8月1日里帰り寄道紀行・その3(青森県むつ市)2009年08月08日 23時24分59秒

田名部城西側の堀跡にある土塁の一部(板壁で封印されている)
【田名部城】

蠣崎城と蠣崎の集落を散策した後は再び大湊に戻り、今度は逆方向のむつ市中心地の田名部へと向った。

田名部には南北朝時代には南部氏家臣の赤星五郎が館を構えており、後に赤星五郎は蠣崎の武田信義同様に良尹王付きの家臣として派遣された。後に蠣崎蔵人が北部王家5代目の義純を蠣崎城の宴に招いた際、赤星五郎の子孫の赤星修理が義純に同行しており、義純同様に蔵人の罠にかかって溺死している。江戸時代になると田名部城跡には南部藩の代官所が設けられ、田名部が下北半島の集積地として発展している。

田名部城はむつ市の街中にある丘に築かれた城で、一見すると独立丘陵に見えるが、元々は西側の丘と続いており、舌状の丘陵端を堀で切り取って築かれた単郭の城だった。丘の上は今は落ち着いた公園となっているが、公園の丘に登る道が一つしかないことや、公園内に特に遊べるような場所も無いためか、自分が訪問した時は人が全く居なかった。

とりあえず丘の上は公園化のためか目立った遺構は確認できず、園内にいくつも凸凹があるが、果たしてそれが土塁の跡なのかはさっぱり判らなかった。丘の上を散策した後は丘を降りて西側の堀切の跡へと向ったが、ここは今は大きく削られて車道が通っていた。そして、この車道の脇に土塁の一部が残っており、周囲を板で囲って保存してあるが、年月によるものなのかこの板が部分的に傾いており、いずれ土塁ともども崩壊するのではないかと少々心配になった。

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