11月24日九州紅葉の旅・その7(福岡県朝倉市)【秋月城】 ― 2014年12月09日 02時48分13秒
久留米城を散策後、甘木駅まで移動してそこからバスで山間の城下町である秋月へと移動した。秋月は紅葉の名所として検索すると出てくる場所であり、さらにちょうど見頃だとあったので、今回の旅では是非とも訪れたい場所であった。

さすがに紅葉の名所だけあって町の手前では渋滞が酷かったが、バスは一旦山側を通って迂回したため時間のロスはほとんど無かったのが幸いだった。秋月の町はちょうど紅葉の真っ最中で、さっそく赤や黄色の景色が出迎えてくれた。

画像は秋月藩の藩校である稽古館跡で、ちょうど発掘調査中になっていたが、調査が終わるとここに新秋月郷土館が建てられるそうである。

稽古館跡の隣にあるのが、現在の秋月郷土館で、いわゆる歴史資料館である。

秋月郷土館から桜の馬場に沿って進むと小さな川を過ぎた所で櫓台と石垣と水堀が目の前に現れた。この場所が秋月藩の藩庁でもあった秋月城跡で、古くは秋月氏の根小屋があった場所を黒田氏が改築して築いた城である。

水堀に架かるこの橋は瓦橋と呼ばれており、驚くことに文字通り瓦を詰めて造ってある。本来はこの橋から城内に入れるのだが、良く見ると橋の先が行き止まりになっており、恐らくこの先の学校を整備する時に塞いでしまったのだろう。

瓦橋から堀沿いに進むと今度は土橋で、その先の階段を登った先に現存する櫓門があった。ちなみに画面外の右側には櫓台があり、この入口の防備が最も高いように感じた。

なお、堀沿いの紅葉もなかなか綺麗で、散った葉も含めてなかなか絵になる光景であった。

櫓門の他にも黒門が現存しており、今は垂裕神社の参道に建っている。この辺りはちょうど椛が多く、黒門に赤のアクセントが素晴らしく綺麗であった。

秋月の紅葉は確かに綺麗で来た甲斐があったが、観光地の宿命なのかとにかく現地は人だらけで、人が写真に写らないように撮るのに只管苦労した。前述の黒門も少し引いてみると、この画像のように人でビッシリとなってしまうのである。
11月24日九州紅葉の旅・その6(福岡県久留米市)【久留米城】 ― 2014年12月06日 18時14分01秒
人吉から球磨川に沿って八代に出て熊本に向かい、熊本城の大銀杏を見に行こうと思っていたが、熊本は過去に2度来ている上に将来的にまた来る可能性も高いため、今回はパスすることにした。
熊本から北上して福岡県に入り、その道中で久留米に立ち寄った。ちょうど久留米城が紅葉の見頃だという情報を掴んだためである。
熊本から北上して福岡県に入り、その道中で久留米に立ち寄った。ちょうど久留米城が紅葉の見頃だという情報を掴んだためである。

失礼ながら久留米と言えばラーメンとのイメージしか無かったが、久留米城に向かう道中でここがブリジストンの城下町であることを思い知らされた。画像は久留米城の二の丸跡であるが、車道以外は全てブリジストンの敷地だった。ちなみに大通りにも「ブリジストン通り」なる愛称が付けられており、街路樹が紅葉してなかなか秋らしい趣ある通りであった。

二の丸跡は完全に街に埋もれていたが、本丸跡は比較的よく遺構が残っており、石垣や内掘の一部を見ることが出来た。駅から来るときは平地かと思っていたが、二の丸から本丸は丘の上にあるらしく、本丸の南を除く三方の石垣は思ったよりも高かった。

本丸跡内部には建物は残っておらず、今は篠山神社の境内となっていた。なお、城内の一画には旧久留米藩主の有馬氏関連の展示がある有馬記念館もある。

本丸跡は確かに紅葉の見頃となっており、赤い椛や黄色い銀杏などが綺麗で良かった。

本丸跡の建物があった場所には説明が書かれた石版が設置してあり、画像は本丸の中枢である御殿があった場所の跡。こうしてみると奥の紅葉が綺麗な一帯はまるで御殿の庭園のようにも見える。

