12月23日年の瀬会津の旅・その3(福島県会津若松市)2012年12月27日 22時23分26秒

武家屋敷を見た後は若松城方面へ移動し、会津風雅堂へと向かった。

総構えの外掘跡
・・・と言っても、風雅堂に用事があるわけではなく、用事があったのは駐車場である。ここには若松城の総構えの外掘跡があり、駐車場を斜めに横断している。


若松城総構えの外掘跡
駐車場には堀が埋まっている箇所を色を変えて表示しており、大体どのくらいの幅があったかよく判るようになっていた。これに天寧寺土塁を想像で組み合わせると、若松城の総構えの様子がなんとなく判る気がする。


若松城総構え甲賀町口の石垣
会津風雅堂から北に行けば天寧寺土塁があるが、ここは何度も見ているので今回はスルーし、さらにそこから北西に行った場所にある総構えで最も大きな門があった甲賀町口の郭門跡へと向かった。このあたりは完全な市街地で総構えの遺構はほとんど確認できないが、その町の中に突如現れる郭門跡の石垣はなかなか見事なもので、よく今まで残っていたものと歓心せざる得ない。


興徳寺
市街地化したと言っても案外寺社仏閣の位置だけは変わっていないことが多く、甲賀町口から西に移動した場所にある興徳寺も江戸時代の絵図と同じ位置に今もある。奥州仕置きで会津にまで来た豊臣秀吉が泊まった寺で、蒲生氏郷の遺髪を治めた墓があることでも有名だが、現状は画像のようにあまり寺らしさが無いのが残念なところ。


若松城総構え大町口跡
興徳寺から市街地をさらに西に行くと総構えの大町口跡ある。画像の道が蛇行している場所が大町口跡で、ホテルの前に石碑が建てられている。この辺りは今は「野口英世青春通り」と呼ばれていた。


会津藩江戸屋敷の石垣
ちなみに、大町口跡の近くの「野口英世青春広場」には、会津藩江戸屋敷跡から発掘された石垣を使った花壇がある。


会津四つ角(札の辻)
大町口跡から少し北上した所の「四つ角」の交差点は城下町の札の辻の跡で、ここが会津五街道の基点だった場所である。江戸で例えるなら「日本橋」と言ったほうが判り易いだろうか。


御三階
四つ角からさらに西の七日町の阿弥陀寺には御三階櫓が移築されており、久しぶりに見に向かったが、阿弥陀寺の北口が閉鎖されていたのには少し驚いた。ちなみに移築された御三階櫓だが、正面の入り口部分は本丸御殿の玄関の一つを流用しており、城内にあった姿から大分改造されてる。