伊那路散策・前編(長野県)2007年04月11日 01時57分42秒

飯田城二の丸跡に咲く安富桜
土日を利用して信州の伊那地方へと出かけてきた。

初日に向かったのは信州の南端の飯田であり、ちょうど今が桜が満開で見ごろと聞いてきたのだが、残念ながら天候には恵まれず雨中の花見となってしまった。まず最初に訪れたのは飯田城跡であるが、城跡は大部分が市街地と化しており、建物としては図書館脇に残る赤門だけ見ることができた。他にも門が2つほど離れた場所に移築されているらしいが、さすがに時間の都合上今回はそれらを確認することは諦めることにした。遺構としては市街に埋もれた三の丸跡と学校となった出丸跡の間の欅掘と、出丸跡と美術館のある二の丸跡の間の水手堀、そして柳田資料館のある本丸跡と二の丸跡の間の堀跡がその面影を良く残していた。

二の丸跡の美術館の周囲には当時の井戸や水路が復元されており、復元されていない水路の部分も道路に白いマーカーで跡を記載して判るようにしている。そして二の丸跡でなんとも圧巻なのが県天然記念物の桜の大木である安富桜である。名称は飯田藩家老職の安富氏の庭に植えられた桜に由来しており、この桜は400年前から飯田城の移り変わりを見てきたのかと考えるとなんとも感慨深い。その桜もちょうど時期が良かったのかほぼ満開に近い状態だったため素晴らしかったが、天候が雨天なせいもあってあまり良い絵が撮れなかったのが残念でならない。

本丸跡には現在神社があり、神社の裏の古い石垣も本丸の土塁と石垣を流用したものだという。本丸のさらに奥には山伏郭があったが、現在はその場所に三宜亭本館という温泉旅館が(はみ出して)建っており、遺構どころか郭の形すら確認することができなかった。

飯田城を一通り見て周った後は、飯田城のある丘陵より南の岬のように突出た丘陵の上にある飯坂城へ向かった。飯坂城は飯田城を築く前に坂西氏が居城としていた城であり、坂西氏が飯坂城のある愛宕山と、山伏の修験場だった場所を交換して飯田城を築いたと伝わっている。現在、城跡には愛宕稲荷神社が建っており、東の岬の部分には切岸や堀切の跡のような部分が見られる。丘陵の上が広い削平地になっていて、西側が飯田市街地の台地に続いているが、これといった遺構は前述した岬部分以外には見られなかった。それでも、ここでもまた桜の大木が3本あり、そのうちの1本には清秀桜という名前が付いていた。飯坂城が廃城となった後の1240年に清秀法印が植えた桜だそうで、樹齢は767年ということになるから安富桜なんかより遥かに年上の古木であるから凄い。確かに幹は朽ち果ててる部分もあって年季を感じるが、それでも満開の桜は綺麗で素晴らしいかった。

飯坂城跡を散策した後は飯田から北上して伊那へと向かい、時間的に日が暮れてきたため、ライトアップされた春日城跡の桜でも見ようかと計画していたが、伊那に着くなり雨が酷くなったため今日の散策は取り止めることにしてホテルへと向かった。

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