11月1日岩手南部三連休遠征・初日編(岩手県一関市)2008年11月05日 22時58分16秒

唐梅舘から見た北上山地と奥にそびえる室根山
3連休は紅葉を見に岩手県南部へと行ってきました。

初日に向ったのは猊鼻渓で有名な一関市の東山町で、まず始めに長坂の町の北にそびえる唐梅舘山を目指した。唐梅舘は長坂千葉氏の居城で、小田原参陣のための協議を行った場所でもあるという。

町を抜けて総合公園のある丘へ登り、さらに公園を抜け、森の中を進み丘の上まで登ると、鉄塔のある場所に着いた。ここで一度沢に落ちる地形になり、車道がまるで土橋のように沢を渡っている。そしてこの車道の脇には実際に土橋のようなものがあり、唐梅舘山の古道の位置とも一致するので、遺構かもしれないが、公園化に造られたものかもしれず判断はできなかった。

沢地形を越えた先はキャンプ場で、ここの斜面は比較的なだらかだが、キャンプ場を抜けた途端に急に山は急斜面になり、そこでやっと明確な郭が確認できた。郭は整備時に多少変わっていると思われるが、山の周囲を輪郭式に展開しているのが十分確認できた。

最初は帯郭のような郭を徐々に登って行ったが、頂上の手前の郭(二の丸?)は比較的広く、郭内には今まで枯れたことがないという池が実際に水を湛えており、これはちょっと感動してしまった。恐らく唐梅舘の水手にして生命線だったのがこの池なのだろう。

池のある郭からさらに登った先が山の頂上にして本丸であり、ここにはハッキリした土塁が北側に見られた。さらに土塁の上には千葉頼胤供養碑が立っているが、風化で字が読み取れないほどボロボロになっていた。本丸からの眺めはなかなかの絶景で、東には室根山、南には長坂の城下町や石灰の採取場、西には束稲山が見え、素晴らしい景色だった。

舘山から下山した後は長坂千葉氏の平時の居城となった長坂城(掻引城)へと向ったが、今と昔で状況が違うせいか参考資料を見ても南山谷だとは判るが、それらしき場所の特定ができなかった。

長坂千葉氏の城跡を散策した後は猊鼻渓に向かい、船下りで秋の風情を楽しもうと思ったが、城跡散策に思いのほか時間をかけすぎたため、かなり微妙な時間帯になってしまっていた。船下りには90分ほどかかるのだが、その後には本日の宿のある花巻まで移動しなければいけない。つまり、計算上船下りしていると宿の夕飯の時間に間に合わない可能性が出てきてしまったためだ。正直、船は90分かからないし、急げば夕飯に間に合うという考えもあったが、悩んだ末に今回は船に乗らないことに決めた。時間を気にしながら船に乗っても楽しめないだろうという理由も決め手になった。

かくして猊鼻渓まで行ったにもかかわらず、船に乗らないで少々腹ごしらえしただけですぐに移動することとなり、猊鼻渓を発った後はまっすぐ花巻に向った。花巻の山奥にある温泉宿に着いた頃には既に真っ暗となっており、こうして初日は終わりを告げた。

11月2日岩手南部三連休遠征・二日目編(岩手県花巻市・金ヶ崎町)2008年11月06日 22時58分04秒

大庭郭のすぐ外にある旧大沼家の武家屋敷
連休二日目は花巻の山奥の新鉛温泉から街へと降り、花巻の史跡散策の予定だったが、困ったことに空の機嫌が悪く、雨模様となってしまった。

雨の中、とりあえず最初に向ったのは稗貫氏の鳥谷ヶ崎城築城前の居城の十八ヶ城跡で、花巻市街北部の瀬川沿いの本館地区である。資料によれば堀しか遺構が残っていないようだが、その堀がなかなか複雑らしいのでそれが目当てでもあった。

