三連休遠征・最終日編(岩手県)2007年03月03日 02時01分34秒

駐車場付近にある飛勢城の碑
三連休最終日は当初は盛岡より北の方へ行く予定だったが、天気予報などを考慮した結果、北上市にある和賀氏の城を巡ることに決めた。

まずは村崎野より二子和賀氏の居城の飛勢城を目指すが、地図で指定された場所に向かうと浄水場などがあり、一目見て「城跡の表示がずれたのだろう」と判断できたので付近をさらに周って見ると、「和賀氏ゆかりの史跡 監物館跡」という標柱を発見できた。これは帰ってから調べてみても判らなかったので、おそらく和賀氏家臣の監物の役職の人が住んでいた居館だろう。ここから北側へ向かうと小山があったので登ってみたが、単純な独立した小山で麓に「物見ヶ崎」という表示があり、金毘羅神社(※)の鳥居などがあった。帰ってから調べてみた所、どうやら北上川の水運を監視していた所らしい、おそらく和賀氏も烽火や物見の出城として利用していたのだろう。(※金毘羅神社は水上安全を司る神社でもある。)

物見ヶ崎より北には城らしい丘陵が無いので、物見ヶ崎より南に離れた場所にある丘陵に登って見ることにした。ここの丘陵の上には巨大なタンクがあり、どうやら水道局関連の施設らしい。タンクの隣には小さな神社があり、丘陵の斜面には郭の跡らしい物が確認できた。当日はさっぱり判っていなかったが、帰ってから調べたところここが飛勢城のある二子山の西の山であり、城の主郭は東の山にあるため、ここは物見的な施設だったという。

水道タンクのある西の山を散策した後は、道路を挟んで東側にある山に登ったが、ここがどうやら飛勢城跡らしく、少し登った広場でやっと飛勢城址の碑を確認できた。できれば坂の下の道路の入り口あたりにでも城址の標識が欲しいものである。飛勢城は二子山の東の山の頂上に主郭があり、今は主郭の南側に神社があって、北側には展望台がある。雪が降る生憎の天気で展望は悪かったが、ここからは花巻方面や北上川がよく見え、晴れていれば良い景色が見られそうである。主郭の北には堀切を隔てて3段の郭があり、山の斜面には北側から西側を通って南側まで横堀が続いている。山の北側同様に南側も数段の郭があったようで、駐車場付近の斜面には登城路とも思える竪堀がある。なお、山の東斜面に折れ曲がった登城路が残っており、この道を横切るように神社の階段が続いている。神社の階段を降った先は家臣の屋敷等があった地区であり、和賀氏の平時の居館である白鳥館も台地の北東にあり、現在は和賀神社が祭られている。ここの台地より東側には低地が広がるがここが二子宿であり、かつての飛勢城の城下町でもある。現在は城下町らしいものはこれといってないが、かつての船着場付近には橋がかかり、今も街道の通る街並みとなっている。

二子宿を散策した後は雪中行軍も体力的に限界に近いので、飛勢城の北側の道を通り村崎野へと戻ることにしたが、この北側にも「加賀館跡」なる標柱を発見した。前述した「監物館跡」同様に、ここも「加賀守」の役職を名乗った和賀氏家臣が住んでいた居館であろう。館跡は車道によって削れているようだが、堀や塁壁らしきものがいくつか確認できた。

飛勢城から村崎野へ戻り、再び北上市街へと戻ったものの、天候が回復しないことと、三日間の疲れが溜まり体力的に問題があるため、時間はまだあったが今回の城廻の旅はこれでお開きにすることにした。

花倉城散策(静岡県)2007年03月06日 01時01分38秒

堀切を通る狭い土橋
日曜日に日帰りで静岡の藤枝へ出かけてきました。今回の目的は3週前の大河ドラマ「風林火山」で舞台になった花倉城である。ドラマでは丁寧に「藤枝駅からバスに乗って西方組合で下車」と、城へのアクセス方法まで紹介していたが、城下の葉梨郷経由で行きたかったのでバスは中田で下車して歩いて向かうことにした。

藤枝市の資料では中田付近から遍照寺にかけて花倉今川氏の家臣の屋敷跡がいくつかあるらしいが、残念ながらこれは見つけれなかった。葉梨郷は藤枝市北部の三叉槍のような丘陵に挟まれた山間の集落で、長閑な場所を想像していたのだが、前述の三叉の丘陵の先端付近には巨大な高架橋がかけられており、着いて早々これには驚かされた。なぜならば手持ちの地図にはこんなものは載っていなかったからだ。恐らく第二東名高速とかいう奴だろうか・・・。

