山道沿いに進むとちょうど西へ延びる山を切り通したような場所に出るが、この場所こそが妻籠城跡で、西の山の山頂に本丸があり、東の山裾には街道を塞ぐための土塁が築かれていたという。

城の説明板は街道沿いにあり、その場所から西の山を目指して登ったが、絵図に二の郭跡と書かれている場所は郭と呼ぶには狭く、また削平部分よりも自然地形のような箇所が多かった。

二の郭跡と本城部分の間にはまるで谷のような堀切?があり、土橋一本で繋がっている様子はなかなか圧巻だったが、もともと自然地形なのか人工的に削ったのかは良くわからなかった。

土橋を渡って本城部分を登っていくと堀切に出るが、堀切より北側の郭にはロープが張られて立ち入り禁止のような感じになっていた。どうやら松が枯れて倒木の危険があるためらしい。

ここからさらに登っていくと、再び堀切と土橋があり、周囲には腰郭も多段に展開してなかなか山城らしいハッキリした防御遺構が見られて面白かったが、ここにもまたロープが張られているため、まるで一本道の順路のようであった。

山の頂上の本郭にも郭の周囲に土塁が残っていて良かったが、ここからは眼下に妻籠宿が見渡せるのが何よりも素晴らしかった。なお、本丸へ登る道は北ルートと南ルートがあるが、南ルートも何か危険があるのかロープが張られて通行止めのようになっていた。

結局、素直に元来た道から下山したが、その後に探した東の山の斜面の土塁は探してみたものの良くわからなかった。

3月21日木曽路中山道遠征・その10(長野県南木曽町)2010年04月04日 23時26分47秒

上久保の一里塚
【中山道の一里塚】

妻籠城を後にして中山道を北上すると蛇石という岩がある沢に出たが、どうやらここが妻籠城の縄張りの北限だという。たしかに沢を掘として戦えば、中山道を南下してくる敵を抑えられるだろうが、正直沢が小さいためどれほどの効果があるかは不明である。

中山道をさらに北上していくと、道はいくつもの丘と沢を越えて続いているが、道中には石畳があったり、石碑があったりと見るべきものも沢山あって飽きなかったが、なかでも上久保の一里塚はしっかり塚の形が残っているのが良かったが、丘の上にある左右非対称の塚というのがなんとも珍しくて印象的だった。

さらに進むと神戸の集落にたどり着き、ここには木曽義仲ゆかりのかぶと観音と、巴御前ゆかりのふりそでの松という史跡があったが、残念ながらふりそでの松の方は松枯れで朽ちたため、切り倒して観音堂の水舟としたという。現存していれば伝承から樹齢は900年以上はありそうだが、水舟にされた松を見た感じではそれほど年を経ているようには見えなかった。

丘と沢を縫うように続く中山道を抜けると南木曽の街にたどり着いた。一応、街をさらに北上すると三留野の宿場町に着くが、さすがにもう日が山に隠れてきたため今日の散策はここでお開きとすることにした。

3月22日木曽路中山道遠征・その11(岐阜県恵那市)2010年04月05日 23時06分30秒

デュアルモードビークル
【DMV】

連休最終日は昨日とは逆の岐阜県側に出かけ、明知鉄道に乗って岩村へと出かけた。もちろん日本三大山城である岩村城が目当てだったが、駅に着いたところで予想外の珍しいものに遭遇した。

デュアルモードビークル(DMV)という、線路も走れる路線バスのような車両で、ちょうどこの日が試乗会だったらしく駅前に停車していた。この後、岩村~明智間を線路と車道を走行するらしいが、乗車できる人は既に決まっているそうである。

DMVは見た目が確かにボンネットの路線バスのようで、下からのぞくと確かに鉄道車輪が収納されているのが判った。見ていてなかなか面白い車両ではあるが、正直なところ本当に実用性があるのかは少々疑問であった。