11月24日慶長出羽合戦の旅その2・最終日編(山形県寒河江市、山形市)2008年11月30日 02時05分49秒

白岩城本丸を下の腰郭から見上げる
最終日は慶長出羽合戦の上杉の庄内軍が攻略した川西へと向った。庄内軍のうち下秀久率いる尾浦勢は六十里越街道を通り、白岩城、寒河江城、谷地城を瞬く間に落として、谷地城に拠点を置いた。一方、庄内軍のうち志駄義秀率いる酒田勢は最上川沿いに侵攻し、最終的に下氏の軍勢と合流して、志駄氏側は白岩城を拠点とした。

庄内軍は上杉本陣とは離れていたため、関ヶ原西軍敗退による上杉の撤退命令が届かず、反撃を開始した最上軍によって城を包囲される事態になるが、志駄氏は間一髪で城を脱出し、六十里街道を封鎖した最上軍を避けて朝日山地を通って庄内へと逃れた。一方で出遅れた下氏は谷地城での篭城戦の末に最上氏に降伏した。

下氏の篭城した谷地城は以前訪れたことがあったので、今回は志駄氏が滞在した白岩城を散策することにした。城跡は六十里越街道沿いの丘陵の上にあり、白岩の街の背後の断崖の上にある。とりあえず八幡宮の参道より断崖の上に登るが、神社本殿のある場所からさらに奥の一段高い場所に登るとちょっとした広場になっていてそこに白岩城の石柱が建っていた。広場の山側には土塁がわずかに残っていたが、物見台のような遺構もあり、白岩城の東南部の重要な郭だというのがよく判る。この郭の背後は谷地形になっており、見ようによっては堀跡ともとれる。

白岩城跡の碑がある郭は断崖沿いに西に同じ高さで続いており、ある意味巨大な塁壁となっている。そしてある程度西に行った場所に塁壁をかぎ状にくり貫いた通路があり、ここが大手口だという。この通路の真っ先には白岩城の中枢部である稲荷山があり、ちょうど南側に参道があって登れるようになっている。

石段が崩れて登り難い参道を登ると、稲荷神社のある郭に出た。さらに神社の裏には土橋があって奥の丘へ続いており、渡った先の丘の頂上部分が白岩城の本丸で、ここには白岩城の標柱が建っていた。本丸はさほど広くは無く、3mほどの切岸の下に腰郭があり、腰郭より下はそれほど急斜面では無かった。また、雪が積もっていてよく判らなかったが、今は畑になっているようである。

稲荷山から下山した後は、先の八幡宮より続く大塁壁の延長線上に位置する上楯山という出城部分に登ろうと思ったが、雪の積もった段々畑を通らないといけない上に登れる場所があるのか不明だったため、今回は諦めることにした。

白岩城を一通り散策したが、稲荷山の周囲を沢を利用した堀が取り巻き、その外側を塁壁に見立てた丘で囲むカルデラのような縄張りは中々面白かった。

白岩城を散策した後は昼食を取る為、前々から気になっていた慈恩寺そばを食べに行った。慈恩寺そばの店は白岩と寒河江の中間あたりにあり、当初外観を見た時は本当に店をやっているのか不安になったが、内部はちゃんとした店舗になっており、ちょうど家族連れのお客が居たが特に待つこともなく食事にありつけた。とりあえず「板そば」を頼んで食べたが、これが太く歯ごたえがあって少々顎が疲れたが、蕎麦の味が出ていて良かった。

蕎麦を食べた後はもう少し寒河江を散策するつもりだったが、困ったことに天候が悪化して雨が降り出したため、山形へと戻ることにした。山形へと戻った後は慶長出羽合戦時に最上義光が本陣を置いた山形城三の丸稲荷口へ向ったが、当然ながら市街地化で遺構などは存在せず、近くの公園に三の丸堀跡の面影が残っているだけだった。それでも稲荷口の名前の由来となった壽稲荷神社が近くにあり、神社の説明板には慶長出羽合戦のことも記載されていたのは良かった。

なんだかんだで稲荷神社に居る頃には日が落ちてしまったが、最後に山形城の本丸整備の様子を確認し、神奈川への帰途についた。