7月28日静岡日帰り旅行・その1【曳馬城】(静岡県浜松市)2014年08月02日 15時18分04秒

月曜日にいわゆる代休なるものが取れたため、日帰りで静岡方面へと出かけて来た。最初に向かったのは浜松で、翌日が土用丑の日なこともあって鰻も目当てであったが、浜松城に最近復元された天守門が目的であった。

浜松駅前に以前行きたかった老舗の分店があったので、そこで鰻重を食べて腹ごなしし、その後は浜松城へと向かったが、せっかくなので浜松城の前身の曳馬城にまず立ち寄ることにした。

玄黙口跡
曳馬城は浜松城の築城の際にその縄張りに取り込まれてしまっており、浜松城北東の玄黙口となって、旧城内には蔵が設置されていたという。画像の玄黙口跡の標柱は分庁舎前にあるが、位置的には東に寄り過ぎている気がする。


曳馬城の掘跡
玄黙口から南の丘に入るとそこが曳馬城跡であるが、当時の堀底道がそのまま車道として利用されているため、この周辺だけ窪地の中を道が通る特異な風景だった。画像の交差点が城の中心付近で、斜め四方の丘がそれぞれ郭跡となっている。


東照宮
北西部以外の郭跡は全て住宅地になっているため見所が無かったが、北西部は廃藩後に勧請された東照宮となっており、鳥居の前には絵図に見える西側の郭同士を繋ぐ土橋の名残も見られた。画像は土橋跡から見た東照宮で、鳥居の右側の地味な位置に城址碑もあった。


曳馬城の土塁
東照宮にお参りして境内を見てみると、画像に見える土塁跡のような箇所があったが、これが遺構かどうかは不明である。

7月19日四国遠征・おまけ【岡山城】(岡山県岡山市)2014年07月31日 03時36分29秒

四国の旅を終えて家に帰る途中、新幹線に乗るために岡山まで来たが、16時半でまだギリギリ岡山城天守閣に入れそうだったので寄り道してから帰ることにした。岡山城は宇喜多秀家が築いた近世城郭で、天守閣が黒板張りだったために烏城の異名で呼ばれていた城である。


天守閣から見た後楽園
岡山城天守閣になんとかギリギリ入場できたが、中の展示を見ているうちに外は夕立となっていた。画像は天守閣最上階から後楽園方面を見た景色。なお、岡山城天守閣は外観復元の建造物であり、内部は普通の鉄筋コンクリートビルである。


岡山城天守閣
外は相変わらず夕立が続いていたが閉館時間になってしまったために追い出されることに・・・。画像は本丸本段内部と天守閣。


六十一雁木上門
本段には雁木門も復元されているが、こちらは来た時から閉まっていたので普段は通行できない門のようだ。


不明門
画像は表書院から本段に登る箇所にある不明門(あかずのもん)だが、どうみても大手のような感じなのに当時は文字通り常時閉鎖の門だったのだろうか?なお、これも天守同様外観復元の建造物である。


表書院跡
本丸表書院跡は主に建物跡が平面復元されていた。画像は表書院の玄関跡。


宇喜多直家時代の石垣
表書院は池田氏時代に増改築されたらしく、地下には宇喜多氏時代の石垣が眠っており、石垣の一部が露出展示されていた。


泉水
表書院の泉水跡で、一応これも復元になるのだろうか?当時は地下に陶器で水道管を作り中の島から水を出すという凝った造りになっていたらしいが、現状はただの水溜りにしか見えない。


廊下門
表書院から北に出ると廊下門があり、これも不明門同様に鉄筋コンクリートで外観復元された門である。


月見櫓
城内に唯一残る建物が月見櫓であり、この櫓は城内側と外側の構造が違って面白い。城内側からはよく撮れるが、外側は樹木が邪魔で画像のような感じでしか撮れなかった。


西の丸上段?
岡山城の城址公園の外にも遺構は残っており、西側の高台には石垣がはっきり残っていた。この当たりは岡山城二の丸西の丸跡だが、宇喜多秀家が城を築く前は石山の城の主郭だった場所である。画像に見える石垣の上にはどうやら左に見えるスポーツクラブ施設からしか繋がっておらず、上がどうなっているのかは確認できなかった。


石山門跡
西の丸は市街地化しているものの石垣がよく残っており、郭の範囲がハッキリ確認できるほどだった。画像は西の丸の北側にある石山門跡で、先の大戦の空爆で焼失するまでは城門が残っていたという。

