諏訪+風林火山館散策(長野県・山梨県)2007年04月10日 01時14分22秒

風林火山館オープンセット
3月と4月を跨ぐ週末に信州の諏訪地方へ出かけてきました。

初日にまず訪れたのは茅野市にある上原城であり、大河ドラマ「風林火山」にも重要な脇役として登場する諏訪頼重の居城だった場所である。城跡は頼岳寺の裏山にあり、当時は中腹に居館があって山頂は詰城だったという。

麓から山頂付近まで続く車道に沿って登っていくと、まず初めに板垣平と称される平場へと出る。ここが諏訪氏の居館があった場所で、武田軍によって城が落とされた後はここに武田家重臣の板垣信方が住んだため板垣平と呼ばれるようになったという。現在はこの場所は畑になっていて、諏訪氏居館跡の碑が建っているだけだが、郭の跡がよく残っており、特に板垣平から南に突出た1段低い家老屋敷の郭等はいかにも城跡といった感じがあって良い。

板垣平からは車道に沿っていけば山頂へと着くが、せっかくなので板垣平から上原城へと続く当時の登城経路を通ることにして森の中を通る道を進むことにした。山中の道は分岐や合流を繰り返していて初めは戸惑ったが、どうやらどの道を進んでも山頂には辿り着けるようだ。山の上までくるとやがて岩場が多くなってくるが、中には衝撃を与えると崩落しそな岩もあり、山の斜面も急で意外と危険である。

岩の城壁を登りきると何やら神社のある郭へと出たが、ここが上原城の三の丸だという。神社の境内には山の上にも関わらず水が刻々と沸いており、水溜りから溢れた水は沢のほうへと流れ落ちて行っていた。神社の背後には物見岩と呼ばれる巨大な岩塊があり、今は木々で見晴らしが悪いが確かに物見にはうってつけの場所に見える。物見岩の背後の平場が二の丸であり、建物を置けるような広さは無いが、本丸をぐるりと取り囲むように平場が巡っているため、輪郭式の縄張りを形成している。二の丸の南にある三の丸と対称に、二の丸の北側の数段低い場所にも広い郭があったが、二の丸からは斜面が急なためこちらには降りることは諦めた。

山頂にある本丸は三の丸よりも広く、いかにも城の中心といった感じで、郭の一角には何やら礎石のようなものも発見できた。本丸からは上原の城下が見えるが、木々のせいで展望はイマイチだった。本丸の背後には大きな堀切あって、永明寺山の峰から切断されているが、本丸からは見るとかなり落差があるため圧巻だった。堀切を越えた先のこんもりとした小山は離れ山と呼ばれる出丸であり、離れ山の向こうにも堀切があったらしいが、今は永明寺山へと続く車道などのためにわかり難くなってしまっている。城跡を一通り散策した後は下山を開始したが、ここにきてついに雨が降り始めたため、急いで山の麓へと戻り、次の目的地の上諏訪へと移動した。

上諏訪に着いた頃には一時的に雨も止んでいたので、上諏訪の市街地に接する茶臼山城を散策することにした。だが、茶臼山一帯はかなり開発されており、山頂の本丸跡とされる場所には県営住宅が立ち並んで居た。その団地の一角に茶臼山城の説明板があったが、そこにも「遺構はほとんどみられない」と書かれており、これを見てガッカリしたのは言うまでも無い。それでも、山の西斜面の畑や手長神社裏には腰郭のような跡があり、これらが唯一の遺構とも思える。茶臼山を散策した後は山の南の麓にある居館跡である岡村政庁跡を探したが、住宅地が入り組んでて探すのに苦労した。貞松院と法光寺の間の狭い道をひたすら東の山側へ向かって進むと、やがて左手の住宅の一角に政庁跡の石碑があるのを見つけたが、辺りは住宅しかなく遺構等は全く判らなかった。

岡村政庁跡まで散策した後は上諏訪温泉に一泊し、翌日には下諏訪で大河ドラマ風林火山の展示を見に行った。ここでは風林火山の展示よりも、むしろ図解山城探訪のイラストがパネルで使われているのがなんとも印象的だった。

下諏訪で展示を見た後は諏訪から南下し、信州と甲州の境界付近の八ヶ岳の麓にある大河ドラマのオープンセットの風林火山館を見に行った。現地に行ってまず驚いたのは、オープンセットが時代劇とは似つかわしくない高原の牧場のような場所の一角にあることだった。牛でも居そうな草原の斜面を削って平場を作り、そこに館を建てて周りに長屋を配置しているものだから、周囲の風景からはどことなく浮いてる感じがする。それでも館に関してはしっかり出来ていて見ごたえはあったが、テレビでも見ていて気になった堀と土塁だけはやはり急造感丸出しでお粗末なものだった。あと、風林火山館の周囲には何も無いため、館を見て土産物屋で土産を買う以外にすることが無いため、これから行こうとか考えてる人はあまり過剰な期待はしないで来た方が良いように思える。

