1月11日初詣の旅・その15(京都府京都市東山区) ― 2010年02月01日 23時44分31秒

【六道珍皇寺】
清水寺から下山した後は、清水坂をまっすぐに下りて行き、そのまま六道の辻へと出た。六道の辻と言えばあの世とこの世の境界としてよくお話に出てくるが、地名としてはこの地に髑髏が埋められていたことと、これを仏教の六道に掛けて生まれたものだという。六道の辻を進むと、すぐ近くに小野篁で有名な六道珍皇寺があったので、さっそく立ち寄ってみた。
六道珍皇寺は僧の慶俊によって開かれたとされる寺で、「六道さん」の通称で呼ばれている寺である。小野篁が冥府へ通うために通ったとされる井戸が本堂裏にあるため、ここでは閻魔大王と小野篁も祀っている。小野篁は学問や歌で名高い平安時代の官人だが、遣唐使の任を蹴ったり、天皇の前であえて怒りを買う歌を詠んだりとなかなか一筋縄ではいかなかった人のようで、そのためか前述の冥府で閻魔大王の補佐の仕事をしていた等の伝説が生まれている。余談だが、奥州とも縁があり、若い頃は父と共に陸奥国に赴いたことがあるという。父の小野岑守は陸奥守で、祖父の小野永見は征夷副将軍を勤めており、奥州各地に残る小野の地名は小野一族が残したものだともされている。
山門を潜って少し進んだ場所の右手には、さっそく閻魔大王と小野篁を祀った御堂があったが、内部は解放されておらず、格子の隙間からだと内部は少々見難かった。8月の六道参りの時にはこの御堂の内部が解放されるそうである。
御堂の隣には寺鐘堂があったが、ここでは見えない鐘を手前にあるロープを引っ張って鳴らすようになっており、コツがいるのかどうも上手く鳴らすことが出来なかった。まぁ、霊を呼ぶとも言われる鐘なので、盆以外ではむやみやたらに鳴らすものでは無さそうだったが・・・。
寺鐘を撞いた後は本堂でお参りを済ませたが、例の井戸とやらはどこにあるのか良く判らなかった。まぁ、非公開と情報誌にもあるので、見れたとしても遠巻きにということになるのだろうから、これについてはあっさり諦めて寺を後にした。
清水寺から下山した後は、清水坂をまっすぐに下りて行き、そのまま六道の辻へと出た。六道の辻と言えばあの世とこの世の境界としてよくお話に出てくるが、地名としてはこの地に髑髏が埋められていたことと、これを仏教の六道に掛けて生まれたものだという。六道の辻を進むと、すぐ近くに小野篁で有名な六道珍皇寺があったので、さっそく立ち寄ってみた。
六道珍皇寺は僧の慶俊によって開かれたとされる寺で、「六道さん」の通称で呼ばれている寺である。小野篁が冥府へ通うために通ったとされる井戸が本堂裏にあるため、ここでは閻魔大王と小野篁も祀っている。小野篁は学問や歌で名高い平安時代の官人だが、遣唐使の任を蹴ったり、天皇の前であえて怒りを買う歌を詠んだりとなかなか一筋縄ではいかなかった人のようで、そのためか前述の冥府で閻魔大王の補佐の仕事をしていた等の伝説が生まれている。余談だが、奥州とも縁があり、若い頃は父と共に陸奥国に赴いたことがあるという。父の小野岑守は陸奥守で、祖父の小野永見は征夷副将軍を勤めており、奥州各地に残る小野の地名は小野一族が残したものだともされている。
山門を潜って少し進んだ場所の右手には、さっそく閻魔大王と小野篁を祀った御堂があったが、内部は解放されておらず、格子の隙間からだと内部は少々見難かった。8月の六道参りの時にはこの御堂の内部が解放されるそうである。
御堂の隣には寺鐘堂があったが、ここでは見えない鐘を手前にあるロープを引っ張って鳴らすようになっており、コツがいるのかどうも上手く鳴らすことが出来なかった。まぁ、霊を呼ぶとも言われる鐘なので、盆以外ではむやみやたらに鳴らすものでは無さそうだったが・・・。
