12月24日肥の国旅行・その7(長崎県南島原市) ― 2012年01月03日 00時32分23秒
島原城を見た後は半島を一気に南下し、「島原の乱」の終焉の地となった原城へと向かった。原城は天草四郎を盟主としたキリシタン、旧領主の家臣だった浪人、そして農民たち約3万人が立て篭もった場所で、幕府軍12万と激しい攻防戦を繰り広げた場所である。結果は篭城側の約3万人が撫で斬りされるという凄惨なもので、これによって島原の多くの集落が無人になったというから恐ろしい話しである。
城は丘陵を利用して築かれており、真砂温泉側から城内へと向かうと、まるで城壁のように丘が立ちはだかっているのが印象的だった。城内へと入る大手門跡は車道が貫通しているため構造がわかりづらいが、未完成の城だったことを考えると、普通の平虎口だろうか?
三の丸は西側が高台で、東側は窪地のようになっていた。窪地は元は沢だったと思われ、先は海に通じていた。縄張り図によれば、この海側にも門があったらしい。
二の丸は三の丸より高く、なによりもその広さに驚かされた。三の丸もそうであったが、二の丸も現在は全体が耕地となっており、かつてここに3万人も篭城していたとは思えない長閑さであった。
二の丸と本丸の間には空堀があり、土橋が架かっていて、現在は車道として利用されていた。
その本丸の空堀はかなり大きなもので、乱での篭城戦時はここにも人員を収容していたという。
本丸の西側には本丸と同じくらいの高さの鳩山郭があり、ここも現在は耕地となっていた。上の画像はこの鳩山郭から本丸を見た景色。
鳩山郭からの景色にも写っているが、この本丸の櫓台が本丸では最も特徴的な部分であった。「島原の乱」後の城の取り壊しにより、石垣はかなり失われているが、それでも根元部分に残っている石垣は思ったより多かった。
本丸の虎口部分は元々埋まっていたらしいが、発掘によってごらんのような虎口跡が現れたという。そして、その発掘時には取り壊された石垣や塁壁の残骸に混じっておびただしい数の人骨も出てきたという。これは、乱で無くなった3万の人々が城を墓標にして埋められていたということであり、この城にはまだ人知れずに眠っている人々も多く居るのだろうと考えさせられた。
本丸の背後は断崖絶壁で、海に面しており、「島原の乱」の時にはこの海からオランダ船による砲撃が加えられたという。
本丸の一部は発掘調査中なのか掘り起こされてブルーシートが掛けられている場所があった。正直なところ、この城に限っては何が出てくるのか、知りたいような知りたくないような複雑な気分である。
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