11月16日慶長出羽合戦の旅・後編(山形県南陽市)2008年11月22日 00時43分34秒

熊野大社の大銀杏
赤湯温泉に泊まった翌日、青空が見えていた土曜日とは一変し、日曜日は朝から雨模様となってしまった。それでも小降りの雨で、雨脚も強くなかったため、雨天決行で南陽市の宮内へと向った。南陽市は温泉宿場町の赤湯宿と、門前町の宮内から成立っており、市役所はこの2つの町の中間にあって、他の一極集中型の都市とは大きく異なっているのが面白い。

宮内に着いた後はさっそく宮沢城へと向った。宮沢城は門前町宮内のシンボルである熊野大社の裏にある平山城で、元々は熊野大社の神官の大津氏の居城だったが、置賜が上杉領となった後は上杉家臣の尾崎重誉の居城となった。重誉は慶長出羽合戦時には信夫郡に移されていたが、安部綱吉を始めとする家臣はまだ宮内に残っており、彼らは金山城の色部光長と共に吉野川を北上して小滝城に入り、小滝城の倉賀野綱元を大将として小滝峠より最上領へと攻め込んだ。

熊野大社の丘と双松公園の丘に挟まれた沢を遡っていくと果樹園が広がる丘が現れるが、この丘全体が城跡であり、丘の手前には堀跡の水田や土塁がよく残っていた。土塁から先に進み、農道沿いに登った場所が南郭跡で、郭自体は西へ本丸を回りこむように続いていた。

南郭からさらに丘の上に登った場所が本丸跡で、ここも含めて一面が全て果樹園で散策できるような場所ではなかった。雨が降ってるとはいえ本丸からは周囲がよく見渡せ、本丸の西側や北側には堀跡も確認できた。

本丸の西側や北側の郭はかなり広大で、境界がよく判らなかったが、北側は森に入る少し手前に沢を利用した横堀があったのでそこが北端なのだろう。

宮沢城跡を散策した後は城跡と門前町との間に横たわる丘の上にある熊野大社へと向かった。大社の境内への入り口には大きな銀杏の木があり、時期的にはもう遅いはずだが、紅葉真っ盛りで黄金色の巨体が眩しかった。石段を登って丘の上に出ると、そこには威圧感漂う茅葺の社殿があり、まさに写真で見た通りの光景がそこにあった。なお、熊野大社の境内には様々な社が集まっており、長井氏、伊達氏、上杉氏などの歴代の置賜の領主によって各地から勧請されたことが良く判った。

大社に参拝を済ませた後は昼食をとりに街に繰り出したが、思いのほか食事できる場所が少なく、ちょうど入った食堂は出前を受けていたのか慌しく、思いのほか昼食に時間がかかってしまった。

昼食後は宮沢城の出城の慶海館があった双松公園へと向ったが、どうやら先週まで菊祭りをやっていたらしく、菊は無いが祭りの看板だけが残っていた。公園化された城跡は北から南へ延びる丘陵の南端にあり、南部にバラ園、最も高い場所に神社があるが、全体的に公園化のせいか城跡らしい部分は見られず、強いて言えば公園と水道ポンプの間の鞍部が堀切のように見えるくらいだった。なお、水道ポンプ付近から宮沢城側へと降りていくと、木の中ほどでくっついた珍しい二つの松があってなかなか珍妙な光景だった。

慶海館跡を散策した後は、足軽町側に降りてそのまま吉野川沿いに北上した。目的地は冒頭に出てきた色部光長の居城の金山城(金山平館)がある金山地区だったが、正直なところ資料がほとんどなく、城跡の正確な位置は確認できなかった。それでも散策してみた限りでは、城跡のあったとされる場所付近は河岸段丘となっており、段丘の端に築かれていたものと想像されるが、堀跡と思われる場所は見当たらなかったため、縄張りの範囲はさっぱり判らなかった。

