7月20日会津喜多方遠征その4(福島県喜多方市) ― 2009年07月24日 23時55分51秒
【新宮城】
三連休最終日は前日の雨空が嘘のように朝から晴天に恵まれたため、会津若松から再び喜多方へと向い、今回の旅の目的でもあった新宮城を目指して移動した。
新宮城は佐原盛連の六男の時連が新宮庄を与えられて1212年に築いた城で、新宮の地名はこの地にある熊野新宮社に由来している。新宮氏は南北朝時代頃より周辺の同族である北田氏や芦名氏、加納氏と争い、1402年には加納氏を攻め滅ぼしているが、翌年には芦名氏に攻め込まれて新宮城が陥落している。その後も新宮氏は高館を築くなどして芦名氏に抵抗しているが、最終的には力及ばず攻め滅ぼされている。
喜多方より水田の広がる中を南下していくと、やがてアスパラ畑が広がる少しだけ周囲より高い場所に辿り着いたが、ここの道路沿いに新宮城址の石碑が立っていた。最初のうちは城跡だという実感が湧かなかったが、周囲をよく見てみると夏場で草が茂っているため遠目には判り辛かったが、内堀の跡がしっかりと残っていた。
アスパラ畑となった方形の本丸を見た後は、外郭(二の丸、三の丸)の境界を探して畑と水田が広がる丘を散策したが、北側は圃場整備で郭が綺麗に直線で切り取られており、かつての堀跡は水田に埋もれてしまっていた。一方、西側は丘伝いに山に向って畑が伸びており、最初はどこが堀か全く判らなかったが、遺跡地図を確認した所、畑を電柱が横切っているあたりが堀跡のようだった。東側も同じく圃場整備で水田になっており、こちらもさっぱり見た目からは堀跡が確認できなかった。外郭の堀で唯一しっかり残っているのが南側の自然の沢を利用した部分で、その南側の堀から出丸(おんま屋敷)を囲んでいた堀の跡がしっかり残っていて良かった。田畑となった新宮城の見所はなんといっても堀の跡だが、新宮城址用の駐車場の一角には土塁の一部が残っており、畑の中にもちょっとこんもりした土塁の一部が確認できた。
全体的に田畑となっている城址だが、それでも城址専用の駐車場があったり、看板が立っていたりするので、もしかしたら何か整備の予定があるのかもしれない。
三連休最終日は前日の雨空が嘘のように朝から晴天に恵まれたため、会津若松から再び喜多方へと向い、今回の旅の目的でもあった新宮城を目指して移動した。
新宮城は佐原盛連の六男の時連が新宮庄を与えられて1212年に築いた城で、新宮の地名はこの地にある熊野新宮社に由来している。新宮氏は南北朝時代頃より周辺の同族である北田氏や芦名氏、加納氏と争い、1402年には加納氏を攻め滅ぼしているが、翌年には芦名氏に攻め込まれて新宮城が陥落している。その後も新宮氏は高館を築くなどして芦名氏に抵抗しているが、最終的には力及ばず攻め滅ぼされている。
喜多方より水田の広がる中を南下していくと、やがてアスパラ畑が広がる少しだけ周囲より高い場所に辿り着いたが、ここの道路沿いに新宮城址の石碑が立っていた。最初のうちは城跡だという実感が湧かなかったが、周囲をよく見てみると夏場で草が茂っているため遠目には判り辛かったが、内堀の跡がしっかりと残っていた。
アスパラ畑となった方形の本丸を見た後は、外郭(二の丸、三の丸)の境界を探して畑と水田が広がる丘を散策したが、北側は圃場整備で郭が綺麗に直線で切り取られており、かつての堀跡は水田に埋もれてしまっていた。一方、西側は丘伝いに山に向って畑が伸びており、最初はどこが堀か全く判らなかったが、遺跡地図を確認した所、畑を電柱が横切っているあたりが堀跡のようだった。東側も同じく圃場整備で水田になっており、こちらもさっぱり見た目からは堀跡が確認できなかった。外郭の堀で唯一しっかり残っているのが南側の自然の沢を利用した部分で、その南側の堀から出丸(おんま屋敷)を囲んでいた堀の跡がしっかり残っていて良かった。田畑となった新宮城の見所はなんといっても堀の跡だが、新宮城址用の駐車場の一角には土塁の一部が残っており、畑の中にもちょっとこんもりした土塁の一部が確認できた。
全体的に田畑となっている城址だが、それでも城址専用の駐車場があったり、看板が立っていたりするので、もしかしたら何か整備の予定があるのかもしれない。