5月26日置賜遠征・その4(山形県白鷹町)2012年05月31日 17時56分56秒

長井市内を散策した後は白鷹町へと移動し、鮎貝氏の居城である鮎貝城跡へと向かった。

鮎貝八幡宮
城は台地の端を利用して築かれており、現在は主要部分が鮎貝八幡宮となっている。かつての縄張り図では方形の本丸があって、その周囲に二の丸、三の丸が配置されていたはずだが、明治31年に八幡宮がここに移された時に大分地形が変えられたようで、本丸と二の丸の間の堀、土塁は崩されて完全に一体化してしまっていた。おかげで輪郭式に近いはずの縄張りが、現状では梯郭式と見間違えるほどであった。


鮎貝八幡宮鞘殿
神社の境内にある鞘殿の中には鮎貝城の復元模型があったのだが、それはどうみても大名級の近世城郭で、あまり専門的に考証したものではなさそうだった。当時の要図を見る限りでは櫓等があった形跡は無く、土居と堀で造られた典型的な中世城郭である。江戸時代には三の丸の外に御役屋が置かれ、城内は主に収蔵庫扱いだったようだ。


鮎貝城内堀跡
神社の本殿背後には土塁が残っており、その裏には内堀がL字状に半分ほど残っていた。残り半分は埋め立てられて神社境内に埋もれているが、一部は画像奥のように車道に転用されていた。


鮎貝城外堀跡
三の丸跡は主に住宅地や畑になっており、おかげで外堀も大半が埋まっていたが、南西部と北東部にはその跡がよく残っていた。


後庵桜と外堀跡
特に外堀で見事だったのが北側の後庵桜がある場所で、内堀の倍のサイズはあり、予想以上の見所だった。ちなみに後庵桜の「後庵」とは江戸時代に外堀の外側にあった医者の家のことで、城の「後」にある「庵」という意味だという。


鮎貝御役屋跡
外堀の外側には江戸時代の役所の跡である「御役屋跡」もあったが、現状は民家の軒先で、看板以外にこれといったものは無かった。強いて言えば水路が当時の御役屋の濠の名残かもしれない。


幸寿ヶ原古戦場
城跡を一通り散策した後は、鮎貝駅より少し南にある幸寿ヶ原の古戦場跡へと向かった。ここは鮎貝宗信が伊達政宗に反旗を翻した時に、伊達軍を迎え撃った場所で、セオリー通りなら画面左に見える丘に本陣を置いて、画面右奥よりやってくる伊達軍と対峙したはずである。