1月17日奥羽古城散策更新2010年01月17日 21時55分30秒

奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/

12月からは公私様々な予定が入り乱れて更新が滞る一方だが、当分は大きな予定が無いので、春までにはなんとか更新したいところである。

今回の更新では青森県に8城追加し、これと関連して根城南部氏のページにも修正を更新を加えた。

田名部館はむつ市の市街地の中にあるこの地方の中心だった城だが、現在は人気の少ない公園となっている。特に城跡を示すような看板も無く、堀切跡を通る車道脇に土塁跡の説明があるだけだったのは少々寂しかった。

順法寺城は城ヶ沢小学校に一応城跡の標柱はあるのだが、肝心の城跡の遺構というか、正確な場所がさっぱりだった。というのも、この学校の周囲が既にフェンスで囲まれた自衛隊の敷地になっていて散策の余地すら無かったのである。

蛎崎城はむつ市の図書館で発掘調査資料を見てから訪れたが、城郭大系に載っている縄張りよりも広く、整備されているのは見張曲輪だけで、大部分が山林となっていた。さすがに夏場だったので茂みが深く、消化不良に終わったのでいずれは時期を見計らって再訪したいものである。

大向館は少々郭間にメリハリが無かったが、鎧神館の郭の部分は比較的判りやすくてよかった。

苫米地館は予想以上にハッキリと単郭の城跡が残っていたのが良かった。馬淵川沿いにあったのによくぞ侵食で消滅しなかったものである。

高橋館については堀切部分は確認できたが、文献にある空堀がいまいち現状と合致できず悔いの残る結果となった。

田子館は現地の説明板に当時の絵図があるため現状と比較しやすくて助かったが、正直なところ谷一つを埋め立ててまでしてなぜここに学校を造ったのかが不可解であった。

蟹田台場は最初は観瀾山館として作成しようと思ったが、観瀾山館自体が謎が多かったため、現地の説明板にもあった近世の蟹田台場で作成した。

あと、大開城は結局城跡とは別の場所だったため没で、中小国の小国城は資料が全く見つからないことと、現地をちゃんと確認していないためこれも没とした。

根城南部氏は結局は定説通りに波木井実長を初代として数えることにして内容も加筆したが、内容は今までとあまり変わっていない・・・ハズ。あと、当主や家臣団を追加しているが、主に「蛎崎の乱」に関わった人達が追加されています。まぁ、『東北太平記』は歴史資料としては信じてはいないのですが、北部王家以外の人達は苗字から見て恐らくモデルになった実在の人物が居るように思えます。

城郭と氏族のデータについては以上で、今回はさらにリンクに「戦国時代コミュニティ」さんを追加しました。

最後に今回のトップ絵は冬の三戸城の搦手門である鍛冶屋敷御門跡です。

1月9日初詣の旅・その1(京都府八幡市)2010年01月18日 23時42分36秒

石清水八幡宮拝殿
【石清水八幡宮】

2010年は是非とも京の都へ出かけたいと前々から思っていたこともあり、名だたる寺社仏閣がある都へ初詣も兼ねて3連休に出かけてきた。神奈川から京都へ移動し、まず先に向ったのは京都の裏鬼門にある男山の石清水八幡宮である。

石清水八幡宮は859年に宇佐神宮より行教が勧請した神社で、ここからさらに源氏の守護神として各地に分祠されて広まっており、鎌倉の鶴岡八幡宮も石清水八幡宮から源頼義が分祠したのが始まりである。なので源氏にとっては一種の聖地のような場所であるため、一度は訪れてみたかったのである。(※ただし管理人は平氏なんですけどね・・・)

いつもなら城址や神域は徒歩で登るが、今回はスケジュール的に色々周りたかったため、八幡市駅よりはケーブルカーを利用して一気に山頂まで移動した。山頂駅から少し道を登ると、ちょうど本道の脇へと続いており、すぐに八幡宮の楼門前へと出た。

手水舎で清めてから楼門を潜り、いつもどおり拝殿で参拝を済ませたが、やはり混雑まではいかないものの人手はかなり多かった。どうやらここでは破魔矢(※ここでは御神矢と言うらしい)がご利益があるらしく、みんなそれを求めていたが、さすがに自分はそれを持って帰るような余裕が無かったため、無難に御守りを買って、新年初のおみくじを引くことにした。ここのおみくじは立派な和紙のようなもので出来ており、財布などの中に入れておくと良いとのことなので、新年早々幸先良い運勢が出たため御守り同様身に着けておくことにした。