高架橋をくぐり、畑と民家を抜けてまず向かったのが遍照寺であり、ドラマにも出てきた玄広恵探が住職をやっていた寺である。(※当時は遍照光寺と称した)この寺の付近に今川氏の居館があったというが、辺りは民家と畑でこれもさっぱり場所がわからなかった。なお、今のこの寺は特に山門などは無く、墓場が無ければ民家と見間違いそうな感じである。

寺を一通り確認した後は、いよいよ今日の目的地の花倉城へと向かった。まず勝谷川沿いに遡り、途中から三叉状の丘陵の真ん中の丘陵へと登ったが、この辺りは茶畑だらけであり、これぞ静岡といった風景が広がっていて気持ちよかった。この丘陵の峰沿いにどんどん城山の方へと登って行くが、かなり登った山の上にも民家があり、山の斜面は全て茶畑といった光景には少々驚かされた。そしてひたすら登り茶畑が途絶えた所でやっと、花倉城の標識を発見することができた。標識からすぐ先には堀切があって土橋があり、城の大手と思われるこの登城路はかなり道が狭かった。勾配がきつく、さらに意図的に狭く造られた道の途中に横堀と土橋もあり、ある程度上りきると道は左右に別れ、ここを右手に行くと本丸と二の丸の間の堀切に出る。二の丸は微妙に段差がある削平地で、周囲には土塁が巡っていたというが、かなり風化で崩れていて判別し辛い。ここにはベンチがあって、雑木林も南側が開けているため眺めがいい。

二の丸から堀を越えて一段高くなった場所に本丸があり、本丸は少し縦長な造りである。北側にはこんもりとした土の塊があり、どうやら物見台跡らしい。本丸も雑木林が東側だけ開けており、こちらからの眺めもまた素晴らしい。遠くにはドラマで「武田が来れば狼煙があがる」と言っていた高草山も見える。本丸からさらに北側の切岸を降りた峰の先には小さな台場があり、ここもおそらく物見台だった場所と思われる。この場所からさらに北には山を下っていく道が続いていたがここがどこに続いているかはよく判らない。

一度、二の丸まで引き返し、ここから堀を越えて南に行くと緩やかに傾斜した郭に出る。削平が甘いので正直なところ郭と呼んでいいか判らないが、南の峰に沿って進むと再び堀切がある。ここら辺は雑木林が開けて眺めが良く、途中の堀切から横に外れるとまた茶畑が斜面に広がっていた。標識に従って進むと雑木林と茶畑と竹林が混在するなんとも不思議なルートを通って下山していた。途中の分岐から谷へと降ると、急に太陽が差し込まない山奥といった感じの沢道に出た。先ほど通った茶畑へはこの道を通って行くのだろうが、今は人気が全く無く歩いていると少々寂しくなってくる。延々と続く小道からやっと一般の車道に出ると、なんだかホッとした。この車道に出てから右手に行くと西方に出るというのでさらに車道沿いに進んだ。なお、山奥にも関わらずこの合流地点だけなぜか一軒家と茶畑があるので、ある意味目印になるかもしれない。西方へと続く車道を進むと、途中に明らかに軽自動車でもスレスレな感じの小さなトンネルがあった。北側の山をくり貫いてどこかに続いているみたいだが、手持ちの地図ではどこに続く道か確認できなかった。これには少々興味も引かれたが、トンネルの中には電灯等が全くなく、足場が見えないのでやめておくことにした。気を取り直して元の車道をどんどん進んでいくと、やっと谷間が開けて西方の集落へと到着した。

今回は時間があればこの後、高草山にある花倉今川勢の拠点である方ノ上城に寄りたかったが、日帰りの強行日程で明日の仕事に差支えが出そうだったので、今回はこれにて神奈川へ引き上げることにした。

信州佐久~小県~埴科散策・前編(長野県)2007年03月14日 01時07分41秒

海ノ口城の掘切
土日の泊りがけで信濃国の佐久郡から小県郡、そして埴科郡まで出かけてきました。先週の駿河国の花倉城攻め同様今回も大河ドラマ「風林火山」に触発されての旅です。

