11月23日慶長出羽合戦の旅その2・二日目編(山形県白鷹町・山形市)2008年11月29日 16時57分30秒

長谷堂城から見た上杉本陣の菅沢山(中央の丘)
二日目は初日より気温が上がったのか雪から雨模様となったが、昼からは晴れるとのことなので、今回は上杉本隊の足取りを追って荒砥へと向った。

荒砥は慶長出羽合戦では直江兼続を総大将とする最上攻め本隊1万8千の集合拠点となった場所で、荒砥城は兼続側近の泉沢久秀の居城だった。

荒砥城は荒砥の街中の丘の上にある平山城で、現在は八乙女八幡神社や公民館の敷地となっている。とりあえず神社の階段より丘の上に登るが、雨のせいで階段が滑って危うく転倒しそうになった。階段の中腹には蛇の井戸という、城を守護する水神の伝説が残る井戸があるが、伝説に出てくるような深そうな堀等は荒砥城には見当たらないため、あまりパッとしない印象の井戸だった。

階段を登った先の境内には種蒔桜という古木があり、参道に覆いかぶさるように生えている様子はなかなか迫力がある。できれば桜の咲く時期にまた訪れたいものである。種蒔桜のある郭はそのまま城の周囲を周る帯郭に続いており、この帯郭はかつては空掘だったらしい。

種蒔桜のある郭から西に少し登った神社の本殿がある場所がおそらく二の丸で、本殿から南に少し登った公園のような場所が本丸らしく、土塁等の遺構は明確に見られなかったが郭はなかなか広かった。さらに本丸の帯郭より南側の麓近くには現在公民館となっている一際広い郭があり、その南側に東西に走る空掘がよく残っていた。

荒砥城を一通りぐるりと周った後は、本来であれば順番的に畑谷城に行くべきだったが、畑谷は狐越街道の山間部であり、小滝城の二の舞になりそうな予感がしたため、今回は飛ばして本命の長谷堂城へと向うことにした。長谷堂周辺に雪がほとんど無かった事は前日に確認しており、天気予報通りに天候も回復したため、到着した頃にはちょうどいい散策具合となった。

長谷堂城は慶長出羽合戦において最大の激戦地となった場所で、直江兼続率いる上杉軍2万を長谷堂城の志村光安が迎え撃って半月耐えしのいだため、上杉軍は関ヶ原の西軍の敗北により山形城に至ることなく退却せざる得なかったという。長谷堂城の篭城兵の数は諸説あるが、当初は五百名ほどで、後に周囲の城館からの撤退兵や地侍(農民)が入り、さらに最上義光が旗本を援軍として入れたため、上杉軍を迎え撃った時点での兵数は一千名ほどとされる。最終的には鮭延氏などの援軍も投入され、二千名ほどが上杉軍二万と死闘を繰り広げた。

長谷堂城は盆地と山地の間にある独立丘陵で、丘陵の周囲に水堀を巡らした平山城であった。ここから山形城までは平地しか無く、ここが落ちれば最上義光には決戦を挑むしか手段は無いため、伊達氏の援軍を含めた全軍を沼木まで進めて布陣したが、ここで関ヶ原東軍勝利の報が届き、戦況は一変することとなった。

城の外郭大手門は山の西麓にあったが城主の居館や武家屋敷は東麓の外郭にあり、水堀で隔てられた郭が連なっていたが、今は水堀は残っておらず、水路はあるが水堀の位置とは異なっており、遺構と言えるかは微妙だった。それでも街中の道路には喰い違いが残っており、面影が所々に見て取れた。

城山の大手は外郭とは逆に東側にあり、山道を登っていくと途中に慈眼庵の御堂があり、さらに九十九折の道の周囲には小さな腰郭が無数に連なっていた。山道を登りきると南側に柵で囲まれた郭があり、どうやら整備の途中らしく大河ドラマ絡みの急造感がなんとも言えない。さらに山道を登り、まだ藪の残る郭を通り抜けると山頂の本丸跡南端の稲荷の祠へと出た。

本丸はなかなか広く、中央には城址碑があってその側には四阿があり、そこから北東側は木々も無く山形盆地が一望できた。晴れていたため山形市内はしっかり見え、霞で見えないことから霞城と呼ばれた山形城もかすかに視認できた。最上義光は山形城稲荷口の城外に本陣を置いていたので、長谷堂からは本陣の篝火がよく見えたのだろう。志村氏を始めとする城兵たちはここからの景色を見て、何を思い大軍の前に逃げ出さずに戦っていたのだろうかと思うと、なんとも言えない気持ちがこみ上げてくる。

本丸の周囲には帯郭が取り巻いており、そこから南側に降りていくと観音堂のある岬に出るが、この御堂が長谷堂の名の由来だという。観音堂のある郭と本丸腰郭との間には鞍部があり、恐らく当時は堀切があったのだろう。この鞍部から西側に降りてみると城山中腹を取り巻く横掘跡に出るが、最初は帯郭だと思い通過してしまった。堀が見つからなかったため再度登り、帯郭を南側に移動するとしっかりと堀の形が残っており、ここでやっと横掘だと気づいた。

観音堂の岬から今度は山の中腹を北に移動し、逆側の八幡神社の岬へと出た。ここは南北に細長い岬で、城山を亀に見立てると正に頭の部分にあたり、なんとも面白い。岬の北端に神社があって周囲は急崖となっているが、これといった防御遺構は見られなかった。

日没近くまで長谷堂を散策した後は、山形城と長谷堂城の間にある最前線の平城である南館へと向かった。南館は最上義守の隠居所や、義光の妹の義姫の館にもなった由緒ある場所だが、残念ながら周囲は住宅地となっており、遺構はさっぱり確認できなかった。住宅地の中には古峰神社があり、南館についての説明があるが遺構までは言及していなかった。

南館を散策している時点で既に日は暮れてしまったため、上山に戻り温泉に浸かって明日に備えた。

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