個人的に景色が良かったのは月見櫓跡で、ここからは久留米大のグランドが一望できた。なお、さすがに高さが無いため城下町を一望できる場所は無かった。画像は月見櫓跡で見た綺麗な紅葉。
11月23日九州紅葉の旅・その4(熊本県あさぎり町)【上村城】 ― 2014年12月04日 23時09分30秒
人吉城を散策後は一旦町で昼食をとり、その後くま川鉄道に乗って「あさぎり駅」へと移動した。「あさぎり駅」からはレンタサイクルを借りて南へと移動し、上村地区へと向かった。目的地は「麓城」と呼ばれている上村氏の居城の上村城跡である。

とりあえず、城下町があった場所に白髪神社があるのでそれを目指して移動したが、近くまで着てみたら画像のようになんとも判り易い冠木門のオブジェがあった。この先が麓馬場通りで、かつては武家屋敷が立ち並んでいた一帯である。ちなみにこの画像とは逆の後ろの方に白髪神社がある。

麓馬場通りを直進するとやがて砂利道の山道に入り、そこからさらに奥に進むと小さな沢を渡って山の上に登り始め、そして登りきった場所に急に平場群が現れた。ここが上村城の中心部であり、「紅葉の隠れた名所」との噂通りの見事な燃える景色が広がっていた。

縄張りの事前情報を得ていなかったので想像になるが、画像はたぶん上村城の本丸と思われる場所。右に見えるのは城内で最も高かった場所で、土塁ではなくたぶん物見台ではないかと思う。

物見台と思われる箇所から南の城内を見ると城の中心を南北に土塁のようなものが伸びているのが判った。たぶん平場を造る際に尾根を削り残したもので、手前に切れ目が入っているのは東西の平場を繋ぐ通路のためだろう。

画像は前述の土塁の上から逆に物見台?方面を見た様子。土塁の両サイドに郭があり、大小の郭が雛壇状に展開している。

南側には大きな堀切が設けられており、背後の山地とはここで分断されている。一応、堀切の先にハイキングコースが続いており、ずっと進んでいけば永里城に行けるらしいが時間の都合で確認していない。

ちなみに堀切の手前は良く見ると登り土塁になっていた。
11月23日九州紅葉の旅・その3(熊本県人吉市)【人吉城】 ― 2014年12月02日 23時28分57秒
街から胸川に架かる大手橋を渡った先は人吉城の城内であり、この日のメインの目的地であった。

橋からは川岸に聳える石垣と復元された多聞櫓がハッキリ見えるため、城跡に来たことが実感できて気分が高鳴るには十分だった。ちなみに多聞櫓の中に入ることもでき、中には祭用と思われる甲冑や、釜の遺物、ジオラマ等が展示されていた。

復元されているのは多聞櫓だけではなく、北西隅には角櫓も復元されていた。ただし、こちらの方は多聞櫓と違って内部は開放されていなかった。

城内の相良清兵衛屋敷跡には歴史館が建てられており、中には人吉城と相良氏関連の展示があってなかなか興味深かったが、中でも目を引いたのは相良清兵衛屋敷の地下室遺構で、用途が謎なのも気になったが、思ったより広いのもまた印象深い遺構だった。

城内の平地はかつて一族重臣の屋敷があった場所だが、山に隣接する麓には城主の御殿があり、今もその御殿の周囲には石垣が良く残っていた。南側には水堀も残っており、この周辺の木々はちょうど紅葉して綺麗だった。

御殿跡は今は神社となって御殿関連の建物は残っていないが、唯一庭園だけが当時の景観を今に残していた。庭園では水面に写る紅葉がなかなか良かった。

御殿跡からは三の丸へと登る山道と階段があったが、これは恐らく現代に造られたものだろう。その階段を登った先にある三の丸はなかなか広々としており、山の上とは思えないほどだった。画像手前は於津賀神社があった場所で、奥の石垣の上が三の丸、左奥のさらに高い場所が二の丸。

