8月20日将来後悔しないための城址散策・その1(京都府舞鶴市)2011年08月26日 01時06分22秒

福島原発災害は色々な意味で厄介な問題を生み出したが、まだ訪れたことのない城址が立ち入り禁止区域になってしまうことが個人的に痛恨の極みな出来事だった。原発の20km圏内にはかつての相馬氏の居城だった小高城があり、さらに10km圏内には中世国人領主の標葉氏、楢葉氏の居城群が含まれている。ニュースでは3km前後の一部の地域は今後数十年に渡って封鎖される予定だというから、下手すると生きて拝めない難攻不落の城址が生まれることになる。

そんな苦い思いから居ても立っても居られなくなり、各方面で原発災害が最も懸念されている若狭地方の城址を悔いを残さぬよう散策するため今回の旅に出たのであった。

まず始めに向かったのは若狭と丹後の境界近くの舞鶴にある田辺城址で、ここは高浜原発から17kmの位置に立地している。

田辺城の二の丸石垣の一部
街中を移動していると関西電力の建物の側に発掘して出土した石垣が展示されていた。この場所を地図で見ると不自然な斜めの道と用水路があるが、古絵図と見比べてみるとその場所がちょうど堀だったことが判る。


城址公園内部
城址の本丸跡を中心とした一帯が今は舞鶴公園となっているが、ここには立派城門と櫓が築かれていた。ところが、この城門は模擬建造物で内部は資料館となっている。おまけに建っている場所は本丸の内堀があった場所(画面中央の石垣より右側)で、丁寧に石垣まで積まれているため、なかなか勘違いしそうな縄張りへと変貌してしまっている。


天守台
現存する遺構である天守台は模擬門を潜ってすぐ右手にあり、この天守台が本丸の南西隅にあたる。つまり、ここより西と南に接する一帯は内堀であったことになる。


本丸内の井戸
公園北側には石垣を丸くくり貫いたような場所にある井戸があるが、細川氏時代にあった井戸を後に京極氏が塞ぎ、その上に石垣を整備したためこんな奇妙な状況になったのだという。なんとも面白い遺構である。


二の丸石垣
公園自体は本丸から二の丸に跨っており、内堀が消滅しているため境界がわかり辛いが、天守台と現存する北側の石垣のおかげで本丸の範囲が容易に想像することが出来た。公園の線路側に近い場所には二の丸の遺構がよく残っており、石垣と堀の跡が確認できた。


明倫館の門
公園の外ではハッキリした遺構は確認できなかったが、明倫小学校の南側にはかつての藩校・明倫館の門が今も現存していた。

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