横浜から甲府を経由し野辺山高原を越えて佐久地方の海ノ口へと着いたのはちょうど正午過ぎになる頃だった。今回、まず初めに訪れたのは海ノ口城であり、ドラマでも平賀源心が立て篭もる城を武田信虎は落とすことが出来ず、信虎が撤退をした後に殿で残った武田晴信が奇襲をかけて落とした城である。現地にも国道沿いに海ノ口城の看板があり、脇にはちゃんと大河ドラマ「風林火山」の文字があるので最近設置されたものだと判る。おかげで城の麓までは迷うことも無くすんなり行くことが出来たが、城への登城路は営林署の人くらいしか利用しなさそうな山道だった。それでも驚いたことに登っていくと下山してくる家族連れ等の数人とすれ違うのだから、大河ドラマ効果は恐ろしいものである。恐らく去年より昔に来ていたら、誰とも出会わないか良くても城マニア2~3人と偶然出くわすかといった感じだっただろう。沢沿いの泥濘から山の斜面に取り付く場所が何気に難所で、道が落ち葉に埋もれて落ち葉の下に泥のトラップがあるなど一般人には優しくない道である。そこを越えるとあとはひたすら斜面を登るだけだが、尾根に出ると道が分岐する。出てすぐ左の尾根に進むと鉄塔がある別の山に行ってしまうので、右の尾根に登るのが正しい道だが、肝心の道しるべが朽ちて倒れており、城マニアならどうせ道が無くても進むので心配はいらないが(笑)、正直なところ道を間違う一般人が出ないか非常に心配である。山の尾根にそって登っていくと、2箇所ほど小さな堀切の跡のような箇所があり、その先に小さな平場がある。そして、さらに登った所が帯郭のようになっていてその上に海ノ口城の本丸がある。山道の朽ちた標識とは裏腹に本丸には立派な城跡の碑があり、ここがただの山ではないことを実感する。本丸は想像していたよりも狭く、館などの建物を置けるスペースが無い。ただ、東南側に突出た岩塊が特徴的で、まさに自然の城壁を形成している。そして岩場の東側には現在東屋が設置されていて、その東屋のすぐ眼下にはこの城の顕著な遺構の一つの大きな堀切が見える。本丸の南下段にも郭があるが、ここもやはり狭く建物を置くスペースは無い。ここと本丸と登り口にあった郭が海ノ口城を形成する主な郭で、東側は掘切で城山主峰との間を寸断し、南北の斜面は急崖でまさに要害ではあるが、「狭すぎる」というのが一番の感想である。もし、武田家の軍勢一万の攻撃を耐えしのいだというのが事実なのだとすれば、平賀家と援軍を合わせた数千の軍勢はここだけではなく西の電波塔がある山(1265m)や、東の城山主峰(1357m)まで展開していたはずである。時間があれば堀切を越えて城山主峰まで調べてみようかとも思ったが、今日中に行きたい場所があったので今回はここで引き上げることにした。

海ノ口城から下山し、千曲川沿いに北上して次に向かったのは佐久郡の田野口である。ここには日本で2城しか存在しない五稜郭の1つがあるため、今回は風林火山とは関係ないがぜひ寄って行きたかった所であった。龍岡城跡には現在は田口小学校が建っているが、五稜郭を形作る土塁と石垣がしっかり残っており、近くではよく判らないが周りを散策してみるとその独特の形がなんとなく判ってくる。なお、塁壁の外側を巡る水堀は城の西側では無くなっているが、これは遺構が消滅したのではなく城が完成する前に廃藩となってしまったため工事が途中で終わってしまったからだそうである。城跡の内部には学校の校舎と校庭がすっぽり収まっているが、函館の五稜郭と比べると面積も塁壁の高さも堀の幅も圧倒的に小さく狭いため、到底実戦には耐えられそうには見えない。内部の校庭の脇には大きな小屋のような建物があるが、これがこの城に唯一現存する建物の御台所だという。城の大手門の前には資料館があり、龍岡城と松平乗謨(大給 恒)に関する展示が中心だが、世界中の五稜郭に関する資料もあって意外と小さいながらも充実していた。また、資料館を管理している御老公もなかなか説明好きで、その方が言うには「田口城に登れば五稜郭がよく見える」というのである。実を言うと、田口城には当初行く予定も組んでいたが、この時点で既に16時半となっており、山に登って散策しているうちに暗くなるのが予想できたため今回は諦めることにした。一通り城の中心付近を散策した後は、少し離れた場所にある大手門桝型跡に立ち寄って田野口を後にした。