風林火山館見た後はまだ日は高かったが、そのまま横浜へと帰途に着いた。

伊那路散策・前編(長野県)2007年04月11日 01時57分42秒

飯田城二の丸跡に咲く安富桜
土日を利用して信州の伊那地方へと出かけてきた。

初日に向かったのは信州の南端の飯田であり、ちょうど今が桜が満開で見ごろと聞いてきたのだが、残念ながら天候には恵まれず雨中の花見となってしまった。まず最初に訪れたのは飯田城跡であるが、城跡は大部分が市街地と化しており、建物としては図書館脇に残る赤門だけ見ることができた。他にも門が2つほど離れた場所に移築されているらしいが、さすがに時間の都合上今回はそれらを確認することは諦めることにした。遺構としては市街に埋もれた三の丸跡と学校となった出丸跡の間の欅掘と、出丸跡と美術館のある二の丸跡の間の水手堀、そして柳田資料館のある本丸跡と二の丸跡の間の堀跡がその面影を良く残していた。

二の丸跡の美術館の周囲には当時の井戸や水路が復元されており、復元されていない水路の部分も道路に白いマーカーで跡を記載して判るようにしている。そして二の丸跡でなんとも圧巻なのが県天然記念物の桜の大木である安富桜である。名称は飯田藩家老職の安富氏の庭に植えられた桜に由来しており、この桜は400年前から飯田城の移り変わりを見てきたのかと考えるとなんとも感慨深い。その桜もちょうど時期が良かったのかほぼ満開に近い状態だったため素晴らしかったが、天候が雨天なせいもあってあまり良い絵が撮れなかったのが残念でならない。

本丸跡には現在神社があり、神社の裏の古い石垣も本丸の土塁と石垣を流用したものだという。本丸のさらに奥には山伏郭があったが、現在はその場所に三宜亭本館という温泉旅館が(はみ出して)建っており、遺構どころか郭の形すら確認することができなかった。

飯田城を一通り見て周った後は、飯田城のある丘陵より南の岬のように突出た丘陵の上にある飯坂城へ向かった。飯坂城は飯田城を築く前に坂西氏が居城としていた城であり、坂西氏が飯坂城のある愛宕山と、山伏の修験場だった場所を交換して飯田城を築いたと伝わっている。現在、城跡には愛宕稲荷神社が建っており、東の岬の部分には切岸や堀切の跡のような部分が見られる。丘陵の上が広い削平地になっていて、西側が飯田市街地の台地に続いているが、これといった遺構は前述した岬部分以外には見られなかった。それでも、ここでもまた桜の大木が3本あり、そのうちの1本には清秀桜という名前が付いていた。飯坂城が廃城となった後の1240年に清秀法印が植えた桜だそうで、樹齢は767年ということになるから安富桜なんかより遥かに年上の古木であるから凄い。確かに幹は朽ち果ててる部分もあって年季を感じるが、それでも満開の桜は綺麗で素晴らしいかった。

飯坂城跡を散策した後は飯田から北上して伊那へと向かい、時間的に日が暮れてきたため、ライトアップされた春日城跡の桜でも見ようかと計画していたが、伊那に着くなり雨が酷くなったため今日の散策は取り止めることにしてホテルへと向かった。

伊那路散策・後編(長野県)2007年04月19日 00時53分44秒

桜と高遠城楼門
土曜日の雨天とは打って変わって晴れた日曜日。
朝から伊那市の東方の高遠へと出かけた。もちろん目的は高遠城跡の天下一と称される桜を見るためである。

高遠城は藤沢川と三峰川に挟まれた丘陵の上にある城であり、大河ドラマ風林火山でも武田の諏訪攻めに関わる重要人物として登場する高遠頼継の居城として登場する。自分が訪れた時は時間が早かったこともあって、町中の店は閉まっていて静かな雰囲気だったが、城跡に近づくにつれて行き交う車や人々で賑やかになってきた。

家臣が登城に使っていた自分坂を登り、大手門跡へと到着するとさっそく石垣を見ることができたが、説明板を見るとどうやら大手門の石垣は後世の人間によってかなり改変されているらしく、当時の位置や姿を留めているものは少ないという。大手門跡から少し進むと左手に三の丸跡が見えてくる。三の丸は西側が低くなっているため、郭内は弾状になっているが、大手門跡に近い西端には当時の楼門が残されている。ただ、説明を見たところ、この楼門は明治まで城内にあったらしいが、廃城後移築された際に改造されて小さくなってしまったそうである。この楼門を潜った先は桜が立ち並ぶ広場になっているが、残念ながらここの桜は3分咲き程度でまだ蕾が多い状態だった。段状の三の丸を登ると露店が立ち並んでおり、更に東側の上段は駐車場となっていた。