金山城跡付近を散策した後は日が暮れてしまったため、宮内を離れて赤湯へと戻り、神奈川への帰途に着いた。

11月22日慶長出羽合戦の旅その2・初日編(山形県南陽市・上山市)2008年11月27日 00時12分10秒

小滝峠から狸森方面を望む
先週に引き続き、今回の三連休も山形に行ってきたが、先週とは一変して板谷峠を越えた先は白銀の世界だったのには驚いた。しかし、今更予定を変更するのも悔しいため、初日は先週の続きで宮内からさらに北の山奥にある小滝へと向かった。

小滝は慶長出羽合戦時に上杉家の倉賀野綱元の居城があった場所で、綱元は宮内の安部綱吉・大津善右衛門や金山の色部右衛門と合流し、約800の軍勢で小滝峠を越えて狸森へと攻め込んだ。

そんなわけで、まずは綱元の居城である小滝城へとやってきたのだが、山間部だけあって積雪は30cmを超えており、雪山登山を考慮していなかったため城山の麓で諦めるしかなかった。しかし、このまま帰るのも芸が無いので、実際に小滝峠を越えて狸森まで移動することにした。小滝峠は今はトンネルがあるためほとんど交通量が無く、除雪もされていないため非常に登り難かったが、峠を越えると急に道が除雪されていて驚いた。峠を越えて上山市側に入るとあとは只管下り坂で、除雪もされていたので苦労は無かったが、雪で倒木したり枝が折れたりしてガードレール上部が凹んでいる様子は少々怖かった。

倒木にも落雪にも遭遇せずに無事に狸森へと抜けた後は、最上家の坂重内の居城の狸森館へと向った。狸森は狭い回廊のような地形で、この回廊を抜けると慶長出羽合戦クライマックスの地の長谷堂である。綱元は狸森館を攻略して長谷堂攻めの直江兼続の本隊と合流したが、後に坂重内の狸森衆や上山合戦に勝利した上山衆のゲリラ戦によって小滝街道は封鎖され、上杉軍はこのルートを退路に使用できなかったという。

坂氏の居城である狸森館は本沢川に面した断崖の上にあり、冬枯れと藪が無いおかげで対岸からでも広い平場が確認できたが、肝心の崖の上に登る場所が判らなかった。当初東側の林道から登れるかなと思ったが、何やら工事車両がいたので遠慮して、西側の元屋敷側に回り込んでみたが雪と日暮れでよく判らなかった。

狸森館へ登ることを諦めた後は上山温泉へ向い、本日の疲れを温泉で癒したが、雪でまともに散策できなかった上に無駄に疲れたのは無念であった。

11月23日慶長出羽合戦の旅その2・二日目編(山形県白鷹町・山形市)2008年11月29日 16時57分30秒

長谷堂城から見た上杉本陣の菅沢山(中央の丘)
二日目は初日より気温が上がったのか雪から雨模様となったが、昼からは晴れるとのことなので、今回は上杉本隊の足取りを追って荒砥へと向った。

荒砥は慶長出羽合戦では直江兼続を総大将とする最上攻め本隊1万8千の集合拠点となった場所で、荒砥城は兼続側近の泉沢久秀の居城だった。

荒砥城は荒砥の街中の丘の上にある平山城で、現在は八乙女八幡神社や公民館の敷地となっている。とりあえず神社の階段より丘の上に登るが、雨のせいで階段が滑って危うく転倒しそうになった。階段の中腹には蛇の井戸という、城を守護する水神の伝説が残る井戸があるが、伝説に出てくるような深そうな堀等は荒砥城には見当たらないため、あまりパッとしない印象の井戸だった。

階段を登った先の境内には種蒔桜という古木があり、参道に覆いかぶさるように生えている様子はなかなか迫力がある。できれば桜の咲く時期にまた訪れたいものである。種蒔桜のある郭はそのまま城の周囲を周る帯郭に続いており、この帯郭はかつては空掘だったらしい。

種蒔桜のある郭から西に少し登った神社の本殿がある場所がおそらく二の丸で、本殿から南に少し登った公園のような場所が本丸らしく、土塁等の遺構は明確に見られなかったが郭はなかなか広かった。さらに本丸の帯郭より南側の麓近くには現在公民館となっている一際広い郭があり、その南側に東西に走る空掘がよく残っていた。