寺鐘を撞いた後は本堂でお参りを済ませたが、例の井戸とやらはどこにあるのか良く判らなかった。まぁ、非公開と情報誌にもあるので、見れたとしても遠巻きにということになるのだろうから、これについてはあっさり諦めて寺を後にした。
1月11日初詣の旅・ラスト(京都府京都市東山区) ― 2010年02月02日 21時13分02秒

【恵美須神社】(京都ゑびす神社)
六道珍皇寺を出た後はそのまま西へと向かい、昨晩あまりの人出に圧倒されて諦めたえびす神社へ最後にリトライすることにした。
恵美須神社は1202年に栄西禅師によって鎮守として祀られたのが始まりで、今では西宮神社と今宮神社と共に三大えびす神社と言われているという。
昨晩同様に神社の周辺は相変わらず露店で賑わっており、神社も昨晩ほどではないが人々でごった返していた。鳥居を潜って入った先は既にお参り待ちの行列で、とりあえず並んでみたものの、参拝を終えるまでけっこう時間がかかってしまった。まぁ、善光寺参りの時の悪夢のような行列に比べれば遥にマシなのだが・・・。
お賽銭を入れて参拝をした後は、そのまま本殿の脇に回り壁をバンバンと叩いて願を掛け、裏口から境内の外へと出た。壁を叩くのはえびす神社独特の参拝方法だそうで、良く判らないが今宮神社にも似たような風習があるという。
神社を参拝した後は昼食を食べるために移動し、近くの狭い路地の通りにある「萬屋」を訪れた。ここで食べたのは「ねぎうどん」で、九条ネギが山盛りのうどんだったが、このネギがまた甘くて美味く、今まで食べたことの無い衝撃的なうどんだった。
昼食を済ませた後はまだ周りたい場所がありすぎて未練があったが、時間の都合により京都を後にして神奈川への帰途に着くことにした。
六道珍皇寺を出た後はそのまま西へと向かい、昨晩あまりの人出に圧倒されて諦めたえびす神社へ最後にリトライすることにした。
恵美須神社は1202年に栄西禅師によって鎮守として祀られたのが始まりで、今では西宮神社と今宮神社と共に三大えびす神社と言われているという。
昨晩同様に神社の周辺は相変わらず露店で賑わっており、神社も昨晩ほどではないが人々でごった返していた。鳥居を潜って入った先は既にお参り待ちの行列で、とりあえず並んでみたものの、参拝を終えるまでけっこう時間がかかってしまった。まぁ、善光寺参りの時の悪夢のような行列に比べれば遥にマシなのだが・・・。
お賽銭を入れて参拝をした後は、そのまま本殿の脇に回り壁をバンバンと叩いて願を掛け、裏口から境内の外へと出た。壁を叩くのはえびす神社独特の参拝方法だそうで、良く判らないが今宮神社にも似たような風習があるという。
神社を参拝した後は昼食を食べるために移動し、近くの狭い路地の通りにある「萬屋」を訪れた。ここで食べたのは「ねぎうどん」で、九条ネギが山盛りのうどんだったが、このネギがまた甘くて美味く、今まで食べたことの無い衝撃的なうどんだった。
昼食を済ませた後はまだ周りたい場所がありすぎて未練があったが、時間の都合により京都を後にして神奈川への帰途に着くことにした。
2月6日奥羽古城散策更新 ― 2010年02月06日 22時47分15秒
奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/
今回の更新は秋田県に2城のみの追加だが、これに併せて氏族データの戸沢氏の項目に加筆修正を行った。あと、そろそろ春が近いため今の内に桜の綺麗な城址の更新を行うことにした。その他、今回も新しくリンクの追加があります。
