9月28日大崎遠征・後編(宮城県栗原市・大崎市)2008年10月02日 02時37分25秒

羽黒山の彼岸花
大崎遠征二日目は早朝ホテルを出てさっそく近くの古川城へ。

古川城は奥州探題・大崎氏重臣の古川氏の居城で、古絵図では円形の郭になっているが、調査結果では不等辺四角形の角を丸くした感じの郭だという。どっちにしてもなかなか面白い縄張りである。しかし、城跡の本丸は現在は小学校になっており、特徴的な内堀は今は残っていないのが悔やまれる。二の丸跡や外郭は完全に市街地に埋もれ、遺構は全く見られない。ただ、外堀の役目を果たした緒絶川だけが今も城跡を流れているのみである。

古川城跡を散策した次はすぐ側にある古川一族の青塚氏の城である青塚城を見に向った。だが、城跡は今は諏訪公園という運動場と神社を合体させた公園と高校の敷地になっており、全体を散策して見ても結局遺構らしきものは全く見つけられず、高校と諏訪公園の間の道路沿いにある標柱だけが唯一の城跡の証だった。

青塚城跡散策の後は市街地を離れて北に向かい、栗原市の高清水へと向った。目当ては大崎氏一族の高泉氏の居城で、近世には石母田氏の居城となった高清水城である。現在の城跡は本丸と二の丸が学校の敷地になっており、内堀は完全に埋め立てられ、外郭は高清水の街に埋もれてしまっていた。それでも絵図と現代地図を比べるとその縄張りの跡が車道等にハッキリ残っており、南部や北部の堀沿いには土塁の一部がしっかり現存していた。また、北側の外堀は東端が堀の形を残し、中央から西にかけてが外濠公園となっていた。正直期待していなかった分、思いのほか遺構が見られたのはなかなかの収穫だった。

高清水城を散策した後は古川に戻るように南下し、大崎氏の御所の一つである小野御所へと向かった。御所は街道から少し離れるものの、梅香院という目印があるため特定は容易だった。御所跡は小高い丘になっていて、中央部には西側から南側にかけて土塁が良く残っており、前述の寺院はこの西側土塁の外側に立地している。御所跡の大部分が雑木林だが、中央の郭内部は車道が貫通し、畑や民家の敷地となっており、遺構が思いのほか残っていたのには正直驚いた。なお、往時は城の周りには千枝湖という外堀の役割を果たした湖があったが、今はその湖跡と思われる場所は一面が水田となっている。

小野御所を散策した後は近くの羽黒山公園へと立ち寄った。公園の由来はどこにも書かれて居なかったが、たぶん湯殿山の石碑があったので出羽月山系の寺社があった場所なのだろう。この公園には一面の彼岸花が群生しており、見ごろは過ぎていたが、それでも秋を感じさせる彼岸花の花畑だけにどこか悲しくも美しかった。羽黒山を散策した後は公園の目の前にある食堂で昼食を取り、古川へと戻った。

古川に着いた頃は15時頃だったが、空は暗くなってきたため、最後に例の地震以来気になっていた岩出山へと向った。岩出山に着いて真っ先に向ったのが藩校の有備館で、地震で一部が壊れたそうだが、どうやら窓などにヒビが入ったくらいのようで、修繕した跡が見られたが、思いのほか無事でほっとした。

有備館を見た後は当然岩出山城に登る予定だったが、秋分を過ぎたせいか暗くなるのが早く、しかも交通トラブルで今日中に神奈川に戻れるかわからなくなったため、急遽切り上げて神奈川への帰途についた。

最後に余談ですが、今週末の10月4日は岩出山で「政宗公まつり」があります。

10月11日3連休遠征・初日編(愛知県名古屋市・福井県福井市)2008年10月15日 22時50分37秒

御殿跡一帯が工事フェンスで入れなくなった名古屋城の本丸
今回の3連休は福井県へと行ってきました。・・・と言っても、9月から無計画に遠征続きだったため、軍資金が非常事態宣言なため、移動費を節約し、いつも遠征には定番だった温泉も諦めることにした。というわけで、今回は苦肉の策で「鉄道の日記念切符」を使い、時間を犠牲にして三千円ちょいで横浜から福井まで移動することにした。実に新幹線の約1/5、飛行機の約1/8、車でも深夜に移動する等、高速代をかなりケチらないと行けない料金である。

早朝に横浜から移動してちょうど昼に名古屋に着いたので途中下車する。計算上では夕方まで名古屋に居ても福井には十分移動できるし、途中下車自由なので交通費は変わらない。