荒砥城を一通りぐるりと周った後は、本来であれば順番的に畑谷城に行くべきだったが、畑谷は狐越街道の山間部であり、小滝城の二の舞になりそうな予感がしたため、今回は飛ばして本命の長谷堂城へと向うことにした。長谷堂周辺に雪がほとんど無かった事は前日に確認しており、天気予報通りに天候も回復したため、到着した頃にはちょうどいい散策具合となった。

長谷堂城は慶長出羽合戦において最大の激戦地となった場所で、直江兼続率いる上杉軍2万を長谷堂城の志村光安が迎え撃って半月耐えしのいだため、上杉軍は関ヶ原の西軍の敗北により山形城に至ることなく退却せざる得なかったという。長谷堂城の篭城兵の数は諸説あるが、当初は五百名ほどで、後に周囲の城館からの撤退兵や地侍(農民)が入り、さらに最上義光が旗本を援軍として入れたため、上杉軍を迎え撃った時点での兵数は一千名ほどとされる。最終的には鮭延氏などの援軍も投入され、二千名ほどが上杉軍二万と死闘を繰り広げた。

長谷堂城は盆地と山地の間にある独立丘陵で、丘陵の周囲に水堀を巡らした平山城であった。ここから山形城までは平地しか無く、ここが落ちれば最上義光には決戦を挑むしか手段は無いため、伊達氏の援軍を含めた全軍を沼木まで進めて布陣したが、ここで関ヶ原東軍勝利の報が届き、戦況は一変することとなった。

城の外郭大手門は山の西麓にあったが城主の居館や武家屋敷は東麓の外郭にあり、水堀で隔てられた郭が連なっていたが、今は水堀は残っておらず、水路はあるが水堀の位置とは異なっており、遺構と言えるかは微妙だった。それでも街中の道路には喰い違いが残っており、面影が所々に見て取れた。

城山の大手は外郭とは逆に東側にあり、山道を登っていくと途中に慈眼庵の御堂があり、さらに九十九折の道の周囲には小さな腰郭が無数に連なっていた。山道を登りきると南側に柵で囲まれた郭があり、どうやら整備の途中らしく大河ドラマ絡みの急造感がなんとも言えない。さらに山道を登り、まだ藪の残る郭を通り抜けると山頂の本丸跡南端の稲荷の祠へと出た。

本丸はなかなか広く、中央には城址碑があってその側には四阿があり、そこから北東側は木々も無く山形盆地が一望できた。晴れていたため山形市内はしっかり見え、霞で見えないことから霞城と呼ばれた山形城もかすかに視認できた。最上義光は山形城稲荷口の城外に本陣を置いていたので、長谷堂からは本陣の篝火がよく見えたのだろう。志村氏を始めとする城兵たちはここからの景色を見て、何を思い大軍の前に逃げ出さずに戦っていたのだろうかと思うと、なんとも言えない気持ちがこみ上げてくる。

本丸の周囲には帯郭が取り巻いており、そこから南側に降りていくと観音堂のある岬に出るが、この御堂が長谷堂の名の由来だという。観音堂のある郭と本丸腰郭との間には鞍部があり、恐らく当時は堀切があったのだろう。この鞍部から西側に降りてみると城山中腹を取り巻く横掘跡に出るが、最初は帯郭だと思い通過してしまった。堀が見つからなかったため再度登り、帯郭を南側に移動するとしっかりと堀の形が残っており、ここでやっと横掘だと気づいた。

観音堂の岬から今度は山の中腹を北に移動し、逆側の八幡神社の岬へと出た。ここは南北に細長い岬で、城山を亀に見立てると正に頭の部分にあたり、なんとも面白い。岬の北端に神社があって周囲は急崖となっているが、これといった防御遺構は見られなかった。

日没近くまで長谷堂を散策した後は、山形城と長谷堂城の間にある最前線の平城である南館へと向かった。南館は最上義守の隠居所や、義光の妹の義姫の館にもなった由緒ある場所だが、残念ながら周囲は住宅地となっており、遺構はさっぱり確認できなかった。住宅地の中には古峰神社があり、南館についての説明があるが遺構までは言及していなかった。