7月19日四国遠征・その8【松山城】(愛媛県松山市)2014年07月29日 01時29分49秒

四国遠征最終日は松山市のど真ん中にある松山城に向かった。この城を訪れるのは2回目になるが、前回は時間の都合で見れない場所も多かったので、満を持しての再訪である。なお、松山城は前日に訪れた松前城を居城としていた加藤嘉明によって独立丘陵に築かれた近世平山城である。


松山城登城路
松山城はやはり登って来る途中の高石垣下を通る通路から見える櫓などの光景が印象深く、ここに来ると「あぁ、松山城だ」としみじみ感じる。


筒井門
本丸を目指して登って行く途中にある筒井門は松前城から移築されたもので、放火で焼失する前の門には移築された記録が記載されていたという。画像の筒井門は焼失後に再建されたもの。


松山城本丸
本丸から天守曲輪へと入る場所はいつ来ても威圧感が凄い。ちなみにこの先は有料区画となる。


迷路のような本丸
小天守から見た天守曲輪の入口付近だが、まるで迷路のごとく入り組んでいるのが面白い。ここからさらに中庭に突破して、やっと連立天守群の内部に突入できるのだから、攻撃側の苦労は底知れないものがある。


天守閣からの景色
大天守閣は時間が良かったのかすんなり登れたが、生憎の曇り空でイマイチな景色に・・・。それでも松山市内が見渡せるため、十分に絶景ではある。


天守閣最上階の床の間
前回は気付かなかったが、天守閣最上階に床の間があった。当時はいったい何をここに置いていたのだろうか?


二の丸多聞櫓と門
本丸と天守を散策した後は、前回来ることが出来なかった二の丸へと向かった。二の丸にある建物は復元建造物だが、入口の多聞櫓はなかなか圧巻であった。なお、二の丸内部は有料区画である。


二の丸御殿平面復元
御殿などの平面復元は全国各地でもう何度も見たが、松山城二の丸の平面復元は廊下を通路にして部屋を水槽や花壇で現すという他に類を見ないもので、これには少々驚かされた。


二の丸大井戸
二の丸跡には井戸の遺構もあるが、これがまた規模がでかいもので、巨大な窪地に階段で降りて水を直接掬えるようになっている。なお、当時はこの井戸の上に建物もあったそうである。


三の丸から二の丸・本丸を望む
松山城は山の麓に広大な三の丸跡があり、以前は公共施設が沢山あった気がしたが、今は半分が広大な芝生公園になっていた。画像は三の丸から見た風景で、右奥に見える石垣の上が二の丸、背後の山の上が本丸である。


三の丸外掘
三の丸は土塁と水堀がほぼ現存しており、残っていないのは北側の一部と二の丸との間の堀くらいである。


加藤嘉明の騎馬像
加藤嘉明公の立派な騎馬像を偶然見つけたが、本丸でも二の丸でも三の丸でもなく、山の麓のロープウェー施設から北東に行った場所にひっそりとあった。ちまたでは『地味加藤』なんて言われている嘉明さんだが、まさか騎馬像の場所まで地味だとは思いもよらなかっただけに衝撃的であった。

7月18日四国遠征・その7【松前城】(愛媛県松前町)2014年07月28日 00時25分23秒

元々のスケジュールでは大洲城は前日の宇和島城と一緒に訪れる予定だったため、大洲城散策後に次に何処に向かうかで大いに悩むことになった。…というのも、前日に付近の城跡をいくつか調べ上げておいたものの、いずれも山城ばかりなため、大洲城散策が終わった時点で猛暑で疲労困憊となった身には無理であった。

結局、次に向かった先は松山の平野部海岸沿いにある松前城跡で、加藤嘉明が松山城を築く前に居城としていた場所である。蛇足になるが、北国の人間はついつい「まつまえ」と読みそうになるが、ここでは「まさき」と読む。


松前城跡
事前の情報収集でもあまりいい評判が無かったが、実際に訪れた感想でも画像の城址碑しか見つからず、周囲を散策してみても住宅地が広がるばかりで城跡の名残を見つけることは出来なかった。

7月18日四国遠征・その6【大洲城】(愛媛県大洲市)2014年07月27日 09時52分01秒

宇和島の次は大洲に行きたかったが移動時間を計算したら16時半を過ぎることが判ったため、結局仕切りなおしで翌日の18日に向かうことにした。大洲城は中世に宇都宮豊房が築いた城を藤堂高虎が近世城郭に改築した城で、貴重な木造復元天守閣があることから是非とも今回の旅で訪れたかった場所であった。