その後、佐久郡田野口からさらに千曲川沿いに降り、小県郡の小諸でこの日は宿をとることにした。

信州佐久~小県~埴科散策・後編(長野県)2007年03月18日 22時40分00秒

荒砥城の城門内部の桝型構造
小諸で一夜を明かした次の日、想定外の出来事が待っていた。

朝、外を見てみると一面の銀世界が広がり、なおも大粒の雪が降り続いてた。昨日が晴天だっただけに、これにはショックを受けたが、ここまでは想定の範囲内だった。宿を出て雪が降りしきる外に繰り出した瞬間、急に足が冷たくなった。そう、長年使ってきた靴の底に穴が開いて浸水していたのである。夏場ならまだいいが、今は信州はまだ冬の中なので、このまま散策しようものなら、足から体温が奪われていって半日としないうちにダウンするのは目に見えていた。ならば採る選択は一つで、ここで靴を買い換えることだが、タウンページで調べると小諸には靴屋が2つしかなく、しかも10時半の開店なため、まだあと2時間も待たなければならなかった。さすがにこれでは時間が勿体無いので、今回は小諸城は諦めて、上田まで鉄道で移動することにした。

9時をまわった頃に上田に到着し、さっそく駅前のヨーカドーの中の靴屋で靴を買い換えた。さすがにこのまま次の目的地に移動するのも勿体無いので、上田市内の城跡に寄って行こうと考えていたところ、「真田郷に行けばいいんじゃね?」という軍師のお告げが・・・(笑)

上田市の郊外へ向かうバスに揺られて真田郷に到着し、さっそくなだらかな扇状地を登って真田氏の居館跡へと向かう。真田氏の居館跡は土塁で囲まれた方形に近い平城形式の居館だが、立地場所が既に斜面な関係で城内は平場が3段ほどに分かれていた。東側の平場には神社があり、西側の平場は芝生で敷き詰められていてどうやらパターゴルフが出来るようになっているだ。大手口は南側にあって、土塁が内側に凹んでいるので良く判る。搦手口は逆の北側にあり、外側には沢があって居館の自然の外堀を形成している。いかにもな中世の武士の平時の居館だが、地味ながら基本はしっかり抑えていて良い感じである。しかも、ここからは村上氏の砥石城が目の前に見えるため、真田氏にとっては目障りだっただろうことがなんとなく伝わってくる。ドラマ風林火山では真田邸で勘助が「みごとな山城でござる」と答えたシーンで砥石城が出てきたが、アングル的にもここから見た感じに近いため、ロケ地ではないが下調べはちゃんとやっただろうことが判って面白い。

真田屋敷跡を一通り散策した後は、近くにある真田歴史館へと立ち寄った。ここは小さな資料館ではあるが真田氏関連の展示が豊富で、なかなか面白かった。今ドラマ風林火山では真田幸隆が出ているが、幸隆の子の幸昌も、孫の幸村(信繁)も色々な列伝を残していて人気も高いので、ドラマ効果で前日の海ノ口城などみたいに沢山人が訪れそうな感じがするが、ここでは意外にも自分の他には夫婦1組くらいしか出会わなかった。歴史館を出たこの後は、真田氏本城と呼ばれる山城に行こうかと思ったが、思いのほか時間を浪費していたため、今度着た時に松尾城や砥石城などと共に巡ろうと決め、今回は諦めることにした。

真田郷から上田の市街に戻り、今度は千曲川沿いに戸倉まで移動した。戸倉に着いてまず腹ごしらえをしようと思った所、町の中に茅葺屋根の特徴的な建物を見つけ、どうやら蕎麦料理屋「萱」とあったので、そこに入って見ることにした。実は昨晩も蕎麦を食べていたのだが、なぜか信州に来ると無性に蕎麦が食べたくなるので困ったものである(笑)そばきりを頼んで食べたが、味も量も満足できた。

