7月20日会津喜多方遠征その7(福島県喜多方市)2009年07月28日 00時31分02秒

慶徳城跡とお田植え祭りの説明板
【慶徳城】

熊野神社を参拝した後は再び喜多方市街を目指して戻り、まだお昼を過ぎたばかりで時間があったため、途中で慶徳の集落に立ち寄った。

慶徳の集落にある慶徳城跡は慶徳氏の居館であり、慶徳氏は芦名氏の一族と伝わるが定かではない。1560年の仙道での合戦には芦名氏家臣として慶徳盛勝が登場するが、盛勝の子孫は後に断絶し、平田瞬範の子が慶徳氏を継いで、慶徳範重を称したという。1589年の摺上原の合戦後、伊達氏の記録では慶徳にも兵を動かしており、この時に館は占領されるか焼き払われて廃城となったものと思われる。

なお、慶徳というのは経慶村と経徳村を合併させた名称で、1368年に源翁和尚が命名したとされるが、16世紀まで経慶村、経徳村の名称が使われていることが熊野神社の神事の記録や、棟札、芦名氏家臣の経徳新左衛門の記録から判っており、いつから慶徳と言われるようになったのかは定かではない。

慶徳館跡は現在の慶徳小学校の位置とされているため、小学校を目指して移動したが、確かに学校の北側の道路は堀の跡のようになっており、学校の位置が本丸だとすると、学校の東の一段低い場所が二の丸だと想像できるが、あまり遺構は明確ではない。

それでも学校周辺を散策してみると、校庭の一角に「慶徳城跡 城主とお田植え祭り」という看板が立っており、慶徳城主の平田石見守とお田植え祭りの発祥についての説明が書かれていて、マイナーな史跡のため説明板などは何も無いと思っていただけにこれには少し感動してしまった。

ただ、明応(1492~1502年)の頃の領主の平田石見守と看板に書いて有るが、平田氏系図や1540年の諏訪神社の連署に見える平田石見守盛範のことを指しているのかは資料が無いためよく判らなかった。