鶯野城は鎌倉時代からの武士の伝統的な方形単郭の居館で、城跡がまるごと寺になっているが、土塁や堀の跡が部分的に残っているため、輪郭は微妙ながらも確認できた。ただ、ここは遺構よりも「天狗巣病末期の桜」の場所という印象が強く記憶に残ってしまった場所だった。
八乙女城は桜の名所ということで期待して登ったが、運悪く暴風雨に遭遇して傘を差していたにも関わらず全身びしょ濡れに・・・。堀切部分から武者溜の辺りまでは確認できたものの、展望台に1時間篭城しても風雨はいっこうに収まらなかったため、諦めて無念の撤退となった。春には再度リトライしたいものである。
鶯野城(鶯野氏)も八乙女城(八乙女氏)も戸沢氏に関係のあるため、今回は戸沢氏の項目も修正し加筆した。あと、ついでに家臣団に隠明寺氏と西明寺氏を追加しており、どちらも寺に関する苗字だが、どちらも寺は今は現存していないようだった。ちなみに前者は岩手県の雫石町に、後者は秋田県の仙北市西木町にあったようだが、後者の方は廃仏毀釈で無くなり、今は大国主神社となっている。
来月はもう3月とのことで慌てて更新した「桜の綺麗な城址」だが、前回より10城増えて30城となっている。さすがに増えすぎたので、ページは3つに別けてデータも少し見やすいように表にしてみた。盛岡城は訪問した当時は夜の真っ暗な中で、人々が桜の木の下で宴会しているのを見ていたが、調べてみた感じでは一応ライトアップが行われているようなので修正した。三春城の桜のデータは「さくらの名所100選」などでも城下町でひと括りに纏めていたため、同様に纏めたデータとした。ようするに角館城と同じカウントである。なを、今回新たに追加したのは鶴ヶ岡城、大森城、赤館、新庄城、尾浦城、桑折城、狩川城、前沢城、大衡城、浅川城である。基本的に1ページ目と2ページ目は時期さえよければどこもオススメできる場所であるが、3ページ目には少々人によっては微妙な箇所も含まれて居ます(苦笑)
最後に今回もリンクの追加がありまして、「歴史の散歩道」さんを新たに追加しています。
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/
今回の更新は秋田県に2城のみの追加だが、これに併せて氏族データの戸沢氏の項目に加筆修正を行った。あと、そろそろ春が近いため今の内に桜の綺麗な城址の更新を行うことにした。その他、今回も新しくリンクの追加があります。
鶯野城は鎌倉時代からの武士の伝統的な方形単郭の居館で、城跡がまるごと寺になっているが、土塁や堀の跡が部分的に残っているため、輪郭は微妙ながらも確認できた。ただ、ここは遺構よりも「天狗巣病末期の桜」の場所という印象が強く記憶に残ってしまった場所だった。
八乙女城は桜の名所ということで期待して登ったが、運悪く暴風雨に遭遇して傘を差していたにも関わらず全身びしょ濡れに・・・。堀切部分から武者溜の辺りまでは確認できたものの、展望台に1時間篭城しても風雨はいっこうに収まらなかったため、諦めて無念の撤退となった。春には再度リトライしたいものである。
鶯野城(鶯野氏)も八乙女城(八乙女氏)も戸沢氏に関係のあるため、今回は戸沢氏の項目も修正し加筆した。あと、ついでに家臣団に隠明寺氏と西明寺氏を追加しており、どちらも寺に関する苗字だが、どちらも寺は今は現存していないようだった。ちなみに前者は岩手県の雫石町に、後者は秋田県の仙北市西木町にあったようだが、後者の方は廃仏毀釈で無くなり、今は大国主神社となっている。