腹ごしらえした後は今日の本命の荒砥城がある上山田温泉へと向かった。この城は温泉街の背後に聳える急峻な山の上に築かれた中世山城で、村上氏の一族の山田氏の居城だった場所である。急峻な山の東面を縫って車道が通っているが、ここを歩いて登ったところ、前日の疲れもあってかなりきつかった。山の中腹まで登ると、ロープウェーの建物と日本歴史館の建物があったが、どうやらどちらとも廃墟状態のようである。日本歴史館より上には寺社仏閣関係の近代的構造の建物があったが、こちらはかろうじて使われているようだった。正直なところ山城の頂上を目指して登っている身としては、このあたりはなんとも異様な光景に見えるが、一応ここいらも荒砥城の下の方の郭跡になるのだという。さらに上へと登ると駐車場があり、この上に城跡へと入る料金所がある。荒砥城は中世山城を復元した数少ない場所であり、実はドラマ風林火山で海ノ口城のロケ地に使われたため、今回はここを目指して旅して来たのである。料金所の所から折れ曲がる道をさらに登ると、石垣で固められた門が現れる。ここが二の丸の入り口であるが、門の内側は人が1人づつ通るのがやっとな通路で、なんだか穴から出てきたような気分になる。二の丸には櫓と小屋のような建物が復元されているが、櫓の梯子部分は考証より登り易さを考えて造ったように見える。櫓の上からの眺めはまさに絶景だが、この日は風が非常に強くてずっと立っていられないくらいだった。小屋のような建物のほうは中で城に関する展示や説明ビデオを見ることができたが、中世の小さな木造建物の中にあるとなんとなく違和感を覚えてしまう。二の丸のさらに上にある本丸の門も二の丸と同様の形式であり、本丸の郭内には大小の建物が2つある。この建物の中には特に何も無いが、さすがにこんな狭いスペースに大勢で何ヶ月も篭城することを想像すると恐ろしくなってくる。あと、荒砥城の展示を見てから初めて知ったことだが、荒砥城の背後の峰の先の山も荒砥城の出城だという。最も低い場所が本城の荒砥城で、峰を登って行くと荒砥小城、若宮城が順番にあり、最高所にある出城が証城というそうである。荒砥城まで登るのも大変なのに証城は荒砥城から遥か高き場所に見えるのだから登ることを考えただけで意気消沈してしまう。

その後、なんだかんだで荒砥城を散策しているうちに太陽が山の陰に隠れてしまったため、潮時と考えて上山田を後にし、神奈川へと帰途に着くことにした。

くりでん沿線散策・前編(宮城県)2007年03月22日 00時57分24秒

津久毛橋城本丸の土橋(渡った先は断崖)
3月も後半に入った週末、宮城県北部へと出かけてきました。今回の目的は今月で廃線となる「くりはら田園鉄道」(以下:くりでん)に乗ることであり、ついでに城廻もしようということで、くりでんの主要駅周辺の城跡へと出かけてきました。

初日は予定では石越駅でくりでんに乗り換えるはずだったが、手違いでくりこま高原駅まで行くことなったので、そこからバスでくりでんの沢辺駅まで移動した。到着した沢辺の駅舎は週末だったことと廃線効果が相まって人で埋まって外に溢れており、ローカルな風景には似つかわしくない光景がそこにはあった(笑)とりあえず自分が乗る予定の下り線の到着まで1時間ほど待ちがあったので、沢辺駅から川を挟んで南にある沢辺館跡に出かけることにした。

館跡は葛西氏家臣の沢辺氏の居館跡で、三迫川に面した丘陵にあり、現在は臥牛館公園として整備もされているので難なく到着することができた。館跡の北側斜面の車道を通って丘陵へと登ったが、北側には数段の腰郭がはっきり残っており、車道も腰郭を斜め上に削るように作られていることがハッキリと確認できた。また、登る途中の車道の西側には大手とされる旧道がハッキリ残っており、車道はその大手道を塞き止める形で埋め立てて通っていた。大手道方面もやはり郭がハッキリと残っており、大手口の外側には小さな不動神社が祭られていた。再び車道まで戻り、丘陵の上まで登りきると、左手に二の丸の郭、右手に三の丸と本丸の郭があり、二の丸と本丸との間の峰は意図的に掘切にして土橋を架けたのか幅が狭くなっていた。そしてその脇には何やら人工的な水溜まりがあったが、水堀と言うには中途半端なサイズなので井戸のような水の手のように見える。井戸のような水溜りに接するように土塁が残っており、土塁の北側が三の丸で、土塁自体は一段高い本丸の頂上と繋がっていた。