南館を散策している時点で既に日は暮れてしまったため、上山に戻り温泉に浸かって明日に備えた。

11月24日慶長出羽合戦の旅その2・最終日編(山形県寒河江市、山形市)2008年11月30日 02時05分49秒

白岩城本丸を下の腰郭から見上げる
最終日は慶長出羽合戦の上杉の庄内軍が攻略した川西へと向った。庄内軍のうち下秀久率いる尾浦勢は六十里越街道を通り、白岩城、寒河江城、谷地城を瞬く間に落として、谷地城に拠点を置いた。一方、庄内軍のうち志駄義秀率いる酒田勢は最上川沿いに侵攻し、最終的に下氏の軍勢と合流して、志駄氏側は白岩城を拠点とした。

庄内軍は上杉本陣とは離れていたため、関ヶ原西軍敗退による上杉の撤退命令が届かず、反撃を開始した最上軍によって城を包囲される事態になるが、志駄氏は間一髪で城を脱出し、六十里街道を封鎖した最上軍を避けて朝日山地を通って庄内へと逃れた。一方で出遅れた下氏は谷地城での篭城戦の末に最上氏に降伏した。

下氏の篭城した谷地城は以前訪れたことがあったので、今回は志駄氏が滞在した白岩城を散策することにした。城跡は六十里越街道沿いの丘陵の上にあり、白岩の街の背後の断崖の上にある。とりあえず八幡宮の参道より断崖の上に登るが、神社本殿のある場所からさらに奥の一段高い場所に登るとちょっとした広場になっていてそこに白岩城の石柱が建っていた。広場の山側には土塁がわずかに残っていたが、物見台のような遺構もあり、白岩城の東南部の重要な郭だというのがよく判る。この郭の背後は谷地形になっており、見ようによっては堀跡ともとれる。

白岩城跡の碑がある郭は断崖沿いに西に同じ高さで続いており、ある意味巨大な塁壁となっている。そしてある程度西に行った場所に塁壁をかぎ状にくり貫いた通路があり、ここが大手口だという。この通路の真っ先には白岩城の中枢部である稲荷山があり、ちょうど南側に参道があって登れるようになっている。

石段が崩れて登り難い参道を登ると、稲荷神社のある郭に出た。さらに神社の裏には土橋があって奥の丘へ続いており、渡った先の丘の頂上部分が白岩城の本丸で、ここには白岩城の標柱が建っていた。本丸はさほど広くは無く、3mほどの切岸の下に腰郭があり、腰郭より下はそれほど急斜面では無かった。また、雪が積もっていてよく判らなかったが、今は畑になっているようである。

稲荷山から下山した後は、先の八幡宮より続く大塁壁の延長線上に位置する上楯山という出城部分に登ろうと思ったが、雪の積もった段々畑を通らないといけない上に登れる場所があるのか不明だったため、今回は諦めることにした。

白岩城を一通り散策したが、稲荷山の周囲を沢を利用した堀が取り巻き、その外側を塁壁に見立てた丘で囲むカルデラのような縄張りは中々面白かった。

白岩城を散策した後は昼食を取る為、前々から気になっていた慈恩寺そばを食べに行った。慈恩寺そばの店は白岩と寒河江の中間あたりにあり、当初外観を見た時は本当に店をやっているのか不安になったが、内部はちゃんとした店舗になっており、ちょうど家族連れのお客が居たが特に待つこともなく食事にありつけた。とりあえず「板そば」を頼んで食べたが、これが太く歯ごたえがあって少々顎が疲れたが、蕎麦の味が出ていて良かった。

蕎麦を食べた後はもう少し寒河江を散策するつもりだったが、困ったことに天候が悪化して雨が降り出したため、山形へと戻ることにした。山形へと戻った後は慶長出羽合戦時に最上義光が本陣を置いた山形城三の丸稲荷口へ向ったが、当然ながら市街地化で遺構などは存在せず、近くの公園に三の丸堀跡の面影が残っているだけだった。それでも稲荷口の名前の由来となった壽稲荷神社が近くにあり、神社の説明板には慶長出羽合戦のことも記載されていたのは良かった。

なんだかんだで稲荷神社に居る頃には日が落ちてしまったが、最後に山形城の本丸整備の様子を確認し、神奈川への帰途についた。