7月7日奥羽古城散策更新 ― 2009年07月07日 00時54分30秒
奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/
梅雨明けが待ち遠しい毎日ですが、今回の更新は東海地方の未掲載分の登録とトップ画像の変更です。内訳は愛知県の名古屋城、三重県の津城、桑名城、静岡県の諏訪原城、高根城、蒲原城の計6城です。
愛知県の名古屋城はさすが天下普請だけあって圧倒されましたが、工事中の箇所が多かったのがかなり残念でした。天守閣は外観復元のため、遠目に見る分には良かったですが、内部は観光客で混んでいて少々大変でした。
三重県の津城は本丸と西の丸周辺しか見所が無かったのが残念で、せめて本丸の内堀は残して欲しかったところ。あと、内部に入れるわけでもない物置サイズの模擬櫓はいったい何のために建てたのか謎だった。
同じ三重県の桑名城は水堀が良く残っていて良かったが、朝日郭がなぜ水没したのかが気になってならない。あと、外観復元された蟠龍櫓は2階櫓だが、東海道五十三次などでは平櫓で描かれているため、これも何を元にして復元したのかが気になる。
静岡県の諏訪原城はとにかく扇状の綺麗な縄張りと大きな堀が印象的で良かった。中でも北丸馬出とそれを取り巻く三日月堀がいい感じでした。あと、城跡の横を通る旧東海道の石畳の坂はけっこう歩き難く、普通の土の山道よりも疲れた気がした(苦笑)
同じく静岡県の高根城は静岡県→長野県と旅をした時に立ち寄った城だが、まさに「奥山」の名が示すような場所で、最初の頃はここは長野県かと勘違いした程だった(苦笑)。肝心の城は山頂に二重堀切などの遺構があって櫓や礎石建物、城壁が復元されていて良かったが、山頂までの細い山道を人力で材料を運んで復元したと思うと、頭が下がる思いだった。
同県の蒲原城はまさに東海道を眼下に治める要所の山城だが、蒲原から城山の背後へ車道が通っているため、搦め手から容易に散策でき、道も整備されているため山城ならではの苦労は特に無かった。ただ、大手側が全く整備されておらず、草木が深いので登るのを諦めたのが心残りだった。城跡の本丸からの駿河湾の眺めは絶景で、湾とは逆方向の山側には富士山が見えるはずだが、この時は残念ながら見えなかった。
今回更新したトップ画像は盛岡城で撮った朝顔で、背後に見える建物は現存建造物の一つとされる移築土蔵です。
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/
梅雨明けが待ち遠しい毎日ですが、今回の更新は東海地方の未掲載分の登録とトップ画像の変更です。内訳は愛知県の名古屋城、三重県の津城、桑名城、静岡県の諏訪原城、高根城、蒲原城の計6城です。
愛知県の名古屋城はさすが天下普請だけあって圧倒されましたが、工事中の箇所が多かったのがかなり残念でした。天守閣は外観復元のため、遠目に見る分には良かったですが、内部は観光客で混んでいて少々大変でした。
三重県の津城は本丸と西の丸周辺しか見所が無かったのが残念で、せめて本丸の内堀は残して欲しかったところ。あと、内部に入れるわけでもない物置サイズの模擬櫓はいったい何のために建てたのか謎だった。
同じ三重県の桑名城は水堀が良く残っていて良かったが、朝日郭がなぜ水没したのかが気になってならない。あと、外観復元された蟠龍櫓は2階櫓だが、東海道五十三次などでは平櫓で描かれているため、これも何を元にして復元したのかが気になる。
静岡県の諏訪原城はとにかく扇状の綺麗な縄張りと大きな堀が印象的で良かった。中でも北丸馬出とそれを取り巻く三日月堀がいい感じでした。あと、城跡の横を通る旧東海道の石畳の坂はけっこう歩き難く、普通の土の山道よりも疲れた気がした(苦笑)
同じく静岡県の高根城は静岡県→長野県と旅をした時に立ち寄った城だが、まさに「奥山」の名が示すような場所で、最初の頃はここは長野県かと勘違いした程だった(苦笑)。肝心の城は山頂に二重堀切などの遺構があって櫓や礎石建物、城壁が復元されていて良かったが、山頂までの細い山道を人力で材料を運んで復元したと思うと、頭が下がる思いだった。