本館地区に着いてまず「本館近隣公園」に行ってみる。地図的にはこの公園の近くに南側の外堀があるはずだが、どうやら埋まっているらしく見当たらなかった。公園から見て北東方向には小さな林があり、そこには窪地が見えたが、私有地立入禁止の文字が見えたため確認まではできなかった。とりあえず、住宅地を通る道を迂回して香明寺と本館病院のある道に出るとそこから、ニッセイの工場との間に大きな堀が確認できた。ただ、草木が深かったため、要図にあるような多重堀なのかまでは確認できなかった。住宅地と工場の周辺を雨の中歩き回った結果、遺構として確認できたのは東側の外堀だけで、内堀は工場などの建設で、外堀の南と西は宅地化でほぼ消滅しているのが判っただけだった。

十八ヶ城跡を散策した後はすっかり足もビショビショになり、雨のおかげで気力の消費も激しかったため、もういっそのこと温泉宿に戻ろうかと考えたが、それもなんだか悔しいため、今度は降水確率が比較的低い岩手県南部を目指して移動することにした。

完全なアドリブ進行ではあったが、北上市を越えたところで空が晴れてきたため、隣の金ヶ崎町の伊達氏の要害である金ヶ崎城を見に向った。街に入ってさっそく金ヶ崎神社へと向かい、そこから諏訪公園へと入った。途中で空掘のようなものがあったが、一応は城外にあたるため遺構かどうかは判らなかった。諏訪公園南部には大きな沢があり、この沢が城の外堀だそうで、意外と急崖で深く、なかなかの要害だった。

沢を渡った先が二の丸跡で、現在は公園なのか荒地なのかよく判らない状態になっており、南と東側には民家があってどこまでが私有地なのかすら判断できなかった。

二の丸跡から本丸跡へと入ると、ここは完全に住宅地になっており、確認の余地は無かった。本丸跡を抜けて大庭の郭に出ると、道の脇に空掘跡が確認でき、さらに北側には東館の郭と堀と土橋がほぼ完全に確認できた。観音館は車道が貫通し、住宅地にもなっていたため確認の余地は無かったが、大庭郭との間の堀跡は確認できた。さらに大庭郭の外側には堀の跡がしっかり残っており、今は通路として使われていた。この通路を進むと途中に大沼家の武家屋敷があり、これがなかなかの雰囲気でなんともいい感じだった。ただし、公開中の建物内部は煙で蒸している最中だったため、非常に煙たかった(苦笑)

大沼家を見た後は武家屋敷(大沼家以外は非公開)が多く残る城下町を散策したが、やはり武家屋敷と言っても現在も人が住んでいるため屋根が近代的になっていたり改築されている所が多く、昔の雰囲気を出しているのは大沼家の屋敷だけだった。

武家屋敷を散策した後は泰養寺へと向った。この寺はちょうど台地から切り離されるように堀で切られているが、ここはかつて城跡だったらしく、寺の入り口近くには舟形館跡の説明板が設置されていた。ただ、この説明板の周囲には草が多い茂り、文字が隠れて見づらかったのだけは困ったものだった。館跡としての遺構は周囲の堀跡くらいしか確認できなかったが、寺の楼門はなかなか立派なものだった。

金ヶ崎を一通り散策した後は花巻へと舞い戻り、10年?ぶりに花巻城を訪れてみたが、円城寺坂周辺が公園のように整備されているのには少し驚いた。住宅地となっている三の丸から学校となっている二の丸、そして公園となっている本丸へと移動したが、ここらへんは10年前とあまり変わっていなかった。強いて言えば本丸西御門前の看板が新しくなっていたくらいである。

花巻城を散策した後はすっかり暗くなっていたため、温泉宿へと戻ることにした。結局、この日は雨のおかげでろくに散策できなかたのが悔やまれる。

11月3日岩手南部三連休遠征・最終日編(岩手県平泉町)2008年11月09日 23時05分42秒

毛越寺の浄土庭園
連休最終日、朝起きた時曇っていた空は宿を出る頃には晴れ間が見えたが、花巻の街に下りてきた頃には雨模様になるなど相変わらず安定しない天気だったため、雨雲を避けて南下して平泉へと向った。

