あけましておめでとうございます2012年01月01日 13時19分55秒

新年あけましておめでとうございます。

前年は自分の体験した中では最も災厄な年だったので、今年こそは平穏な年になるよう祈っております。

抱負としては、遅々滞々として進んでいないデータベースの更新をいい加減前進させたいところ。

今年期待している場所は難攻不落の城として名高い玉縄城で、11月には築城500年祭が催されるとのこと。是非とも忘れないようにしておきたい。

12月24日肥の国旅行・その6(長崎県島原市)2012年01月02日 01時11分33秒

天草でのキリシタン関係の資料に感化され、3日目は有明海を渡って島原へと移動した。上陸してまず向かった先が島原城で、前日に訪れた天草の富岡城同様にキリシタン一揆勢に攻め落とされなかった堅城である。

島原城
大手門跡から内堀へと向かうと、これぞ城といった見事な光景が飛び込んできた。島原城の写真ではよく見るアングルだが、一通り散策した後でもこの場所から見た景色が一番だと感じた。


三重櫓
島原城の本丸には三重櫓が3つ外観復元されていたが、この地方の櫓としてはどれもかなり大きなものだった。


内堀内部
内堀は大部分が現存しているが、水が張られているのは本丸南部の部分だけで、他は堀底に降りて移動できる状態に整備されていた。なお、本丸と二の丸の間の堀底にはゲートボール場もあった。


廊下橋の跡
本来は本丸には二の丸から廊下橋を渡って入るしかルートが無かったが、現在廊下橋があった場所には橋は架かっておらず、二の丸からは階段で一度降りてから再び本丸へと登るようになっている。


現在の入り口
また、本丸西側には車で直接本丸へ入る道があり、これは無理やり石垣を崩して堀を埋めて作った道である。さすがにこのやり方は少々強引すぎる気がする。


島原城天守閣
おかげで本丸内部は駐車場の中に天守閣が立っているという、ちょっと残念な風景になっており、西側の三重櫓の付近から駐車場が隠れるように撮るのが観光客の標準撮影風景のようだった。


天守閣の石垣には・・・
天守閣の石垣は良く見ると、テレビ番組でのイベントの跡が残されていた。なお、天守閣内部は鉄筋コンクリートの資料館となっており、周囲には侍や忍者にコスプレした従業員がうろついていた。


天守閣から見た景色
天守閣の最上階からの眺めは素晴らしく、島原市街がぐるりと一望でき、目の前には火山として知られる雲仙普賢岳が聳えていた。


武家屋敷の通り
二の丸、本丸を巡り天守閣に登った後は、武家屋敷へと向かった。ここは現存する屋敷は3家しかないが、通りの両脇には石垣の塀が続き、真ん中を水路が通って見事に当時の通りが復元されていた。


武家屋敷山本家
建物としては山本邸、篠塚邸、島田邸の3家が残っており、篠塚邸の角度が異なるが、全体的に似たような造りの屋敷となっていた。


武家屋敷佐久間家跡
武家屋敷の通りとは城を挟んで逆になるが、佐久間家の屋敷跡も今は公園として整備されていた。ここは建物が無いため跡地だけの見学となるが、堀底に続く階段もすぐ側にあるため立ち寄りやすい場所だった。

12月24日肥の国旅行・その7(長崎県南島原市)2012年01月03日 00時32分23秒

島原城を見た後は半島を一気に南下し、「島原の乱」の終焉の地となった原城へと向かった。原城は天草四郎を盟主としたキリシタン、旧領主の家臣だった浪人、そして農民たち約3万人が立て篭もった場所で、幕府軍12万と激しい攻防戦を繰り広げた場所である。結果は篭城側の約3万人が撫で斬りされるという凄惨なもので、これによって島原の多くの集落が無人になったというから恐ろしい話しである。

島原城大手門跡
城は丘陵を利用して築かれており、真砂温泉側から城内へと向かうと、まるで城壁のように丘が立ちはだかっているのが印象的だった。城内へと入る大手門跡は車道が貫通しているため構造がわかりづらいが、未完成の城だったことを考えると、普通の平虎口だろうか?