同県の蒲原城はまさに東海道を眼下に治める要所の山城だが、蒲原から城山の背後へ車道が通っているため、搦め手から容易に散策でき、道も整備されているため山城ならではの苦労は特に無かった。ただ、大手側が全く整備されておらず、草木が深いので登るのを諦めたのが心残りだった。城跡の本丸からの駿河湾の眺めは絶景で、湾とは逆方向の山側には富士山が見えるはずだが、この時は残念ながら見えなかった。
今回更新したトップ画像は盛岡城で撮った朝顔で、背後に見える建物は現存建造物の一つとされる移築土蔵です。
7月12日お台場散策その1(東京都品川区) ― 2009年07月13日 23時26分22秒
なかなか遠出も出来ず、毎日雨が降るか降らないかを気にする日々が続きましたが、週末にちょうど晴れそうだったのでお台場まで出かけてきました。
【等身大ガンダム立像】
前日のニュースでどうやらお台場のガンダム像が完成したと聞いたので、特にガンダムファンという訳でもないが、いわゆるお祭り根性で潮風公園へとまず向うことにした。
公園は案の定大勢の人で溢れていたが、銅像の足元以外はびっしりという訳でもないので、撮影に困ることは無かったが、一つだけ誤算があった。それはガンダムの向きが東向きだったため、午後に公園に着いたら逆光だったことである。
ガンダム立像は30分?ごとにアクションを起こすギミックが施されており、目のライトが点いて首が稼動し、体の各部からスチーム?を噴出していたが、贅沢を言えば腕も少しは動いて欲しいと思った。
なお、立像の近くには出店も出ており、何故かは知らないがしおかぜcafeに沢山の行列が出来ていた。
【等身大ガンダム立像】
前日のニュースでどうやらお台場のガンダム像が完成したと聞いたので、特にガンダムファンという訳でもないが、いわゆるお祭り根性で潮風公園へとまず向うことにした。
公園は案の定大勢の人で溢れていたが、銅像の足元以外はびっしりという訳でもないので、撮影に困ることは無かったが、一つだけ誤算があった。それはガンダムの向きが東向きだったため、午後に公園に着いたら逆光だったことである。
ガンダム立像は30分?ごとにアクションを起こすギミックが施されており、目のライトが点いて首が稼動し、体の各部からスチーム?を噴出していたが、贅沢を言えば腕も少しは動いて欲しいと思った。
なお、立像の近くには出店も出ており、何故かは知らないがしおかぜcafeに沢山の行列が出来ていた。
7月12日お台場散策その2(東京都港区) ― 2009年07月14日 23時01分52秒
【品川第三台場】
潮風公園でガンダム立像を見た後は、せっかくなので「お台場」の地名の元となった幕末の城塞を散策しに向った。
「お台場」は幕末に幕府が築いた「品川台場」の通称が元となっており、計画では江戸城が船舶から砲撃されないように海上に11箇所(※陸上の御殿山下台場も入れると12箇所)の台場を築く予定だったという。結局、第一台場から第六台場まで完成して、第七台場の築造中に資金難から計画は打ち切りとなった。その後、時代が立つにつれて台場の価値は無くなり、大正から昭和にかけて台場は撤去または埋め立てられて消失し、第三台場と第六台場だけが残ったという。
第三台場は今は陸続きとなって公園となっているので、潮風公園から歩いて向ったが、かつては第三台場が江戸を守るために睨みを利かせていた海だった場所に今ではフジテレビなどのビルが建つ陸地があるのだから、なんとも妙な感じである。
台場はひし形に近い形をしており、当時は北側の船着場が唯一の入り口だったが、陸続きになった今は東側の台場の外から土塁に上がるように散策路が設けられている。この土塁が想像していたよりも高くて厚く、また内部も思いのほか広いため、台場の内部に下りてみるとなんだか野球場にいるような雰囲気がある。まぁ、実際は地面は凸凹で草が刈られずに生えており、地味に湿地状になっている場所もあってとても運動ができるような場所じゃありませんが(苦笑)
台場内部の中央には陣屋跡を表現したコンクリートの柱?が並ぶ場所があり、木々が茂っている場所には仕切り土塁もしっかり残っていた。また、外周土塁の内部には弾薬庫とされる穴があり、小さな土塁で囲まれた竈跡とされる区画もあって台場の構造がよく判る史跡なのはなんとも良かった。
