8月12日夏季山梨遠征・その1【新府城】(山梨県韮崎市)2013年08月14日 23時55分25秒

夏季休暇を取ってお盆前に何処かに出かけたいと思っていたものの、連日の猛暑で出かける気力が薄れ、繁忙期により直前の宿の確保が難しく再三スケジュール修正をした挙句に甲斐国へと出かけることになった。今回は正直特に深い理由は無い衝動的散策となったが、まずは以前に一度だけ訪れたことのある新府城へ向かった。


藤武神社一の鳥居
新府駅の集落から丘を登った先に藤武神社の一の鳥居があり、この参道が新府城跡の本丸まで一直線に続いている。鳥居を潜ると一度沢状地形に降りてから再び登ることになるが、この凹が新府城の外掘跡でもある。


南大手の三日月堀
神社の参道からは登らず、南側に迂回している道から城跡の丘に登ると南大手の枡型が見えてくる。この枡型の先には武田家得意の丸馬出と三日月堀があった。堀から馬出の上まではけっこうな落差があり、改めて見ても大手口としてはなかなか見事な場所だった。


新府城二の丸
南大手よりもさらに丘の上に登ると、東西に分かれた三の丸や蔀の構えなる郭などが確認でき、いずれもしっかりと土塁が残っているおかげで構造が判り易かった。画像は二の丸の手前の長方形の土塁に囲まれた郭で、二の丸は左奥に見える空間。ちなみに二の丸は草が茫々で散策し辛かった。


新府城本丸からの景色
丘の頂上には本丸跡があり、とにかくこの郭がやたらと広かった。東の脇に神社があるが、大部分は草地であり、中心付近に水の手らしき窪地があった。本丸からの景色は必ずしも絶景ではないが、もし武田軍が篭城していたら画像の方向に織田家の軍勢が展開していただろうと考えるとなかなか興味深い。


藤武神社
藤武神社は藤井庄と武田庄の頭文字を取った神社で、新府城築城時は稲荷郭にあった守護神の稲荷神社が前身らしいがイマイチ定かではない。神社の参道は地形を無視してまっすぐ伸びているため、参道は本丸への最短ルートとなっている。


藤武神社二の鳥居と帯郭
参道を降りていくと二の鳥居のある位置に丘の中腹を横断する帯郭跡がある。ちなみに南側は大手門跡まで続いている。


新府城出構
参道を降りてから北に回りこむと、丘の麓に沿って外掘跡が広がっている。その外掘跡に突き出た出っ張りの部分が新府城独特の出構え遺構で、画像左は「東出構え」、画像右奥にかすかに見えるのが「西出構え」である。


外掘(西側の水堀)
外掘跡は水堀だったが現状ではほとんどが埋まっており、西側の一部だけ水堀が復元されていた。新府城は昔来た時とあまり変わっていないとこの時までは思っていたが、何気に搦手方面は整備されており説明石版やベンチ等もあって驚かされた。搦手方面はほとんど訪れる人が居ない感じだったので、何故こちら側が優先的に整備されていたのかは謎である。


新府城搦手枡型
搦手口には土橋と方形の枡型があり、枡型を抜けた先の郭も外郭から堀で切り離された出丸のような感じで、大手に負けず劣らず見ごたえがある構造だった。ちなみにMAPには搦手口に四脚門と載っていたが、門の正確な位置はよく判らなかった。


新府城井戸跡
最後に搦手口と二の丸の中間あたりにある井戸跡も確認に行ったが、予想以上に藪化が侵攻しており、底まで降りれるように付けられていた階段ももはや見えない状態だった。説明板には整備当初の画像が載っており、現状と比較するとただ絶句するしかない状態だった。

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