11月26日晩秋会津山城の旅・その5(福島県会津若松市)2011年12月01日 00時03分56秒

柿の里の御山を抜けて北上すると、いよいよ会津若松の市街地へと入ったため、本日の締めくくりとして市街地を望む場所にある小田山城へと登ることにした。

墓地からの山道
当初、建福寺から東の墓地から山へと登ったが、山道は途中でいきなり笹薮へと変化し、迂回路も見つからなかったので結局このルートは諦めて仕切りなおしとなった。


観音堂跡
仕切りなおして山の北側に回ると、小田山城跡の標柱がある場所から小田山へと登る道が続いており、ここから登ることにした。山道を登っていくと葦名家の廟所跡や、射撃場の的に利用された塚、宝積寺の元となった観音堂跡などの標柱・説明板があって、思いのほか色々あったことが判って興味深かった。


西軍砲台跡
ある程度登ると、幕末に西軍(新政府軍)が若松城に大砲を打ち込んだ陣地跡へと辿り着いた。ここからはまさに若松城が眼下に見えたが、この距離で本丸に大砲の弾が届いたとすると、自分が思っていた以上に弾が飛ぶことを思い知らされた。


模擬冠木門
視界が開けて見通しの良い山道をさらに登っていくと、冠木門のある場所に辿り着いた。ここには小田山城の説明板もあり、冠木門は模擬建造物であるが雰囲気は良く出ていたと思う。ただ、門を潜った先が笹薮漕ぎになるのは少々衝撃的であった。


山頂の田中玄宰墓所
山頂付近へと辿り着くと、山の上の郭跡には会津藩家老職の丹羽能教と田中玄宰の墓があった。田中玄宰は藩校日新館の創始者であり、財政再建などで成果を挙げた人だが、それでも城のすぐそばの山の上に一家老がこれだけ大きな墓所を構えるのはちょっとやりすぎなように思えてならない。


物見台跡
墓所を越えてさらに奥に進んでいくと、おそらく小田山の最高所と思われる場所に物見台跡があった。周囲は木々が駆り払われているためまさに絶景であり、眼下には夕闇に沈み行く街を望むことが出来た。


物見台から見た磐梯山
物見台から北には遠く磐梯山を望むことが出来た。


堀切跡
物見台よりさらに奥は鞍部になっており、ここには堀切を確認することが出来た。一部大穴が開いたような場所があったが、そこは石切り場跡だった。堀切より奥の奴田山(青木山)も縄張りの内だと云うが、さすがにそろそろ下山しないと真っ暗になってしまうため、ここで引き返すことにした。