台場の外周土塁の上からの眺めもなかなかのもので、遠目には潮風公園のガンダムも確認することができたのは意外だった。また、陸繋島のような場所なので人はあまり居ないかと思っていたが、思いのほか散歩している人は多く、ベンチで休んでいる人や芝生に寝転がっている人も多かった。
潮風公園でガンダム立像を見た後は、せっかくなので「お台場」の地名の元となった幕末の城塞を散策しに向った。
「お台場」は幕末に幕府が築いた「品川台場」の通称が元となっており、計画では江戸城が船舶から砲撃されないように海上に11箇所(※陸上の御殿山下台場も入れると12箇所)の台場を築く予定だったという。結局、第一台場から第六台場まで完成して、第七台場の築造中に資金難から計画は打ち切りとなった。その後、時代が立つにつれて台場の価値は無くなり、大正から昭和にかけて台場は撤去または埋め立てられて消失し、第三台場と第六台場だけが残ったという。
第三台場は今は陸続きとなって公園となっているので、潮風公園から歩いて向ったが、かつては第三台場が江戸を守るために睨みを利かせていた海だった場所に今ではフジテレビなどのビルが建つ陸地があるのだから、なんとも妙な感じである。
台場はひし形に近い形をしており、当時は北側の船着場が唯一の入り口だったが、陸続きになった今は東側の台場の外から土塁に上がるように散策路が設けられている。この土塁が想像していたよりも高くて厚く、また内部も思いのほか広いため、台場の内部に下りてみるとなんだか野球場にいるような雰囲気がある。まぁ、実際は地面は凸凹で草が刈られずに生えており、地味に湿地状になっている場所もあってとても運動ができるような場所じゃありませんが(苦笑)
台場内部の中央には陣屋跡を表現したコンクリートの柱?が並ぶ場所があり、木々が茂っている場所には仕切り土塁もしっかり残っていた。また、外周土塁の内部には弾薬庫とされる穴があり、小さな土塁で囲まれた竈跡とされる区画もあって台場の構造がよく判る史跡なのはなんとも良かった。
台場の外周土塁の上からの眺めもなかなかのもので、遠目には潮風公園のガンダムも確認することができたのは意外だった。また、陸繋島のような場所なので人はあまり居ないかと思っていたが、思いのほか散歩している人は多く、ベンチで休んでいる人や芝生に寝転がっている人も多かった。
7月12日お台場散策その3(東京都港区) ― 2009年07月17日 00時43分53秒
【品川第六台場】
第六台場は第三台場と共に今に残る貴重な遺跡だが、こちらは第三台場と違って完全に当時と同様に海上に鎮座しており、遺構はそのまま残っているようだが基本的に立ち入り禁止になっているという。
第三台場から海越しに見る第六台場はまさに東京湾に浮かぶ小島だが、もっとよく見たいので第三台場から一度戻ってレインボーブリッジに登って見ることにした。レインボーブリッジは北側と南側に歩道が付いており、南側からは台場がよく見える。
お台場側からレインボーブリッジに登ると、まず眼下に第三台場が見え、その菱側の構造が綺麗に確認できた。その後、かなり橋の上を進んでからやっと第六台場が眼下に見えたが、全体的に木々に覆われているようで上から内部はさっぱり確認できなかった。確認できたのは外周の石垣と第三台場同様に北側にある船着場くらいで、強いて言えば第三台場より小さいことが良く判った。
第六台場は第三台場と共に今に残る貴重な遺跡だが、こちらは第三台場と違って完全に当時と同様に海上に鎮座しており、遺構はそのまま残っているようだが基本的に立ち入り禁止になっているという。
第三台場から海越しに見る第六台場はまさに東京湾に浮かぶ小島だが、もっとよく見たいので第三台場から一度戻ってレインボーブリッジに登って見ることにした。レインボーブリッジは北側と南側に歩道が付いており、南側からは台場がよく見える。
お台場側からレインボーブリッジに登ると、まず眼下に第三台場が見え、その菱側の構造が綺麗に確認できた。その後、かなり橋の上を進んでからやっと第六台場が眼下に見えたが、全体的に木々に覆われているようで上から内部はさっぱり確認できなかった。確認できたのは外周の石垣と第三台場同様に北側にある船着場くらいで、強いて言えば第三台場より小さいことが良く判った。
7月19日会津喜多方遠征その1(福島県河沼郡湯川村) ― 2009年07月21日 22時56分11秒