肱川から見た大洲城
画像は肱川に架かる橋から見た城の建つ丘の様子だが、いまいちパッとしない景観である。思い返して見てもやはり景観では宇和島に行くときに特急から見た北側からの景色が一番だった。ただ、それは写真に残していないため悔いが残る思い出となった。


苧綿櫓
肱川を渡っている最中に川に突き出るように櫓が見えたので気になっていたが、郵便局脇の道路から遮水門を通って櫓の下の川沿いに出られるのが判ったので、そこから確認することが出来た。この櫓は大洲城の現存建造物(重要文化財)の苧綿櫓で、実は水害対策で石垣が当時よりも2mほど嵩上げされているという。まぁ、自治体によっては河川工事優先で取り壊した所もあるので大洲城は幸運だったとも言える。


南隅櫓
三の丸は市街地になっているが、南側に行くとここにも現存する建造物の三の丸南隅櫓があった。この櫓は内部を見学できるようになっていたが、階段や二階の床板が抜けそうなほど薄いのが地味に怖かった。後で説明板を見て納得したが、この櫓は藩の財政が逼迫している時代にかなり節約して造られたものだという。あと、櫓としては「隠し挟間」なんてものがあるのが面白かった。


お殿様公園
南隅櫓付近は「お殿様公園」として整備されており、画像左が大洲埋蔵文化財センター。画像右に見えるのが旧藩主の加藤家住宅で大正時代のものだという。


内掘しょうぶ園
南隅櫓から校庭となっている外掘は確認できたが学生で溢れているため撮影は自粛し、二の丸内掘跡を見に向かった。内掘は埋め立てられて大半が宅地になっていたが、「内掘しょうぶ園」まで行くとやっと内堀の名残を確認することが出来た。画像は城内側から「内掘しょうぶ園」を見下ろした景色で、当然ながら時期が過ぎているため菖蒲は一輪も咲いていなかった。


井戸丸から見た二の丸跡
画像は菖蒲園から北側を通って二の丸を抜けて本丸へと向かう途中の井戸丸(本丸下段)から見た二の丸跡。天守閣で昔の写真展示を見て判ったが、公園として整備される前はここまで民家が立ち並んでいたというのがなかなか衝撃的だった。まぁ、今でも二の丸下段の帯郭に民家あるため当時の様子を垣間見ることは出来た。


御門番所
二の丸跡にも「御門番所」の復元建造物があるが、何故かマップやパンフには載っていない。近くのトイレと外観が似ているため、説明板を見るまでは自分も復元建造物だとは気付かなかった。


暗がり門跡
画像は井戸丸から本丸へ入る入口の「暗がり門」の跡であるが、ここも発掘調査を見て衝撃を受けると共に城門の名前に納得をした印象深い箇所だった。現在の車道はまっすぐ本丸内へ入っているが、当時は城門内部でL字に折れ曲がって台所櫓の前に出るようになっていた。要するに枡型を省いて門内部で道を折っていたのであり、門を開けたら正面が壁とかいう忍者屋敷もビックリな構造である。


大洲城天守閣と櫓
特急から見た大洲城は黒くて無骨な感じだったが、本丸内部から見るとやはり印象が違って見えるのが面白い。天守閣には右側の台所櫓から入って受付で入場料を払って入ったが、外観では統一されているように見える重要文化財の櫓と復元天守閣でも、内部の木材の新しさが全く違うのがハッキリ判るため面白い。


天守閣1階からの吹き抜け
天守閣内部は1階と2階が独特の吹きぬけ構造になっており、内部構造が楽しめるのも資料が残っている建物の復元ならではである。余談であるが、天守閣の最上階の人目に付かない場所にこっそり鼠の置物が隠してあり、これは災害が起こる前に鼠が逃げ出す逸話を逆手に取ったもので、要するに鼠が居る内は安全であるという大工さんの洒落である。


天守閣からの景色
天守閣最上階の窓からは城下が一望できて素晴らしかったが、やはり櫓と同じくらい高い本丸の3本の樹木も印象的であった。画像中央奥に見える橋が最初に写真を撮った場所である。


修復中の下台所
今回の大洲城の散策で心残りになった場所の一つに重要文化財の下台所があり、修復工事中のため写真の外観しか確認できないのがなんとも残念だった。