11月15日慶長出羽合戦の旅・前編(山形県上山市)2008年11月20日 01時56分53秒

中山城天守台で遭遇したカモシカ
紅葉の季節も終わり山歩きもしやすくなったので、山形へと行ってきた。初日にまず向ったのは、慶長出羽合戦において上山攻めの部隊の出発点となった中山城で、村山郡から置賜郡へ入る前川沿いの回廊のような場所に立地している関門の要塞である。

中山の街の背後に控える南北の沢に挟まれた山が城跡で、ちょうど城跡の前でバイパスに関する工事をやっていたため、至る所が通行止めで、すぐそこに見える山なのに少々たらい回しさせられた。城跡へは山の東の高台から登れるが、まずは北側の沢沿いに奥まで進んでみることにした。北の沢沿いに森の奥に進むと急に開けた場所に出て驚いたが、荒れた畑の跡に柿の木が沢山の実を付けて佇む光景は哀愁があって良かった。そこからさらに奥に進むと、城跡南側の沢が迫り尾根が狭くなる場所に出たが、縄張りから見てここが城跡の北端だろう。尾根沿いに城跡へ移動することも当初は考えていたが、藪と低木で侵入できそうにないため、一度里まで戻り当初の予定通り城跡東の高台から入ることにした。

民家が数件ある高台はかつて根小屋があった場所で、旧中山小学校跡の空き地に清水や城跡の説明板が立っていた。城跡の説明板の裏より山の上に登る道があり、急斜面を少し登ると腰郭へと出た。腰郭を北側へと進むとさらに上の腰郭に続いており、そこからさらに登ると広い三の丸の郭に出た。山の中は全体的に針葉樹のため、三の丸はシダ類に覆われているものの藪は無く、土塁がしっかりと確認できた。三の丸から鍵状に折れ曲がった道を登ると腰郭を経由して二の丸へと出る。二の丸も三の丸同様に広い郭で、二の丸の奥には一段高くなって本丸があり、二の丸と本丸の間には堀のようなものも確認できたが、三の丸のような土塁は確認できなかった。

本丸へ登るとそこには石垣で築かれた櫓台があって、これを見た瞬間感動してしまったが、ここで異様な気配に気づいて次の瞬間体に緊張が走った。そう、櫓台の上に何やら大きな動物がいたためである。距離にして10mほど先にいたのはカモシカであった。熊じゃなかったので少し安心したが、カモシカと言えども至近距離で遭遇した場合は人に危害を加えるため安心は出来ない。それでも徐々に距離を詰めると櫓台から降りて本丸の裏側へと降りて行ってしまった。カモシカの去った本丸をぐるりと見てみたが、土塁が周囲によく残っており、土塁の先は切岸で下の名称不明の郭や三の丸とはかなり落差があり、なかなかの要害ぶりだった。そして肝心の櫓台は内側が石垣で、一部が崩れて石が散乱しているが、四面全体が石垣だったのかは判らなかった。

櫓台まで散策した後は山より下山し、中山と上山の間の郡境の掛入石を見に向った。この石・・・というより岩を越えると最上領であり、慶長出羽合戦時には上杉家の陽動部隊がここより上山に侵攻し、村々を焼き払って最上家の軍勢を引き付けて、鍵取山の南の森を越えて侵入した本隊が最上家の軍勢の側面を突いて討ち取る手筈だったという。だが、現実には本隊は奇襲によって壊滅し、陽動部隊だけが取り残され、上杉の兵は命からがら掛入石まで退いて、ここでなんとか最上家の追撃部隊を撃退したという。現在の石は国道と鉄道の間に挟まれた窮屈な風景となっており、昔は17mほどあったという巨石も開発時代に削られたらしく、バイパス工事のせいでうっかり見逃しそうなくらいのサイズになっていた。

掛入石を越えて回廊を抜けて上山に出た後は、すでに昼を過ぎていたため、川口から高松に向う途中にある蕎麦屋「あららぎ」で昼食をとったが、何も考えずに入ったにもかかわらず手打ちの蕎麦はなかなか美味しかった。

昼食後は本村親盛率いる上杉家中山本隊が最上家の草刈志摩守の奇襲を受けて壊滅した赤坂の上の台へと向った。現在の上の台は果樹園となっており、正直草刈志摩守はどこに伏兵を置いていたのかはよく判らなかったが、とりあえず果樹園を通って鍵取山の南から中山を目指して峠を越えることにした。これは中山本隊が通ってきた道の逆走であり、最上家の追撃戦のルートでもあった。

果樹園を越えて少し森に入ったかと思ったら急に道が開けた。どうやら金華山の人工沼に出たらしいが、ここの沼に半島状に突出た部分には神社があり、沼に突出た鳥居がなんとも神秘的な光景を醸し出していた。一見すると沼を渡らないと神社に行けないように見えるが、ちゃんと裏の森から入る道が途中にあった。

金華山を抜けて山を登っていくと峠を越えた所で車道へと出た。どうやら前川ダムに出たようだが、雑木林が邪魔で車道からダム湖を綺麗に見渡せる箇所は近くには無かった。慶長出羽合戦の時代には当然ながらダム湖は無く、ここらへんは忠川と川沿いの湿地がある程度だった。しかし昔話によっては江戸時代に造られた忠川沼がなぜか慶長出羽合戦の話の中に出てくるものもある。ダム湖の南を車道に沿って西に移動していくと再び峠となるが、ここに当時の戦で死んだ者たちの首塚があった。ここを越えると後は中山まで道は降るばかりで、最上家の兵はここまで追撃をして広河原で激戦となり、草刈志摩守はこの戦いで銃撃を受けて命を落としたという。なお、古戦場の説明板は峠を越えて前川を渡る手前にあった。

実に中山から半日かけて戦場を時計回りに散策し、再び中山へと戻ったのだが、感想としてはなぜ3倍以上の兵力の上杉軍が本隊をわざわざ山間部の狭い道を通らせたのかが疑問であり、しかも草刈志摩守がそれを先読みして伏兵を配置できたことも謎である。上杉側の文献には上山の里見氏は上杉氏に通じていたが、土壇場で裏切ったとあるため、上杉家は里見氏の策によって誘き出されて奇襲を受けてしまったのかもしれない。

一通り散策して中山に戻った時は既に日が落ちていたため、この日は赤湯温泉に宿を取って翌日に備えた。

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