来月はもう3月とのことで慌てて更新した「桜の綺麗な城址」だが、前回より10城増えて30城となっている。さすがに増えすぎたので、ページは3つに別けてデータも少し見やすいように表にしてみた。盛岡城は訪問した当時は夜の真っ暗な中で、人々が桜の木の下で宴会しているのを見ていたが、調べてみた感じでは一応ライトアップが行われているようなので修正した。三春城の桜のデータは「さくらの名所100選」などでも城下町でひと括りに纏めていたため、同様に纏めたデータとした。ようするに角館城と同じカウントである。なを、今回新たに追加したのは鶴ヶ岡城、大森城、赤館、新庄城、尾浦城、桑折城、狩川城、前沢城、大衡城、浅川城である。基本的に1ページ目と2ページ目は時期さえよければどこもオススメできる場所であるが、3ページ目には少々人によっては微妙な箇所も含まれて居ます(苦笑)
最後に今回もリンクの追加がありまして、「歴史の散歩道」さんを新たに追加しています。
2月13日伊豆の旅・その1(静岡県河津町) ― 2010年02月15日 23時36分13秒

【河津桜】(川沿いの並木)
2月上旬を過ぎてまだ肌寒い日々が続くが、どうやら伊豆国では早咲きの桜が五分咲きくらいになっていると聞いたので、週末に伊豆の河津町へと出かけてきた。
当日は生憎の雨模様となったが、それでも河津町に着くと、続々と観光客がやってきてけっこうな賑わいとなっていた。これは晴れていたならかなり混雑したのではないだろうか・・・。
肝心の桜の方は駅前から川沿いにかけては咲き具合にばらつきがあり、2分~6分といったところだった。雨が降っている上にかなり寒かったため、正直なところ来る日を急ぎすぎたと後悔せざる得なかった。
2月上旬を過ぎてまだ肌寒い日々が続くが、どうやら伊豆国では早咲きの桜が五分咲きくらいになっていると聞いたので、週末に伊豆の河津町へと出かけてきた。
当日は生憎の雨模様となったが、それでも河津町に着くと、続々と観光客がやってきてけっこうな賑わいとなっていた。これは晴れていたならかなり混雑したのではないだろうか・・・。
肝心の桜の方は駅前から川沿いにかけては咲き具合にばらつきがあり、2分~6分といったところだった。雨が降っている上にかなり寒かったため、正直なところ来る日を急ぎすぎたと後悔せざる得なかった。
2月13日伊豆の旅・その2(静岡県河津町) ― 2010年02月16日 23時57分02秒

【谷津館】(河津八幡神社)
川沿いの桜並木を散策した後は、川の対岸に移動して河津八幡神社へと向った。神社のある場所はかつて河津氏の居館である谷津館があった場所とされており、神社の付近には「館跡」という地名が残っている。
参拝してみたところ、神社の境内はこじんまりとしたものだが、社殿向って左には河津三郎の石像と力石、右には曽我兄弟の銅像があり、地元の伝承にそれなりに根付いている場所のように見えた。河津三郎祐泰は仇討ちで有名な曽我兄弟の実父で、相撲に強かったために相撲の技である「河津掛け」はこの河津三郎が発祥とされている。
小さな神社ながらもなかなか歴史的には面白い場所であるが、肝心の館跡の名残と思われるものは全く確認できず、それだけが少々残念な所だった。
川沿いの桜並木を散策した後は、川の対岸に移動して河津八幡神社へと向った。神社のある場所はかつて河津氏の居館である谷津館があった場所とされており、神社の付近には「館跡」という地名が残っている。
参拝してみたところ、神社の境内はこじんまりとしたものだが、社殿向って左には河津三郎の石像と力石、右には曽我兄弟の銅像があり、地元の伝承にそれなりに根付いている場所のように見えた。河津三郎祐泰は仇討ちで有名な曽我兄弟の実父で、相撲に強かったために相撲の技である「河津掛け」はこの河津三郎が発祥とされている。
小さな神社ながらもなかなか歴史的には面白い場所であるが、肝心の館跡の名残と思われるものは全く確認できず、それだけが少々残念な所だった。