余談だが、八幡宮では修繕工事が行われており、拝殿の半分が工事シートに覆われていて少々見栄えが悪くなっているのは残念だった。

1月9日初詣の旅・その2(京都府京都市伏見区)2010年01月19日 21時44分40秒

淀城本丸跡内にある稲葉神社
【淀城】(稲葉神社)

石清水八幡宮から下山した後は、八幡市から一駅隣にある淀駅へと移動し、駅前にある淀城へと立ち寄った。淀城は江戸時代に徳川幕府の命で松平定綱が築いた城で、豊臣時代の淀城はもっと北の妙教寺あたりにあったという。

駅のホームから既に天守台が目前に見えていたが、駅から出て駐輪場を抜けたすぐ先に本丸跡があった。本丸跡には稲葉政成公を祀る稲葉神社と、明治の河川工事でここに移された與杼神社があったが、稲葉神社の方は駐輪場から溢れた自転車やバイクが溢れており、これには少々驚かされた。

本丸跡は南の天守台から西にかけてL字形に水堀と石垣、櫓台が残っており、天守台は石垣が2段になった珍しい構造だが、内部は閉鎖されて入れないようになっていた。

本丸跡を散策した後は、稲葉神社と與杼神社に参拝したが、どうもここは野良猫が一杯いるようで白い猫達が政成公の社殿の中を遊び場にしていた。なお、與杼神社の方は稲葉神社よりも立派な造りで、参道脇の二本の大銀杏の間に架けられた注連縄がなんとも印象的だった。

1月9日初詣の旅・その3(京都府京都市伏見区)2010年01月20日 21時17分56秒

御香宮神社
【御香宮神社】(伏見城大手門)

淀城を散策した後は伏見区の中心部へと移動し、ちょうど昼時だったため、伏見区役所近くの「玄屋」という店で腹ごしらえをすることにした。ちょうど情報誌で酒粕ラーメンというものを目にしたので、興味本位で立ち寄ってみたのだが、思いのほかラーメンは美味しく、ほんのり香る酒粕の匂いも個人的にツボであった。

腹ごしらえを済ました後は、旧伏見城跡を目指して移動を開始したが、途中で御香宮へも立ち寄ることにした。

御香宮は元々は神功皇后を祀った御諸神社で、香りの良い清水が湧いたことから名を御香宮と改めたという。その後、豊臣秀吉によって伏見城の鬼門へと移されたが、伏見城の廃城後に徳川家康によって元の場所に戻された。その時に本殿が新築され、後に徳川頼房によって伏見城の大手門が神社の正面参道に移されたという。

伏見城の表札が掛けられた門は薬医門としてはかなり大きく、いかにも城門といった感じで良かったが、伏見城の移築建造物はなぜか全国各地に沢山存在しており、移築の裏づけが無いものが大半のため、果たしてこの門も伏見城のものなのか気になってしょうがなかった。

門を潜って参道を進むとすぐ脇に天満宮があり、ここの境内には伏見城の石垣の残骸が積まれていた。

さらに参道を進むと拝殿があり、拝殿を潜った奥に本殿があったが、どちらの建物も文化財だけあってなかなか立派ものだった。なお、手水舎で清めていつもどおり参拝を済ましたが、手水舎の水は特に香りがするわけでもなかった。

1月9日初詣の旅・その4(京都府京都市伏見区)2010年01月21日 23時25分58秒

明治天皇の伏見桃山陵
【伏見桃山御陵】(伏見城跡)

御香宮神社を参拝した後は再び御陵を目指して東へと向ったが、道は途中で森へと入り、砂利の敷かれた幅広い道が先へと続いていた。

神宮や大社などのような厳粛な雰囲気が漂う道を進んでいくと、道の途中に伏見城の石垣がいくつか展示されていた。石垣には明確に鑿の跡が残っており、一部には礎石のように柱穴があいたものもあった。石垣はなかなか興味深いものだったが、石垣があったという御陵の周囲は完全に森林と化しており、かつて壮大な石垣造りの城があったとは想像し難い景色だった。

御陵へ続く道は予想以上に長く、地図を見た感じではどうやら伏見城の二の丸(西の丸?)跡の南側を通っているようだったが、森の中は宮内庁によって厳しく立ち入りが禁じられており、参道からでは郭跡が現在どうなっているのかは確認できなかった。

参道を抜けた先には広大な明治天皇の御陵が広がっており、柵で囲まれているため遠くから眺めるだけだが、まるで庭園のように綺麗に整備された風景がなんとも素晴らしかった。

なお、明治天皇の御陵からは東西と南の三方に参道が延びているが、西側の参道が緩やかな坂道なのに対し、南側はかなり高低差のある急傾斜の階段となっており、上から見ただけでも目が眩むようなものであった。