平泉に着いてまず向ったのは毛越寺で、この日はちょうど能をやっていたため、本堂前の能舞台の所には人だかりが出来ていた。能についてもちょっと気になったが、ずっと見ているわけにもいかないため、少々覗いてすぐに庭園の方へと移動した。

寺の半分以上を占める浄土庭園はちょうど紅葉の時期もあって素晴らしい景色だったが、強いて言えば空が安定しなかったのだけが不満だった。ぐるりと池を時計回りに散策した後は毛越寺を出て隣の観自在王院跡の公園を散策したが、こちらの庭園跡もなかなか素晴らしかった。

観自在王院跡を見た次は中尊寺へと移動し、まず麓で腹ごしらえした後に境内へと登った。中尊寺はとにかく御堂が多く、観音堂やら薬師堂やらが次々出てきて、さすがにどこが何のお堂なのかまでは覚えきれなかった。山の上に着くと所々の紅葉が綺麗だったが、美味く写真に表現できなかたのは残念だった。中尊寺の本堂でお参りした後はさらに奥に進み、讃衡蔵(博物館のようなもの?)へと入館したが、中は色んな場所の仏像で一杯で、信心深い老人の方は一つ一つ手を合わせて拝んでいて大変そうだった。

讃衡蔵を出た後はいよいよ、中尊寺の代名詞となってしまった金色堂を見に行ったが、写真などでよく見る覆堂の中には、まさに本当の金箔で彩られたお堂が入っていた。なお、やはり昔から金色堂は隠していたらしく、昔の覆堂も近くに展示されていて、こちらは木造だった。正直、木造だと金目当ての賊にでも襲われそうなイメージがあるが、大丈夫だったんだろうか・・・。

金色堂を見た後は、中尊寺と同じ山内にある白山神社も見に行ったが、ここの能舞台もなかなか本格的で良かった。神社そのものも一般的な神社と違って、茅の輪と呼ばれる大きな輪が本殿の口に設置されており、これを潜ってお参りし、終わったら輪に戻らずに横から出る。つまり輪を通るのは一方通行である。

白山神社を参拝した後は中尊寺から下山し、今度は高館義経堂へと向った。ここは文字通り高館という城跡で、義経の最後となった場所から義経堂が造られたというが、義経の最後となった「衣川館」の位置については諸説あるので、ここで死んだとは限らないという。城跡として見た場合、最も高い義経堂のある場所は物見と思われ、すぐ背後には堀切があり、その先には削平が微妙な尾根が続いている。義経堂から一段したの資料館の裏には広い郭があり、建物があったとすればここか、ここの一段下の郭だろう。正直、高館は居館には不向きな地形で、恐らく監視所的な砦があった場所のように思える。

高館を散策した後は無量光院を見に行ったが、ここは整備の途中なのか工事の施設が一部残り、史跡自体も田畑の跡が残っている状態だった。それでも、中島など庭園にまつわる遺構が見られることから、当時はここは池があったのだと理解できた。

無量光院を散策した後は奥州藤原氏の居館である柳之御所を見に向ったが、こちらは絶賛工事中となっていた。発掘した上に土を盛ったりと色々忙しいようだが、果たしてどう整備されるのか期待半分不安半分である。最後に柳之御所資料館を拝見しているうちに日は落ちてしまったため、ここで神奈川への帰途につき、こうして三連休を幕を終えた。

11月8~9日鳴子峡遠征(宮城県大崎市)2008年11月11日 23時20分31秒

大沢橋より見た紅葉と鳴子峡
紅葉のピークは過ぎてしまったが、鳴子峡へと行ってきた。

土曜日の午後に鳴子温泉へと着いたが、この日の鳴子は電車が止まるほどの強風で、たまに吹く突風は気を抜くと体が浮くほどだった。

とりあえず、時間的にも出遅れたので鳴子峡は明日行くことにして、まず東鳴子温泉の近くにある大口館跡にでも寄ってみることにした。ここは奥州大将(後の奥州探題)石塔義房の家臣の馬場豊後守の居館で、台地の上が平場になっていて郭が3つあるそうだが、館跡の台地は全体的に雑木林になっており、まず台地の上に登る場所が見つからなかった。