原城三の丸跡
三の丸は西側が高台で、東側は窪地のようになっていた。窪地は元は沢だったと思われ、先は海に通じていた。縄張り図によれば、この海側にも門があったらしい。


原城二の丸跡
二の丸は三の丸より高く、なによりもその広さに驚かされた。三の丸もそうであったが、二の丸も現在は全体が耕地となっており、かつてここに3万人も篭城していたとは思えない長閑さであった。


二の丸と本丸間の土橋
二の丸と本丸の間には空堀があり、土橋が架かっていて、現在は車道として利用されていた。


原城空堀跡
その本丸の空堀はかなり大きなもので、乱での篭城戦時はここにも人員を収容していたという。


鳩山郭から見た本丸
本丸の西側には本丸と同じくらいの高さの鳩山郭があり、ここも現在は耕地となっていた。上の画像はこの鳩山郭から本丸を見た景色。


原城本丸櫓台
鳩山郭からの景色にも写っているが、この本丸の櫓台が本丸では最も特徴的な部分であった。「島原の乱」後の城の取り壊しにより、石垣はかなり失われているが、それでも根元部分に残っている石垣は思ったより多かった。


原城本丸大手門跡
本丸の虎口部分は元々埋まっていたらしいが、発掘によってごらんのような虎口跡が現れたという。そして、その発掘時には取り壊された石垣や塁壁の残骸に混じっておびただしい数の人骨も出てきたという。これは、乱で無くなった3万の人々が城を墓標にして埋められていたということであり、この城にはまだ人知れずに眠っている人々も多く居るのだろうと考えさせられた。


原城の背後は海
本丸の背後は断崖絶壁で、海に面しており、「島原の乱」の時にはこの海からオランダ船による砲撃が加えられたという。


発掘調査中
本丸の一部は発掘調査中なのか掘り起こされてブルーシートが掛けられている場所があった。正直なところ、この城に限っては何が出てくるのか、知りたいような知りたくないような複雑な気分である。

12月25日肥の国旅行・その8(熊本県阿蘇市)2012年01月04日 23時24分10秒

4日目の最終日は阿蘇へと出かけ、まず始めに肥後国一ノ宮の阿蘇神社へと参拝することにした。

阿蘇神社楼門
阿蘇のこの日の天候は雪で気温も寒く、手水舎の水が冷たくて大変だった。南北に伸びる参道の途中の西側に神社の楼門があり、参道が正面に延びていない珍しい構造だが、これを「横参道」と呼ぶという。さらに楼門も神社では珍しい2階建ての大きなもので、「日本三大楼門」の一つに数えられているという。たしかに、楼門だけを見ると神社というより寺院という感じで、なかなか面白いものだった。


阿蘇神社拝殿
楼門を潜った先にはすぐ拝殿があり、楼門の規模の割には普通な感じがする社だった。参拝を済ませた後はいつもどおりお守りを買って、おみくじを引いて来たが、ここのおみくじは縁起物の小物が付いてくるという面白いものだった。


阿蘇神社門前町
神社の門前町は参道の北側にあり、神社には参道の南側から来たため危うく見落とすところだった。とりあえず、寒かったので阿蘇牛のカレーパンを買って見て回ってみたが、後からもう少しゆっくりしても良かったかなと後悔した。

12月25日肥の国旅行・その9(熊本県阿蘇市)2012年01月05日 23時08分44秒

阿蘇神社の参拝後は内牧へと移動し、街に埋もれた内牧城跡を散策したが、とにかく風が冷たくて痛かった。

内牧城本丸
内牧城の本丸跡は市立体育館がある場所で、内堀だった旧河川に囲まれているため縄張りはわかりやすいが、特にこれといったものは無かった。一応、車道沿いには城跡の説明板がある。


内牧御茶屋大門跡
画面を横切る道が街道の跡で、この正面に大手門である大門があった。この画面の奥が本丸跡となる。


旧河川(内堀跡)
内堀だった旧河川は途中で途切れて消滅しているが、よく見ると地形に跡が残っており、その上を今は車道が通っている。途切れている部分の周辺は公園として整備されており、地図を確認しないと一見池のようにも見える。


内牧城二の丸跡の石垣
二の丸跡は主に駐車場と公園と化していたが、ここには石垣が残されていた。部分的に積みなおされている箇所もあるそうだが、使用されている石は加藤可重時代のものだという。


浄信寺山門(移築城門)
城跡の説明板によれば、浄信寺と明行寺の山門は内牧城の廃城時に移築されたものらしいが、どちらの寺にも特に山門についての説明は書かれていなかった。