梅雨も終わりやっと遠征が可能になったので、三連休は福島県の会津へと行ってきました。今回の目的は、新宮城が国指定史跡の仲間入りを果たした記念の遠征で、湯川村と喜多方市を中心に散策してきました。
初日の18日は処々の理由で出発が遅れたため、鬼怒川温泉によって夕飯を食べ、会津若松に付いたのは夜遅くなってからだった。
【北田城】
19日朝さっそく会津若松を出発して喜多方方面へと向かうが、天気予報では12時頃から天気が崩れて夜まで雨になるというので、新宮城へは明日行くことにして、今回は会津若松と喜多方の中間に位置する湯川村へと立ち寄り、新宮時連の兄の北田広盛の居城である北田城址を見ることにした。
北田城は佐原盛連の次男の北田広盛が1193年頃に築いたとされる城で、以後は北田氏代々の居城となり、1408年の北田政泰(大庭政泰)の代に芦名氏に攻め滅ぼされて廃城となったという。後に時代は降って上杉氏の時代に北田城址に新城の築城が検討されたが、若松の城下町から遠いことから却下され、替わって神指が選ばれることになったという。
北田城址を訪れてみて、まず驚いたのが一面に広がる水田で、遠くからはどこが城跡なのかさっぱりだったが、水田の中を散策しているうちに城址碑のある塚のような場所(土塁跡)を見つけることが出来た。
当初、圃場整備で城跡は消滅して見所は土塁跡以外は何も無いだろうと思っていたが、それは間違いで、圃場整備されたものの地形は平坦では無く段差が出来ており、城跡の縄張り図と照らし合わせてみると、主郭跡や外郭跡、南郭(南出丸)跡や北郭(北出丸)跡がどこらへんなのか手に取るように判って面白かった。例の土塁跡は主郭の南西隅で、主郭は東西に長方形の形をしており、道路を隔てて南が南郭となる。主郭と南郭の東側は急に落ちているためかつては堀か川の跡があったのだろう。外郭は主郭の土塁から道路を挟んで西側一帯で西の方に行くと地形がやや落ち込んでいるため、そこら辺に外掘があったのだろう。北郭は主郭の北側の一段低くなった場所と思われ、ここもやはり段差があるあたりが外掘だったのだろう。
北田城を散策してるうちには青空に太陽が見えて暑い限りだったが、散策後に近くの笈川館跡へと向うといよいよ天候が怪しくなってきた。
初日の18日は処々の理由で出発が遅れたため、鬼怒川温泉によって夕飯を食べ、会津若松に付いたのは夜遅くなってからだった。
【北田城】
19日朝さっそく会津若松を出発して喜多方方面へと向かうが、天気予報では12時頃から天気が崩れて夜まで雨になるというので、新宮城へは明日行くことにして、今回は会津若松と喜多方の中間に位置する湯川村へと立ち寄り、新宮時連の兄の北田広盛の居城である北田城址を見ることにした。
北田城は佐原盛連の次男の北田広盛が1193年頃に築いたとされる城で、以後は北田氏代々の居城となり、1408年の北田政泰(大庭政泰)の代に芦名氏に攻め滅ぼされて廃城となったという。後に時代は降って上杉氏の時代に北田城址に新城の築城が検討されたが、若松の城下町から遠いことから却下され、替わって神指が選ばれることになったという。
北田城址を訪れてみて、まず驚いたのが一面に広がる水田で、遠くからはどこが城跡なのかさっぱりだったが、水田の中を散策しているうちに城址碑のある塚のような場所(土塁跡)を見つけることが出来た。
当初、圃場整備で城跡は消滅して見所は土塁跡以外は何も無いだろうと思っていたが、それは間違いで、圃場整備されたものの地形は平坦では無く段差が出来ており、城跡の縄張り図と照らし合わせてみると、主郭跡や外郭跡、南郭(南出丸)跡や北郭(北出丸)跡がどこらへんなのか手に取るように判って面白かった。例の土塁跡は主郭の南西隅で、主郭は東西に長方形の形をしており、道路を隔てて南が南郭となる。主郭と南郭の東側は急に落ちているためかつては堀か川の跡があったのだろう。外郭は主郭の土塁から道路を挟んで西側一帯で西の方に行くと地形がやや落ち込んでいるため、そこら辺に外掘があったのだろう。北郭は主郭の北側の一段低くなった場所と思われ、ここもやはり段差があるあたりが外掘だったのだろう。
北田城を散策してるうちには青空に太陽が見えて暑い限りだったが、散策後に近くの笈川館跡へと向うといよいよ天候が怪しくなってきた。