5月26日置賜遠征・その1(山形県長井市)2012年05月28日 00時08分42秒

今年は全然東北へと出かけていなかったので、久々に予定を立てて山形の置賜へと出かけて来た。今回は本筋に戻って、あまり有名ではない城址を目的地に選んだ。

白山神社
置賜へと入ってまず向かったのは長井市で、館町の地名の元となった荒館跡へと向かった。ここは長井庄小出村地頭となった大須賀氏の居館跡で、大須賀氏は白山妙理権現を信仰していたため、居館が無くなった後もそれが残り、後に村人によって村の鎮守の白山神社として整備されて今に至るという。


大ケヤキ
境内にある大ケヤキは樹齢700年以上で、大須賀長光の頃に屋敷に植えられたものだという。そういえば、東根の小田島長義も自分の居城にケヤキを植えているので、鎌倉・南北朝時代頃は庭にケヤキを植えるのが流行っていたのだろうか?


白山神社の土塁
神社の側には土塁があったが、これが荒館の頃の土塁かは不明。神社の参道には水路があるが、それも堀跡なのかは不明。


黒仁王尊(旧仁王門)
神社の隣の長遠寺は大須賀長任が出家して再興した寺で、現在は寺というよりただの民家のように見える。この寺の前に黒仁王尊が祀られている御堂があるが、これは仁王門を移築して改造したものだという。門は現在白山神社の石鳥居がある場所にかつては立っており、神仏分離が実施された時にこの場所に移動したのだという。ちなみにここにカボチャをお供えすると病に効くらしく、この日もカボチャが供えられていた。

5月26日置賜遠征・その2(山形県長井市)2012年05月29日 00時33分24秒

白山神社(荒館)を参拝した後は、すぐ近くの白つつじ公園(松ヶ池公園)へと向かったが、実はここも城跡の一つで、中世の野呂氏の居館跡だと長井市の公式サイトに
も載っている。


白つつじ公園
白つつじ公園は見事なまでに「白いつつじ」だらけで、訪問時はちょうど見頃を迎えており、他では滅多に見られない綺麗な光景だった。一番古いつつじは樹齢約750年というが、つつじ自体は樹齢でそんな大きくなるようなものでもないので、どれが一番古い木なのか見分けがつかなかった。


公園の川
ただ、野呂氏の居館跡というのがどこらへんかはさっぱり判らなかった。公園を横切って流れている小川は旧来からのものっぽいので、川を外堀に見立てると湾曲しているあたりが怪しいのだろうか。

5月26日置賜遠征・その3(山形県長井市)2012年05月30日 02時46分48秒

白つつじ公園を散策した後は公園のそばのラーメン二段で昼食をとったが、ここは予想していたよりも美味しかったので当たりだった。昼食後は街中を北に少し移動し、卯の花姫や片倉氏の城で知られる小桜城跡へと向かった。


旧西置賜郡役所
城跡は市街地に埋もれてしまっているが、明治の洋風建築の旧西置賜郡役所がある場所の付近に城跡の説明板があった。地形もここらへんが周囲よりやや高くなっており、明確な遺構は無いものの主郭跡はこのあたりと思って良さそうだった。


青苧蔵御門
旧郡役所に隣接する東側の空き地は米沢藩の青苧蔵があった場所で、この蔵も城跡の一角を利用したものだという。空き地の東側には復元(修理?)された青苧蔵御門があったが、周囲は住宅地なので少々窮屈な場所だった。


總宮神社
小桜城跡から北に少し進んだ先には長井の鎮守である總宮神社があり、立派な杉に囲まれた落ち着いた境内の神社だった。この杉は上杉の時代に直江兼続によって植えられたそうで、直江杉と呼称されていた。


長井あやめ公園
さらにおまけで神社の西側に隣接する「長井あやめ公園」にも行ってみたが、まだ菖蒲の時期には早いようで、全く花が咲いていない状態だった。たぶんまともに花が見れるのは来月中旬以降からだろう。

5月26日置賜遠征・その4(山形県白鷹町)2012年05月31日 17時56分56秒

長井市内を散策した後は白鷹町へと移動し、鮎貝氏の居城である鮎貝城跡へと向かった。

鮎貝八幡宮
城は台地の端を利用して築かれており、現在は主要部分が鮎貝八幡宮となっている。かつての縄張り図では方形の本丸があって、その周囲に二の丸、三の丸が配置されていたはずだが、明治31年に八幡宮がここに移された時に大分地形が変えられたようで、本丸と二の丸の間の堀、土塁は崩されて完全に一体化してしまっていた。おかげで輪郭式に近いはずの縄張りが、現状では梯郭式と見間違えるほどであった。


鮎貝八幡宮鞘殿
神社の境内にある鞘殿の中には鮎貝城の復元模型があったのだが、それはどうみても大名級の近世城郭で、あまり専門的に考証したものではなさそうだった。当時の要図を見る限りでは櫓等があった形跡は無く、土居と堀で造られた典型的な中世城郭である。江戸時代には三の丸の外に御役屋が置かれ、城内は主に収蔵庫扱いだったようだ。


鮎貝城内堀跡
神社の本殿背後には土塁が残っており、その裏には内堀がL字状に半分ほど残っていた。残り半分は埋め立てられて神社境内に埋もれているが、一部は画像奥のように車道に転用されていた。


鮎貝城外堀跡
三の丸跡は主に住宅地や畑になっており、おかげで外堀も大半が埋まっていたが、南西部と北東部にはその跡がよく残っていた。


後庵桜と外堀跡
特に外堀で見事だったのが北側の後庵桜がある場所で、内堀の倍のサイズはあり、予想以上の見所だった。ちなみに後庵桜の「後庵」とは江戸時代に外堀の外側にあった医者の家のことで、城の「後」にある「庵」という意味だという。


鮎貝御役屋跡
外堀の外側には江戸時代の役所の跡である「御役屋跡」もあったが、現状は民家の軒先で、看板以外にこれといったものは無かった。強いて言えば水路が当時の御役屋の濠の名残かもしれない。


幸寿ヶ原古戦場
城跡を一通り散策した後は、鮎貝駅より少し南にある幸寿ヶ原の古戦場跡へと向かった。ここは鮎貝宗信が伊達政宗に反旗を翻した時に、伊達軍を迎え撃った場所で、セオリー通りなら画面左に見える丘に本陣を置いて、画面右奥よりやってくる伊達軍と対峙したはずである。