二の丸へと登る途中にある「中の御門」の枡形はまさに近世城郭といった造りで、けっこう見ごたえがあった。

二の丸からさらに小さな階段を登った先の山頂が本丸跡で、石垣でしっかり固めている二の丸、三の丸と違って自然地形のままで雑な感じだが、当時は祈祷などに使用したとされる宗教関連施設があっただけの場所だったという。ちなみに最高所ではあるが展望は悪く、二の丸か三の丸から見る城下の景色の方が良かった。

帰りは御下門から続く山道から下山したが、この道中に椛が密集しており、なかなか見事な紅葉が見られた。

御下門の周辺の麓一帯にも紅葉した木々が連なっており、この辺りの紅葉の景色もなかなか素晴らしいものがあった。

武家屋敷に移築された堀合門は元々城内にあったもので、今は元あった位置に堀合門を複製した城門が建てられていた。

なお、堀合門の隣では「はねだし石垣」を見ることもできた。なお、この付近には船で出入りするための「水の手門跡」もあるため、人吉城では重要な見所スポットだと言える。
11月22日九州紅葉の旅・その1(宮崎県綾町)【綾城】 ― 2014年12月01日 00時52分53秒
11月後半の三連休は久しぶりに暇が出来たため、秋を求めて九州へと出かけて来た。今年も引き続き忙しい日々が続いたため、秋を満喫する間も無くあっというまに関東も東北も落葉してしまったため、それならいっそと秋真っ最中の九州に飛んだわけである。
初日は空路で宮崎入りし、宮崎市街の紅葉はまだ微妙だったので、山側へ向かった場所にある綾町へと向かった。もちろんこの場所にある中世の城である綾城が目当てである。
初日は空路で宮崎入りし、宮崎市街の紅葉はまだ微妙だったので、山側へ向かった場所にある綾町へと向かった。もちろんこの場所にある中世の城である綾城が目当てである。

綾城へ向かう途中に大きな鳥居があり、その鳥居の側に銀杏の木があったのだが、残念ながら黄葉が終わって落葉が始まっている感じだった。画像はその銀杏の木越しに綾城を望んだ景色。

綾城のある台地へと登る道は車道くらいしか見当たらなかったので、その車道を登って向かったが、おそらく画像の道は堀切跡を拡張して車道を通したものだろう。画像右側が三の郭で、左側が四の郭である。

三の郭から主郭までの一帯は有料区画となっており、入口には冠木門風のゲートがある。ゲートの看板に「綾城」「国際クラフトの城」とあるが、後者は二の郭跡に建てられた工芸館のことである。ちなみに画像とは逆の四の郭の方は駐車場と民家となっている。

三の郭は冠木門だったが、二の郭の入口は薬医門が建てられており、模擬城門とは言えなかなか凝った造りになっているのには感心させられた。まぁ、伊東氏の家臣の綾氏の居城にしては少し重厚すぎる気もするが・・・。

綾城跡にはとにかく堀切と土塁がよく残っており、前述の三の郭と四の郭間は車道で破壊されているものの、他の郭の間にはしっかり画像のような堀と堀に面した土塁を見ることができた。

二の郭内には「国際クラフトの城」と呼称する工芸館があるが、その工芸館の隣には地味に昔の学校の建物を移築した記念館があった。城跡とは関係無い建物ではあるが、それでも赤ポストも含めてなかなか味のある景観だった。なお、二の郭跡には井戸の遺構がしっかり残っていた。

二の郭跡の国際クラフトの城の前を右に曲がりさらに奥に進むと堀切を渡った先の主郭に辿り着くが、ここに麓から見た望楼型天守閣が建てられている。もちろん綾城にこのような建物があった記録は無いため、これも模擬建造物なわけであるが、建造には日本城郭協会の人が携わったらしく、かなり本格的な木造の建物となっていた。模擬建造物でこれほど本格的で驚かされたのは伊賀上野城以来である。

天守閣内部は資料館となっており、地形模型などもあってなかなか参考になったが、やはり見所は最上階からの展望であた。ここからは綾の街がある盆地が一望でき、まさに領主の居城に相応しい眺めであった。
綾城散策は想像していたよりも楽しめたのだが、当初の目的である紅葉はほとんど見られなかったため見込みが甘かったことを痛感させられた。