とりあえず、藪の薄い所から森の中に入り、雑木林を散策するが、東から少し登っただけで急崖が目の前に立ちはだかる。無理すれば登れなくも無い斜面だが、登り口を探して斜面沿いに移動すると、何やら古い石が散乱している空間を見つけた。石には読み取れないが文字が書かれていたため、恐らく古い忘れられた墓か碑の跡なんだろう。

とりあえず、森から一度外に出て北の沢沿いに林道があったため、そこから登ってみたが、途中で藪になり、全身が体にまとわりつく種だらけになってしまった。結局、台地の上に登るには強行突破するしかなかったが、初日から先が思いやられたため諦めることにした。

大口館を諦めた後は温泉街へと移動し、少し散策した後に今日の宿の中山平温泉へと移動した。温泉宿で一泊した翌日は、中山平温泉から徒歩で鳴子峡を目指した。

中山平を渓谷に沿って移動中、星沼館跡へと立ち寄った。ここも石塔義房の家臣の柏山相模守の居館跡で、現在は星の湯が館跡に建っている。館跡は北から南に延びる丘の南端にあり、東と南は渓谷に面して断崖となり、北の丘陵続きの部分を堀で切って連郭式の縄張りを構成していたようだ。とりあえず主郭は雑木林となり、堀跡を挟んで北の郭は星の湯の旅館の敷地となっている。旅館の北側には車道が通っているが、ここも恐らく堀跡で昔は堀に沿って土塁があったようである。

星沼館跡を見た後は只管東へ進み、鳴子峡レストハウスへと着いた。ここからの鳴子峡の景色はなかなかの絶景で、観光客も大勢着ていた。本来ならここから渓谷に降りれるのだが、残念ながら落石で通行止めらしく、しょうがないので鳴子峡沿いに車道を東へと移動し、花渕山口から渓谷へと降りた。

渓谷は最も絶景な区間が通行止めなのが残念だったが、それでも下から見上げる渓谷の岩塊や紅葉は綺麗で、これで天気が良かったら最高だった。

渓谷を抜けた後は尿前関を見に行ったが、道の脇に柵と門があるだけと思いきや、どうやら関自体はかなり広い屋敷のようなものだったらしく、門のある場所より東の民家がある場所一帯が関跡にして関守の遊佐氏の居館跡だったという。関跡を見た後はそこから旧出羽街道沿いにこけし館のある丘まで登ったが、中山平からここまで登ったり降りたりを繰り返していたため、この時点でかなり足がふらついてきていた。

こけし館から鳴子温泉へと移動し、そこから今度は本命の葉山城へと移動した。葉山城は奥州大将石塔義房の居城で、150~200m登った三条平が城跡で、さらにその背後の三条山(591m)が詰城である。

三条平へは洞川院脇の赤沢から車道が続いているため、そこから登ったが、道はアスファルトから砂利道、石畳と統一性が無く、どうやら工事車両やオフロード車くらいしか通らないような感じだった。比高150m以上を登り切ると、その上はなだらかな斜面の高原状の地形となり、見渡す限り、雑木林と鉄塔と工事現場しか見えない景色が広がっていた。

とりあえず、資料にある門脇の杉を探したが周囲の木は植林されたような杉ばかりで、やっと森の中で見つけた標柱には「記念植樹」と書かれていてガックリさせられたほどだった。結局、門脇の杉というものは見つからなかったため、三条平の奥まで移動することにした。