というわけで、名古屋には今まで何度か来たことがあるし、通過したことも何度もあったが、不思議なことに一度も行った事が無い名古屋城にいい機会だから立ち寄ることにした。

名古屋城には市役所側の二の丸東門から侵入したが、やはり想像していた通り空堀が深い、水堀と違って底が見える分威圧感がある。桝型を通り、入場ゲートから中に入るとさっそく庭園があったが、花関係は季節柄枯れていたが、ここの岩の配置も中々面白かった。庭園を抜けると堀際に「南蛮たたき鉄砲狭間」があったのだが、正直これは説明が無ければ「よく城跡にある昭和の頃に作られたコンクリ壁が壊れて穴が開いたもの」にしか見えなかった。さらに堀際を移動すると埋門があったが、肝心の門が無いおかげでパッと見たときは何がなんだかわからなかった。よく見てみると門跡の先は堀へ降りる急な階段になっており、非常時の脱出口になっているとのことだった。

二の丸を見て回った後は搦手馬出行こうとしたが、残念ながらここから深井丸までの間は工事中で侵入できなくなっていた。そうなると移動ルートは限られてくるため、そのまま西の丸へ。ちなみに大手馬出は崩されて西の丸と一体化してしまっており、境界はさっぱり判らなかった。

西の丸(旧大手馬出)から本丸表門を通って中に入ると、ここもまた工事中で天守のある北側以外はフェンスが張られて立ち入り禁止となっていた。どうも最近は名のある近世城郭に行くと必ず工事をやっており、自分の中では近世城郭=工事中のイメージが付いてきた。おかげで写真の構図のバリエーションが減って困り物である(苦笑)

本丸では天守に入る前に売店に立ち寄ったのだが、ちょっとここで気になるものを見つけた。その名も「八丁味噌ソフト」。最初はキワモノかと思ったが食べてみると意外と美味い。まぁ、人によってはダメかもしれないが、あえて言うなら砂糖醤油みたいな感じだった。

休憩が終わった後はいよいよ天守へと侵入したが、中はある意味予想通りのエレベータ付き資料館で、最上階に売店があるなど思いっきり観光施設だった。それでも最上階からの眺めは良かったし、展示品も面白かったが、登り階段や下り階段を逆走してくる人がけっこう居るのが少々邪魔臭かった。

天守を見終わった後は不明門より深井丸へ出たが、なぜかここに島根県の遺跡の石室が展示されており、なぜこんな遠く離れた場所に展示されているのか不思議でならなかった。さらに深井丸もまた工事中の箇所があり、さすがにここに至っては工事箇所の多さには諦めざる得なかった。

天守閣は中は近代施設であるが外観だけはよく復元されており、深井丸から西の丸へ抜けるあたりから見る景色は中々さまになっていい感じだった。そして、西の丸の正門から外に出て、外堀沿いに清水櫓を見に行ったのだが、西日で撮影にはちょうどいいかと思った清水櫓には鴉の山が出来ており、なんとも微妙な写真が撮れてしまった。

外堀沿いを散策した後はそのまま市街地と化した三の丸跡を散策したが、南側には意外にも三の丸の外堀や土塁、さらに石垣までしっかり残っていたのには少々驚いた。(※手元の資料には三の丸跡まで記載されたものが無かった)

名古屋城を一通り散策した頃には既に日が沈みかけていたため、そのまま名古屋を出発し、米原、敦賀を経由して福井へと向った。福井に着いた頃にはすっかり夜も遅い時間だったが、福井城本丸跡の近くを通って見ると、真っ暗と思いきや石垣がライトアップされていたのはちょっと意外だった。だが、その時撮った夜景写真はものの見事にぼやけ気味で、後で確認してショックだった。

さすがに夜も遅かったため福井城には長居はせず、そのままホテルへと向かい、明日に備えて休んだ。

10月12日3連休遠征・二日目編(福井県福井市・坂井市)2008年10月17日 01時16分01秒

部分的に復元された一乗谷の城下町
3連休二日目は早朝にホテルを出て今回の旅で最も訪れたかった場所である一乗谷へと向かった。

朝倉街道沿いの町で一乗谷の入り口でもある安波賀の町は長閑な集落で、一乗谷の駅も無人駅で周囲に民家が2~3軒あるだけと、思いのほか田舎だったのにはちょっと驚かされた。

安波賀の町を抜けて一乗谷の関門の下城戸へと着くと、さっそく「回廊」の入り口に立ちはだかる土塁の一部が出迎えてくれた。下城戸を抜けて朝倉遊歩道沿いに奥に進んでいくが、やはり思いのほか一乗谷は回廊のような山に囲まれた狭く細長い地形で、かつてここに京に次ぐとまで称された朝倉氏の都があったなど、とても信じられなかった。奥州で表現するなら白河関のある旗宿地区に都を築くようなものである。