三の丸跡は雑木林になっていて奥まで入らなかったが、本丸腰郭と同じ高さの広い平場が形成されていた。三の丸と土塁を隔てた隣が本丸の腰郭にあたり、今は相撲の土俵が設置されている。そして腰郭と三の丸の間に小さな小山がありその頂上部が本丸跡となっていた。どうやら今は神社となっているみたいだが、頂上の平場には社殿は無く、小さな祠が設置されているだけである。まぁ、もっとも平場は狭くて建物は置かれていたようには見えず、物見台として利用されていただろうと想像される。本丸の裏側にも昔は数段の郭が展開していたというが、こちらはかつて学園のグランドが造られた時に削られて消滅してしまったようで、今はその学園も無く、グランド跡がフェンスで囲まれているのが見れる程度である。

一方、二の丸跡の方はかなり広い平場が形成されているので、館があったのはここら辺だろうと思われる。現在は貯水槽のようなものが設置されており、他には慰霊碑や館跡の説明板がある程度で木々も少なく北側への見晴らしが良い。二の丸跡の北側には小さなこんもりとした場所があり、おそらくこれが説明板にある経塚のことだろうと思うが、位置的に見て物見台跡のようにも見える。二の丸より北の下段には比較的広い腰郭が数段に展開しており、二の丸の脇からそちらへ降る道がある。道は腰郭を縫い、途中堀底道のようになって最初に登ってきた車道の入り口まで続いており、搦手の通路のように思える。

ちょうど一周するように城跡を散策した後は、沢辺の駅へと戻り、くりでんに乗って隣の津久毛駅まで移動した。例によって廃線ラッシュの関係で鉄道の車内は満員だったが、津久毛駅で降りたのは自分一人だけであった。まさに田園の中にある駅から北側へ少し行くと、奥州合戦で源頼朝が江浦藻(つくも)という草を刈って川を渡った故事から成る津久毛橋がある。初めて聞いた江浦藻という草が何なのか判らなかったが、どうやらこれは葦の仲間らしい。そしてこの津久毛橋の北側にある小さな丘陵が津久毛橋城跡だという。津久毛橋城は奥州藤原氏の軍事拠点であったが、源頼朝の軍勢がここまで来た頃には城はもぬけのからだったという。

丘陵南側の急斜面を登ると腰郭の平場があり、今は畑となっている。さらに切岸を登った先が本丸跡で、今は階段で南から一気に登れるが、地形から見て東側から登ってくるのが当時の登城路だろう。本丸は西から東へ延びる細長い形をしており、西端には杉目太郎行信の墓があるが、墓石から杉目太郎行信の名前は読み取れなかった。本丸を東へ進むと土橋のようなものがあるが、この土橋を渡った先は崖になっているので土塁跡のようにも思える。ここより東側は崖になっているため、津久毛橋城は独立丘陵の上にあるように見えるが、実は元々は東の丘陵と続いており、土砂採掘で削り取られた結果、今のようになってしまったのだという。今残る切岸の状態から見ても本丸へは東側から侵入するように設計されており、東端にあるのが土橋だとすると消滅した場所には大きめな郭があったことが推測される。奥州藤原氏の重要拠点だったことや、南北朝時代に栗原郡の南朝勢力が最後に立て篭もった城としては規模が小さすぎるので、消滅した場所には相当の遺構があったと考えないと割に合わないのである。

一通り城跡を見てまわった後は再び津久毛駅から鉄道で沢辺駅へと戻り、日が暮れて来たので急いで周辺の城跡を回ることにした。沢辺から川を渡って南東へ行った場所にあるのが梨崎館跡であり、葛西氏家臣の梨崎氏や佐藤氏の居館跡である。城跡の標柱が道路沿いに立てられているが、実際は丘陵の畑の先の雑木林の中が城跡と思われる。だが、下調べをしていなかったこともあり、これといったものは見つけることができなかった。

梨崎から丘陵の縁沿いに南へ進むと姉歯宿へと出る。姉歯の南側の丘陵の上に大崎氏家臣の姉歯右馬允の居館である姉歯下館跡があり、現在は雑木林となっている。山の南側は急斜面となっており、東の方に登れる場所があったが、笹が道に茂っていて歩くと刺さって微妙に歩き辛かった。笹の道を登ると竹薮の中へと入るが、ここも最近人が入った気配が無く、倒木ならぬ倒竹が覆い重なり道が塞がれている有様だった。しかも、日が暮れてしまったため、竹薮の中は真っ暗闇となり、丘陵の頂上まで行く前に引き返して来てしまった。説明板によれば本丸と二の丸があって空掘や土塁が残っているそうだが、そこまで確認することはできなかった。

姉歯下館から引き揚げた後は「くりこま高原駅」までバスで戻り、駅前のホテルエポカで宿をとった。