8月4日里帰り寄道紀行・その6(青森県今別町・外ヶ浜町)2009年08月11日 20時58分54秒

小国城遠景
【小国城】

観瀾山を散策した後は、このまま平舘まで北上しようかと悩んだが、山を越えて今別へ向い、大開城を目指して移動することにした。

大開城は平俊忠の居城で、俊忠は南部氏の家臣とも浪岡氏の家臣とも伝わり定かではない。後に大浦為信が南部氏に反旗を翻して津軽を瞬く間に制圧すると平俊忠は行き場を失い、城を捨てて南部氏の元へと逐電したという。油川城や蓬田城が1585年に落城しているので、平俊忠が逐電したのもその頃と思われる。

とりあえず、今別と大平川の中間あたりに山間に食い込むように大開沢が開けており、城はこの沢の奥にあるらしいが、思いのほか草が多くて結局城跡には辿り着けなかった。確認は出来なかったが、恐らく沢の奥の鉄道のトンネルが貫通している山が城跡と思われる。

結局、収穫の無いまま今別を後にして蟹田方面へと戻ったが、途中で蟹田町の地図に載っている城を遠巻きに確認することにした。

小国城は自分が把握している資料には全く載っておらず、外ヶ浜町の史跡に指定されている奉行所跡や東風留館跡は地図に載っていないのに、なぜか史跡に指定されていない小国城だけ蟹田町の観光地図に載っており、なんとも不思議だったので確認しておきたかったのが理由である。

城跡は川沿いの段丘の東端部にあり、雑木林になっているが付近を道が通っているため散策は容易に思えたが、大開城散策で思いのほか時間を浪費したため、今回は遠目で確認するのに留めておいた。時間が差し迫っていたため、そのままの足で外ヶ浜を後にし、一路神奈川への帰途についた。

8月9日小田原城散策(神奈川県小田原市)2009年08月14日 22時17分10秒

銅門の枡形の狭間から見た馬出門の枡形
【小田原城】

日曜日に実家に送る土産を探していると、ふと小田原城の馬出曲輪の工事が今年の春に終了していたことを思い出したので、少し足を伸ばして小田原まで散歩をしてきた。

小田原に着いて軽く腹ごしらえをした後、せっかくだから登城路に沿って散策してみようと思い、国道255号沿いに出て市街地化した三の丸跡の外側を移動し、三の丸の大手門跡から城跡内へと侵入した。

城跡とは言っても三の丸は市街地に埋もれており、辛うじて一部に土塁や石垣が残っているだけである。地方裁判所付近にあった大手門も失われているが、この大手門の石垣の一部が鐘楼の台座として流用されており、中華料理店の日清亭の隣にひっそりと佇んでいた。鐘楼の説明板を見る限りでは今でも撞かれているようだが、これだけ民家が密集している場所ではあまり思いっきり撞けない様な気がするが実際はどうなのだろうか・・・。

大手門跡を過ぎてまっすぐ進むと小田原城址公園の平櫓が見える水堀に突き当たるが、ここから南に見えるのが今回整備された馬出曲輪である。

さっそく眼鏡橋を渡って馬出曲輪に侵入し、馬出門を潜る。するとちょうど「コ」の字型になった枡形に出るが、「コ」の字の開いている方向は水堀を挟んで銅門の郭と対峙しており、門を突破した者はここで対岸の狭間から狙い撃ちされる仕組みになっていてなんとも恐ろしい造りである。

枡形からさらに内冠木門を通ってやっと馬出曲輪の内部に辿り着くが、内部はどうもまだ整備の余地を残しているような感じで、所々に松の木が立つ放置された空き地のようになっていた。

馬出曲輪より住吉橋を渡って銅門の郭に侵入し、狭間からさきほどの馬出門の枡形を覗いてみるが、まさに丸見えで狙いたい放題だったのには思わず唸ってしまった。銅門の枡形はかなり久しぶりに訪れたが、枡形内の一部の漆喰が剥がれて内部の土壁が露出していたのは少々痛々しかった。

銅門から二の丸跡に侵入した後は本丸までは行かずに蓮池がある場所から再び三の丸跡へと出て、スポーツ会館脇の売店で小休憩をとった。ちなみに蓮池の蓮の花はほとんど咲いておらず、どうやら既に散ってしまったようだった。

小休憩の後はスポーツ会館の脇にある早川口土塁を確認し、さらに小学校脇の早川口門跡を散策したが、三の丸の門跡ではここが一番よく残っており、石垣と土塁で枡形の大きさが把握できるのがなんとも良かった。

小田原城跡は遺構の分布がさすがに広すぎて未だに全て見ては居ないが、今回は馬出曲輪のついでに三の丸跡を散策しただけで暑さのためにバテてしまい、最後に土産を買ってここで退散することにした。

8月21日奥羽古城散策更新2009年08月21日 22時17分24秒

奥羽古城散策
http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/

今回はいつもの城址データの追加だけではなく、色々気になった所を修正も兼ねて更新しました。

まず、管理人室を更新してサイトに関することを色々追加。注意事項については要するに「このサイトの情報を鵜呑みにすると大変なことになるかもしれません」ということです(苦笑)

リンクに関しては閉鎖を宣言していたサイト、繋がらなくなっていたサイト等を思い切って整理しました。

桜の綺麗な城址については、ただ猪苗代城の内部リンクを追加したのみです。まぁ、次の春が来る前までには10件くらい追加しておきたいものです。

寒河江氏の項目についても白岩氏の居城に内部リンクを追加したのみです。

そして城址データは今回は山形県に12城の追加です。長谷堂城は慶長出羽合戦のクライマックスの城で大河ドラマの影響で最近整備され始めました。南館はたぶん最上氏の別邸だったと思うのですが、これといったものは無かったです。白岩城は稲荷山、八幡山、上楯山を縄張りとする城郭で、六十里越街道沿いでは最も大きな城址です。城址碑は八幡山と稲荷山にありますが、上楯山は登れなかったのでそちらにもあるのかは不明。中山城は出羽国では珍しく山の中に石垣がある城址で、大きな郭が綺麗に展開しているなかなか見応え有る城だが、武家屋敷跡がバイパス工事で潰されたのが少々残念でならない。小滝城と狸森館は結局雪で登るのは断念しましたが、いずれは再訪する予定です。慶海山館は正直なところ宮沢城の一部と考えても良かったかなと今更ながらに思います。宮沢城は城そのものよりも城の立地がなんとも面白く、もし攻められたら真っ先に熊野大社が戦場になるような立地で、その奥に城が隠れるようにあるため、まさに熊の巣の城です。尾浦城は半島状の山を利用したシンプルな造りの城だが、山の麓にあった湿地帯が人工沼になったせいもあってなんとも中世城址らしさがある場所だった。藤島城は内堀と土塁の一部しか残っていないのでなんとも残念だが、それでも城跡と判る遺構があるのは貴重です。荒砥城小さな独立丘陵全体に郭がある城址で、丘の上の神社の参道には置賜の名桜の一つの種蒔桜があるため、春には再訪したいところです。狩川城は庄内平野と最上川水運を抑える要所にあり、城址から見た風車の回る風景がなかなか印象的でした。

最後に今回からやっと城址の一覧表示が追加されました。まだ対応は青森県分だけですが順次追加予定です。