散策路に従い瓢町、赤渕、奥間野、吉野本と呼ばれる地区を通ると、そこにはかつての城下町の遺跡が広がっており、どうやら川の左岸は町人や寺院、そして武家屋敷などが広がっていたようである。水路や礎石、石垣が広がる遺跡の中を進んでいくと、やがて城下町を復元した場所に着いた。さすがにここは有料だが、一歩中に足を踏み入れると、まさに思い描いたような街の情景が広がっていた。実質中まで再現した武家屋敷は一軒で、他は染物屋などの町屋と、武家屋敷の門だけを通路沿いに復元しただけだが、地面さえアスファルトでなければ今すぐ時代劇のセットに使えそうなくらいである。(既に使われていたりするのだろうか?)

城下町復元地区を抜けてた後は上城戸まで抜け、そのまま富田勢源道場跡まで見に向ったが、道場跡は碑や立て札があるだけで、畑と神社と化していた。ここまで見た後はそのまま近くの利休庵という蕎麦屋で昼食をとり、今度は川の右岸に出てそのまま上城戸から朝倉氏の居館を目指した。

上城戸を抜けて進み少し山側に登ると、そこが諏訪館跡で庭園が復元されていた。諏訪館跡から沢を越えて進むと山へと登る道があり、先には英林塚、そして奥には一乗谷城へと登る山道があるらしいが、地元の人の話では今はこのルートは使えないらしい。

沢を越えて進むと中の御殿跡という広い区画に出た。ここの先には沢というか堀切があって、その先には湯殿跡庭園があった。ちょうどここは朝倉氏の居館の裏の高台にあたり、館跡全体を眺めることができた。

湯殿跡庭園の高台から朝倉氏居館跡に降りるが、今は礎石しかないとは言えさすがに広かった。さらには館跡を土塁が囲み、その外側には水堀があって、入り口には門だけが現存し、なんともいえない雰囲気をかもし出していた。

今回、本当なら山城の一乗谷城まで登る予定だったが、困ったことに朝から体調が悪く、思いのほか散策に時間がかかったため、残念ながら一乗谷城へ登るのは断念した。さらに朝倉街道の奥の大野まで行く予定もキャンセルし、一旦福井市内まで撤退せざる得なかった。

とりあえず市内まで戻ったが、ホテルで休むのは凄く悔しかったため、薬でなんとか誤魔化して散策を続行し、今度はお隣の坂井市の丸岡まで向った。もちろん目当ては最古の天守をもつ丸岡城である。

丸岡に着くと、ちょうど街中では「古城まつり」を開催しており、街中は踊る人や観客など大勢の人で賑わっていたため、ついつい城を忘れて踊りを見るのに熱中してしまった。最初は小さな地方の祭りかと思ったが、思いのほか踊りに参加してるチーム?が多く、チームごとに衣装が色とりどりだったため、なかなか見ていて飽きなかった。

ある程度祭りを楽しんだ後、やっと丸岡城を見に向ったが、街中の独立丘陵(実際は古墳?)の上に築かれた城は天守以外は石垣と門跡、郭跡ほどしか見る場所が無く、思いのほかこじんまりとしていた。本来は丘の周囲は沼地で二の丸や三の丸が沼に浮かぶように配置してあったというが、今では周囲は完全に市街地と化し、沼の一部すら確認できないほどだった。(庭園や公園の小さな池程度ならあったが・・・)

しかし、丸岡城の天守閣はさすがに現存天守閣だけあって内部は素晴らしいものだった。最近の復元城郭では全く見られない垂直に近い階段や、外に出たら落ちそうな廻縁など、ついつい見入ってしまいそうな構造で、感動してしまった。しかし、バリアフリーなど糞喰らえな構造にも関わらず、大勢の老若男女で賑わっていたのはさらに衝撃的だった。

丸岡城を一通り散策した後はふたたび祭りを見に戻り、日が沈みかけてからホテルへの帰途に着いた。

10月13日3連休遠征・最終日編(福井県福井市・武生市・敦賀市)2008年10月18日 00時52分45秒

福井大地震で崩壊したままの天守台石垣
連休最終日は早朝ホテルを出た後、すぐ側の福井城を見に向った。実際は福井市の市街地の中心は全て城跡といっても過言じゃなく、ある意味城跡で寝泊りしてることになるが、残念ながらハッキリと現存しているのは本丸の水堀と石垣だけである。あとは百間堀の石垣の一部と、三の丸日向門周辺の石垣が復元されているくらいである。