三の丸から南西側も車道を挟んで広い駐車場となっているが、城の縄張図を見る限り、ここは三の丸と二の丸の一部、そして勘助曲輪を丸ごと潰して削平して造られた場所であることがよくわかる。おかげで二の丸の断面がまるで切岸のようになっているのがなんとも痛々しい。その二の丸断面を登って二の丸へと入るが、二の丸も三の丸同様に西から東にかけて段状の郭になっているようである。二の丸もほぼ全域が桜の木で覆われているが、やはり蕾が目立つ3分~5分咲き程度で、訪れる時期が早かった感じが否めない。二の丸の北東隅には高遠閣と呼ばれる建物があり、城とは関連無いものの、昭和初期に造られた会館で今では文化財となっている。二の丸馬場と呼ばれていた東側の一帯には露店が立ち並び、花見客もここら辺でシートを広げたりして寛いでいた。

二の丸から橋を渡ると本丸で、この橋の部分が良く雑誌などに出てる場所であるが、桜の蕾が多いせいでイマイチ迫力が無い。そして、今までずっと高遠城の城門だと思っていた橋の部分の門が宿場の問屋町門を昭和の頃に城へ移築した物だと判ってちょっとショックを受けたり・・・。本丸内部の桜も蕾が多くて残念な感じだったが、古木に若木が巻きついて成長した桜の木が多く、その異様な光景はちょっと衝撃的だった。本丸の南側には明治に建てられた太鼓櫓があるが、中に太鼓は無く、今はちょっとした展望台扱いになっている。

本丸より南へ渡ると南郭があり、さらに南には法憧院郭があるが、ここら辺から西側への眺めが素晴らしく、青空のおかげで駒ケ岳が雲の上に見え、絶景であった。法憧院郭から城の外に出ると、美術館や露店が立ち並ぶ区画に出るが、ここの外堀沿いの桜は南側で日当たりが良いせいかほぼ満開に近い状態で素晴らしかった。

美術館脇の斜面を下った所には歴史博物館もあり、ここでは高遠城の模型も見れたので、現状との違いがハッキリ判ってちょっとスッキリした。なお、美術館の方には城を模したような模擬櫓があり、これが南側との桜と合うものだからなんとも言えない複雑な気分であった。

博物館を見た後は大きく三の丸を回りながら散策したが、さすがに時間が昼を過ぎていたため、朝と違って車と人が数倍にも膨れ上がっており、なんとも言えない混雑ぶりになっていた。恐らく満開の高遠城が拝めるのは来週だろうが、これよりも混みあうことを想像すると、ゆっくり花見をするような気分になれなさそうでならない。

高遠を一通り見て周った後は再び伊那市内へと戻り、今度は春日城跡の桜を見に向かった。春日城は平氏の末裔の春日氏(伊那部氏)が築いた台地の上の平山城であり、城より低い台地の部分にはかつての城下町で、後に宿場町となった伊那部宿がある。春日城は沢に挟まれた台地の端に堀で区切って本丸、二の丸、三の丸を造ったもので、三の丸より西側を除いた部分には空掘や土塁の跡がハッキリ残っていて良い感じである。

本丸、二の丸には桜が咲いており、ちょうど満開に近い状態で素晴らしかったが、本丸から眺める城下や遠くの南アルプスの景色も晴天の甲斐あって素晴らしかった。三の丸には子供達が遊ぶ遊具が設置してあり、都会の公園でも見られないくらいの子供や親子連れで賑わっていたのにはちょっと驚いた。三の丸より西側は遺構がほとんど見られない状態で、文化会館などが建っている。

春日城を一通り見て周った後は、帰還予定まで時間があったので、近くの小黒城を見に向かった。小黒城については全く事前知識は得てなく、伊那部宿の案内図に表示されていたからという理由で行くことにした城跡だったので、あまり期待はしていなかった。だが、現地に着いてみると期待を裏切る形で素晴らしい遺構が残っていた。

小黒城は台地の端に空掘で郭を造った春日城と似たような縄張りの城だったが、春日城とは違い、主郭と思われる方形の郭の四方にはっきりと土塁が残っていたのに驚かされた。さらにその外側には空掘が巡り、外郭があっただろう場所は今は住宅地となって遺構は見られないが、そこから南側の郭には社があり、なんとも城跡らしい雰囲気になっている。

小黒城を散策した後は、伊那を発ち、横浜へと帰途に着いた。

奥羽古城桜巡り(相馬中村城) 4月14日2007年04月25日 01時54分43秒

東二の丸の水堀
毎年恒例の東北桜巡りの今年の第一回目は福島県の相馬中村城へ行ってきました。

中村城は平山城で、本丸にはあまり桜はありませんが、二の丸跡のスタンドの外周の桜や、中村神社参道沿いの桜並木が満開で綺麗でした。ちょうどこの日は二の丸跡のスタンドで高校野球の試合をやっていたので、花見客と相まってなんとも賑やかでした。

奥羽古城桜巡り(飯坂城) 4月15日2007年04月25日 02時05分40秒

飯坂城跡の公園の桜
桜巡りの第二回目は福島県の名湯、飯坂温泉の町中にある飯坂城です。

飯坂城とは言っても今は遺構はほとんど確認できず、古城跡の公園に城跡の説明と碑があるのみ。桜は公園内の数本だけですが、どれも満開で綺麗でした。温泉街の散歩がてらに寄ってみるのもいいかもしれません。