三条平の最奥は最近伐採されたのか切り株だらけの広々とした空間となっていたが、ここからは葉山との間の館の沢は断崖で、唯一続いているのが三条山だが、ここで三条山との間に土塁と堀があることに気づいた。この土塁と堀は山裾を北から南にかけてずっと続いていたが、資料にはこの堀のことは書かれていないため、近代の開拓時代に造られたものと考えられるが、正直なところ近代に土塁と堀を造る意味が判らなかった。

当初の予定では三条山に登るつもりだったが、既に時間は15時を周っており、登ったら最後、山頂で日の落ちた空を眺めることは確実だったため、とりあえず登り口がどこにあるかだけを確認することにした。だが、登り口と思われる場所は見つからず、赤いテープなども発見できなかった。

日が暮れてきたため、三条山の登り口探しは諦めて南下をしたが、ここで赤沢の水源地へと辿り着いた。例の土塁と堀はここらへんまで続いていたが、もしかするとさらに先にも続いていたかもしれない。赤沢水源地には神社が建っていたが、この神社は地図には見られず、なんと言う名の神社なのかは判らなかった。

赤沢自体は沢沿いに移動できるような地形じゃないため、三条平へと戻ってもと来た道へと戻ろうとしたが、途中で地図に無い竹林を発見した。竹林があるのは散策した限りでは三条平の西側の一部だけであり、他は大半が針葉樹で残りが広葉樹となっている。竹林の中には廃墟があったため、元々何か屋敷のようなものがあって、その時に植えられて増えたのがこの竹林なのかもしれない。

三条平に戻り、さらに麓まで下山した頃には既に日が落ちて辺りは暗くなっており、急いで鳴子温泉へと戻って、土産を物色して神奈川への帰途に着いた。

11月15日慶長出羽合戦の旅・前編(山形県上山市)2008年11月20日 01時56分53秒

中山城天守台で遭遇したカモシカ
紅葉の季節も終わり山歩きもしやすくなったので、山形へと行ってきた。初日にまず向ったのは、慶長出羽合戦において上山攻めの部隊の出発点となった中山城で、村山郡から置賜郡へ入る前川沿いの回廊のような場所に立地している関門の要塞である。

中山の街の背後に控える南北の沢に挟まれた山が城跡で、ちょうど城跡の前でバイパスに関する工事をやっていたため、至る所が通行止めで、すぐそこに見える山なのに少々たらい回しさせられた。城跡へは山の東の高台から登れるが、まずは北側の沢沿いに奥まで進んでみることにした。北の沢沿いに森の奥に進むと急に開けた場所に出て驚いたが、荒れた畑の跡に柿の木が沢山の実を付けて佇む光景は哀愁があって良かった。そこからさらに奥に進むと、城跡南側の沢が迫り尾根が狭くなる場所に出たが、縄張りから見てここが城跡の北端だろう。尾根沿いに城跡へ移動することも当初は考えていたが、藪と低木で侵入できそうにないため、一度里まで戻り当初の予定通り城跡東の高台から入ることにした。

民家が数件ある高台はかつて根小屋があった場所で、旧中山小学校跡の空き地に清水や城跡の説明板が立っていた。城跡の説明板の裏より山の上に登る道があり、急斜面を少し登ると腰郭へと出た。腰郭を北側へと進むとさらに上の腰郭に続いており、そこからさらに登ると広い三の丸の郭に出た。山の中は全体的に針葉樹のため、三の丸はシダ類に覆われているものの藪は無く、土塁がしっかりと確認できた。三の丸から鍵状に折れ曲がった道を登ると腰郭を経由して二の丸へと出る。二の丸も三の丸同様に広い郭で、二の丸の奥には一段高くなって本丸があり、二の丸と本丸の間には堀のようなものも確認できたが、三の丸のような土塁は確認できなかった。