福井城の本丸へは山里口から侵入したが、ここには御廊下橋が復元されており、新品の木造の通路がなんともまぶしかった。山里口の桝型を通過するとすぐそこは天守台であり、登れるようなので上に登ったが、未だに福井大地震の傷跡が残って(残して)おりなんとも痛々しかった。天守台はさすがに他の櫓台とは違って人一倍大きいが、天守閣よりも遥かに大きくて高い建物(県庁)が本丸の中央に立っているのだから皮肉なものである。

本丸北の搦手口から一度外に出て堀沿いに時計周りに移動し、再度大手口(瓦御門跡)から本丸へと侵入する。瓦御門跡は残念ながら車が通れるように枡形が破壊されており、なんとも面白味の無い虎口と化していた。そして入ってすぐ右手には結城秀康公の石像があったのだが、どうもイマイチ迫力に欠ける・・・というか悪く言うと安物を間違って掴まされたような造りでちょっとショックであった。まだ、近くの水堀の側に立っている三岡八郎・横井小南像のほうがどこか生き生きしていてマシである。県庁と化した本丸は天守台以外の石垣の上には登れないかと思っていたが、結城秀康公の側の石垣の上だけは登れるように整備してあった。といっても本来の階段は使用不能で、木製のスロープが外付けされて登れるようになっている。登っても散策できる範囲は狭くこれといったものもないが、どこか登るだけでワクワクしてしまうのは何故だろう。

本丸を散策した後は駅前の大通りに行き、百間堀の石垣を見に行ったが、肝心の石垣を覆っているガラスが鳩?の糞で汚れていてすごく見難かった。百間堀石垣を見た後は少し市街地を南下し、柴田公園(柴田神社)へと向った。ここには三の丸の日向門の石垣と堀、さらにその下に眠っていた北ノ庄城の石垣の一部を発掘した位置に展示してあるのだが、正直なところ狭い空間に色々ありすぎて最初に見たときは何が何やら判らなかった。福井城にとっては三の丸の隅にあたるこの場所は、柴田勝家の北ノ庄城の時代には城の中心部だったそうで、勝家さんの威圧感溢れる銅像と背後に立つ素朴なお市の方様の銅像がなんとも対照的なのが印象に残った。

福井城(+北ノ庄城)を散策した後は福井市を離れて南下し、越前の国府のあった武生市へと向った。越前の国の中心を見ておきたかっただけで、史跡には期待していなかたが、案の定越後の府中城のあった場所には何も無かった。市役所の前に一応、説明や史跡の表示があったが、遺構は全く無く、完全に市街地に没していた。

武生市を出た後はさらに南下し、敦賀市へと向った。ここではまず真っ先に気比神宮に参拝した。格式のある神宮というだけあって大きな鳥居がなんとも眩しかったが、境内の参道は意外と短く、数分足らずで本殿に着いた。

無難に参拝した後は大谷吉継の居城だった敦賀城を見に向ったが、城跡は市街地に埋もれ、敦賀西小学校前と真願寺に説明板がある程度だった。真願寺脇の水路は水堀の名残だそうだが、どうもただの水路にしか見えなかった。小学校前の石碑にあった古絵図と今の地図を対比するとどうやら敦賀病院の場所が城の中心で、後世に陣屋が置かれた場所らしいが、案の定行っても何も見つけられなかった。

敦賀城跡を散策した後は川を越えて来迎寺に向かい敦賀城の移築門を確認したが、なんとも質素な門だった。門を確認後は福井名物のソースカツ丼を食べるために、ヨーロッパ軒本店に立ち寄ったが、混んでいたわりには意外と早く出てきたのにはちょっと驚いた。ソースは普通のソースとは違い、中々美味しかったが、個人的に御飯が少々多めに感じた。

ヨーロッパ軒で昼飯を食べた後はいよいよ神奈川への帰途へと着いたが、さすがに鈍行で福井県の敦賀から神奈川県の横浜まで帰るのはかなり疲れたのは言うまでも無い。

10月19日日帰り遠征(静岡県島田市・静岡市)2008年10月19日 23時31分00秒

諏訪原城大手馬出内にある諏訪神社
先週、福井まで遠征した後、その時使った鉄道の日記念切符があと1日残っていたため、今回は静岡まで日帰りで出かけてきた。

日が登る前に電車で出発し、まず先に向ったのが静岡県の島田市で、金谷駅から近い国指定史跡の諏訪原城が目当てである。家を出たときは肌寒いくらいだったのが、金谷駅に着いた時には横から強く照りつけるくらいに日が昇っていて、なんとも暑苦しい状態になっていた。

