10月13日三連休道南函館江差の旅・その4【弁天島台場】(北海道江差町)2013年10月21日 23時59分39秒

開陽丸を見た後は陸繋島となっている鴎島へと移動した。ちなみに元々は弁天島と言い、江戸時代の絵図では陸繋島ではなく江差の沖に浮かぶ島として描かれている。


北前船係留地跡
島の内海側北部にはピット跡のような形跡がいくつもあり、現地の説明によれば北前船の係留場所の跡だという。実際、この日は強風が酷かったが、この場所は島のおかげで風はあまり当たらず、船を係留するには絶好の場所だというのがよく判った。


瓶子岩
なお、島の内海側には絶妙なバランスで立つ面白い岩がある。『瓶子岩』と言い、昔弁天島の翁より瓶子を貰った姥が、その瓶子を海に投げ入れたものがこの岩になったという。そして、この瓶子を海に投げて以降、江差は鰊が豊漁となったという。


鴎島南部
鴎島の上はほとんど隠れる場所が無いため、強風がまともに当たって大変だったが、島の南側の蟻の門渡りのような場所が最も大変だった。


キネツカ台場
島の南端まで移動すると、微妙に窪地になった一画があり、ここが松前藩が海防のために設置したキネツカ台場の跡だという。幕末には旧幕府軍がここを占領し、新政府軍と砲撃戦を行ったとされる。たしかに、ここからは海が180度以上見渡すことができるため、台場を置くにはベストな場所と感じた。


鴎島北部
南端まで向かった後は再び道を戻り島の北部へと向かった。北部は南部と違って広い平地が続いており、晴れた日なら気持ち良さそうな草地が広がっていた。ちなみに画像とは逆の画面外には灯台もある。


厳島神社旧鳥居
島の北部には江戸時代の絵図にもある厳島神社(弁才天社)があり、その境内に折れた鳥居のようなものがある。これは天保年間の頃に回船問屋によって奉納された一の鳥居の残骸で、元々は海に向けて立てていたが嵐で破損して海中に沈んでしまったものを引き揚げてここに立てたものだという。


千畳敷
島の西の日本海側は強風が吹きつけ、波のしぶきが島の上まで飛んでくるおかげでカメラのレンズがすぐに汚れるほどだった。島の西の波打ち際に下りた場所には岩場が広場のように開けた場所があり、ここは「千畳敷」と呼ばれている。江戸時代の絵図ではここに人々が集まって宴会をしている様子が描かれているので、実際イベント広場のように利用されていたのだろう。この日は残念ながら千畳敷が波で洗われている状態のため、島の上から見るだけに止めた。


テカエシ台場
南のキネツカ台場同様に島の北部にも台場があり、こちらはテカエシ台場と呼ばれている。キネツカ台場と違ってこちらは塁壁は無く、ただの平場となっているが、風化によって失われてしまったのだろうか?なお、こちらの台場は完全に西側にのみ向いており、北から東にかけては死角になってしまっている。