本丸へ登るとそこには石垣で築かれた櫓台があって、これを見た瞬間感動してしまったが、ここで異様な気配に気づいて次の瞬間体に緊張が走った。そう、櫓台の上に何やら大きな動物がいたためである。距離にして10mほど先にいたのはカモシカであった。熊じゃなかったので少し安心したが、カモシカと言えども至近距離で遭遇した場合は人に危害を加えるため安心は出来ない。それでも徐々に距離を詰めると櫓台から降りて本丸の裏側へと降りて行ってしまった。カモシカの去った本丸をぐるりと見てみたが、土塁が周囲によく残っており、土塁の先は切岸で下の名称不明の郭や三の丸とはかなり落差があり、なかなかの要害ぶりだった。そして肝心の櫓台は内側が石垣で、一部が崩れて石が散乱しているが、四面全体が石垣だったのかは判らなかった。

櫓台まで散策した後は山より下山し、中山と上山の間の郡境の掛入石を見に向った。この石・・・というより岩を越えると最上領であり、慶長出羽合戦時には上杉家の陽動部隊がここより上山に侵攻し、村々を焼き払って最上家の軍勢を引き付けて、鍵取山の南の森を越えて侵入した本隊が最上家の軍勢の側面を突いて討ち取る手筈だったという。だが、現実には本隊は奇襲によって壊滅し、陽動部隊だけが取り残され、上杉の兵は命からがら掛入石まで退いて、ここでなんとか最上家の追撃部隊を撃退したという。現在の石は国道と鉄道の間に挟まれた窮屈な風景となっており、昔は17mほどあったという巨石も開発時代に削られたらしく、バイパス工事のせいでうっかり見逃しそうなくらいのサイズになっていた。

掛入石を越えて回廊を抜けて上山に出た後は、すでに昼を過ぎていたため、川口から高松に向う途中にある蕎麦屋「あららぎ」で昼食をとったが、何も考えずに入ったにもかかわらず手打ちの蕎麦はなかなか美味しかった。

昼食後は本村親盛率いる上杉家中山本隊が最上家の草刈志摩守の奇襲を受けて壊滅した赤坂の上の台へと向った。現在の上の台は果樹園となっており、正直草刈志摩守はどこに伏兵を置いていたのかはよく判らなかったが、とりあえず果樹園を通って鍵取山の南から中山を目指して峠を越えることにした。これは中山本隊が通ってきた道の逆走であり、最上家の追撃戦のルートでもあった。

果樹園を越えて少し森に入ったかと思ったら急に道が開けた。どうやら金華山の人工沼に出たらしいが、ここの沼に半島状に突出た部分には神社があり、沼に突出た鳥居がなんとも神秘的な光景を醸し出していた。一見すると沼を渡らないと神社に行けないように見えるが、ちゃんと裏の森から入る道が途中にあった。

金華山を抜けて山を登っていくと峠を越えた所で車道へと出た。どうやら前川ダムに出たようだが、雑木林が邪魔で車道からダム湖を綺麗に見渡せる箇所は近くには無かった。慶長出羽合戦の時代には当然ながらダム湖は無く、ここらへんは忠川と川沿いの湿地がある程度だった。しかし昔話によっては江戸時代に造られた忠川沼がなぜか慶長出羽合戦の話の中に出てくるものもある。ダム湖の南を車道に沿って西に移動していくと再び峠となるが、ここに当時の戦で死んだ者たちの首塚があった。ここを越えると後は中山まで道は降るばかりで、最上家の兵はここまで追撃をして広河原で激戦となり、草刈志摩守はこの戦いで銃撃を受けて命を落としたという。なお、古戦場の説明板は峠を越えて前川を渡る手前にあった。

実に中山から半日かけて戦場を時計回りに散策し、再び中山へと戻ったのだが、感想としてはなぜ3倍以上の兵力の上杉軍が本隊をわざわざ山間部の狭い道を通らせたのかが疑問であり、しかも草刈志摩守がそれを先読みして伏兵を配置できたことも謎である。上杉側の文献には上山の里見氏は上杉氏に通じていたが、土壇場で裏切ったとあるため、上杉家は里見氏の策によって誘き出されて奇襲を受けてしまったのかもしれない。

一通り散策して中山に戻った時は既に日が落ちていたため、この日は赤湯温泉に宿を取って翌日に備えた。