駅からまずは旧東海道の金谷坂の復元された石畳を登ったが、この石畳がなかなか歩きづらく、思いのほか気力を使ってしまった。台地の上に着いたあとは、茶畑の脇を通ってそのまま諏訪原城の大手から侵入を開始したが、大手馬出周辺の堀は想像していたよりも深く、城跡に侵入していきなり驚かされた。大手馬出に限らず、二の丸・三の丸の外堀も、二の丸の馬出の空堀も大きなもので、浅い堀は茶畑となった大手郭と馬場の間の堀くらいだった。

馬出より二の丸へと侵入すると内部は中々広く、三の丸とは土塁で区切られているものの、全体的に扇のように広がった郭になっていた。馬出や馬場は雑木林になっているが、二の丸と三の丸は木々はなく、一面の草原となっていたが、良く見るとお茶の木が所々にあり、かつて茶畑として使われていたのだろうと想像が出来た。

二の丸から土橋を渡って本丸へと侵入したが、本丸内はどういうわけだか起伏に富んでいて平地部分が少ないなと思ったが、どうやら凸状になている場所は櫓があった場所のようだ。本丸を一通り散策した後は搦手口から外に出たが、この出口が狭くてなかなか急だった。しかし、本丸から降った場所にも横掘が巡っており、さらにそこから下に降りることで雑木林から車道に出たが、車道の出口には城に関する標識は一切無く、どうやら搦手口は整備はしておらず、一般人の侵入は想定していないようである。

諏訪原城を散策した後は金谷駅へと戻り、そこから静岡市方面へと戻り清水駅で下車して昼食を取って、その後は新蒲原駅へと向った。

新蒲原駅で降りた後は駅の近くの山の上にある蒲原城へと登った。一度車道に沿って山の上に登った所、搦手口に着いたのでそこから城跡へと侵入した。

搦手口は山の尾根にそって小さな郭があったようで、末端の郭には今は小屋のようなものが建っていた。絵図を見るとさらに上にも郭が連続で配置されていたようだが、今は広い山道が通っており、公園として整備された時に大きく削られたようである。同じように大空掘の標記もあったが、地形を見る限り一度埋められているようである。

山道をさらに登っていくと、切り通しや小さな郭を経て広い腰郭へと出た。ここには長く周囲を取り巻く土塁と、野積みの石垣が残って(復元?)おり、なかなか城跡らしい雰囲気を出していた。

さらに上に登るとそこが北曲輪(善福寺曲輪)で、ここは土塁の上に逆茂木を模した柵が作られており、さらに櫓を模した展望台?などもあってなんとも公園っぽい具合に整備されていたが、正直なところ最近の風潮だとこの逆茂木はモンスターペアレンツの方々に撤去しろとか言われそうな気がしてならない。

北曲輪とさらに上に本丸との間には堀切が通っており、この堀切は良く見ると岩盤を削って造られており、風化しやすい岩石なのか所々崩れていた。

北曲輪からさらに山を登った先の山頂が本丸跡で、今は白い頑丈そうな城山八幡神社が奥に鎮座していた。全体的に木々に覆われた城山だが、本丸の南側の一部は開けており、ここから見る駿河湾と城下は絶景だった。

本丸から南側に切岸を降った所にも郭があり、搦手口とは逆の方向に下りる道もあったが、途中から藪が激しくなったため、こちらからの下山は諦めた。たぶん、藪の先は二の丸を通って大手口へと通じているのだろう。

強行突破は諦めたが、大手口からも登れるのか気になったため、一度搦手口へ戻る途中の横道から下山し、城山隧道を通り、高速の上にかかる橋を抜けて大手口へと大きく迂回しながら向った。

大手口にも搦手口と同様に城跡の標識があり、説明板もあったが、肝心の入り口は草が生えたい放題で、誰も利用していないのがよく判った。さすがに草と蜘蛛の巣を掻き分けてまた山の上に登るのも辛かったので、大手口からの侵入は諦めて周囲を散策したが、ここで偶然にも三の丸井戸跡の標識と井戸跡?を見つけることが出来た。今は井戸というか湧き水のような感じで、位置も三の丸の端の沢のような部分である。なお、三の丸の標識は鳥瞰図には出てきていなかったが、位置を考えると鳥瞰図の大手曲輪のことを言ってるようである。

蒲原城を一通り散策した後は隣の御殿山(狼煙台)へも登ろうと思ったが、こちらも思いのほか道がよくなかったので今回は諦めることにした。この後は既に日が落ちかけていたことから、余り欲張りせずに横浜への帰途についた。