8月14日城址の震災影響確認の旅第三陣・その1(福島県いわき市)2011年08月15日 02時47分14秒

今年のお盆はまとまった休みがとれず帰省できないため、その貴重な休日を使って再び城址の震災影響確認の日帰り旅に出てきた。今回の初めの目的地はいわき市の平城である。

崩壊した塗師櫓の石垣
平城は近世城郭ではあるが全体が住宅地に埋もれてしまっており、数少ない遺構の石垣が本丸跡で確認できるくらいなのだが、今回はその貴重な石垣が震災で崩落してしまっていた。塗師櫓の櫓台の石垣はちょうど角の部分が崩れてしまっており、崩れた石垣は道路を塞いで通行止め状態になっていた。


崩壊した中の門の石垣
中の門の石垣もまた豪快に崩れてしまっており、こちらにはブルーシートはかけられていなかった。ここは丹後沢公園への入り口の一つでもあるが、公園自体が今は立ち入り禁止状態となっていた。


閉鎖された龍が城美術館
本来なら休館日では無いのだが、龍が城美術館が閉鎖されていた。震災の影響なのかは判らないが、張り紙には「リニューアル準備のための休館」と書かれていた。ただ、建物の瓦が落ちた形跡があるため、恐らく震災で内部も少しは影響を受けたのだろうと思われる。


丹後沢に滑り落ちてる地盤
丹後沢公園が閉鎖されているため、移動に城の大外をぐるりと回る必要があるのが面倒だったが、その丹後沢の周囲にも震災の影響と見られる箇所が散見された。というのも地盤が沼に向かって滑り落ちているようで、周囲より凹んで沼側に数十センチほど移動しているような状態が確認できた。

結論から言うと磐城平城の数少ない見所全てが震災の影響を受けており、大部分が私有地ということもあって震災前の状態に戻せるのか非常に不安でもある。

8月14日城址の震災影響確認の旅第三陣・その2(福島県三春町)2011年08月18日 08時04分26秒

いわき市で平城跡を見て周った後は、阿武隈山地の中の三春町へと向かった。目的地は三春城(舞鶴城)である。


崩れかけているお城坂の石垣
城山へと登る道の「お城坂」には道の脇に石垣が積まれている。いつの時代のものかは定かではないが、今回の震災で一部(画面左の柵がある部分)がずれて崩れそうになっていた。


(元から?)崩れて散乱する岩
山頂の本丸跡まで見て周ったが、特に震災で崩れたような箇所は見当たらなかった。もっとも、雷と夕立のせいで駆け足で移動したため、満足に見て周れなかったが・・・。画像は震災以前から散乱していた岩。

8月19日浅井博覧会散策・その1(滋賀県長浜市)2011年08月23日 23時54分55秒

お盆は残念ながら休めなかったが、やっとまとまった休みが取れたので畿内方面へと出かけて来た。目的は2つあり、大河ドラマ連動で盛り上がっている?地元の城址を散策することと、将来の災害が危惧されている地域の城址の散策である。後者は2日目以降の目的であり、初日は前者が目的である。


長浜城模擬天守閣(資料館)
最初に訪れたのは長浜城で、豊臣秀吉の出世城として名高い琵琶湖半の水城である。現在は城址のほとんどが市街地化などで消滅しており、公園になっている本丸跡付近に天守閣があるが、これは模擬建造物で内部は資料館となっていた。


模擬天守閣から小谷城を望む
模擬天守閣の最上階はなかなかの眺めで、北には浅井氏の山城の小谷城(中央やや右)が見える。


長浜城天守台跡の秀吉像
ちなみに本当の天守閣があった場所は小高い丘になっており、現在は豊臣秀吉の石造が立っていた。


本丸跡の太閤井戸の石碑
本丸跡は北側がなぜか水没しており、海岸線ぎりぎりの箇所に井戸の跡(中央石碑のある場所)があった。

8月19日浅井博覧会散策・その2(滋賀県長浜市)2011年08月25日 00時52分22秒

長浜城跡を散策した後は浅井三姉妹博覧会のシャトルバスに乗っていざ小谷城へ。・・・といっても、小谷城に着いた頃には既に16時近くであり、既に城山に登るバスの営業は終了していたのであった。


お江のふるさと館
シャトルバスの停車場の一つで、登山バスの出発地にもなっている「お江のふるさと館」であるが、建物自体は想像していたよりも小さなものだった。周辺には出店やステージもあったが、店は2店舗以外は閉店しており、既に本日の営業は終了モードであった。


小谷城出丸
16時から小谷城へ登るのはちょっと不毛じゃないだろうかと思ったが、せっかくここまで来たので行ける所まで行ってみることにした。まず出丸へと辿り着いたが、ここはハッキリと判る土塁に囲まれた二段の郭があり、出丸と聞いて期待していなかった分感動してしまった。


間柄峠
出丸を抜けて車道を横切り、大手道に合流してさらに登ると間柄峠と呼ばれる地点に着いた。ここは六角氏が小谷城に攻め込んできた時に、浅井氏の援軍の朝倉氏家臣の間柄氏が陣を敷いた場所だという。ちょっと陣を置くには狭いような気もするが・・・。


金吾丸
間柄峠からさらに登ると金吾丸で、ここは前述の戦いの時に朝倉宗滴が陣を敷いた場所だという。正直、城を落とせる気がしない布陣である。


熊出没注意
最近湖北で熊が良く出ると噂には聞いていたが、小谷城にもごらんの看板が設置してあった。前日に『羆嵐』のドラマを見たせいで、正直あまり良い気分ではなかった。
このほかにも「スズメバチに注意」の看板もあったが、こちらは既に単体で飛んでいる奴に遠巻きにお目にかかっていた。


桜馬場の馬洗い池
馬場の窪地のような地形も良かったが、馬を洗ったとされる池の石垣がハッキリ残っているのがなんとも良かった。今もわずかに水が溜まっており、雨でも降ればすぐに池になりそうである。


本丸石垣
黒金門跡を抜けると大広間という広い郭に出たが、ここの背後には本丸があって石垣がハッキリ残っているのが素晴らしかった。本丸の内部には天守台跡という少し高くなった場所があったが、天守というより郭の異名である鐘の丸の通りに、時鐘堂かそれに類するものが建てられていたような気がする。


麓の模擬大手門
本来であれば本丸から大堀切を抜けて京極丸に登り、最終的に大嶽城にまで登るのであろうが、さすがに今回は出発が遅すぎて大嶽城まで行こうものなら夜になるのが確実なため、本丸で引き返すことにした。帰りは大手道から下山したが、大手道の入り口付近の駐車場には大手門の模擬門が設置してあった。ちなみにこの場所も博覧会のシャトルバスのバス停である。

下山後はシャトルバスで駅まで戻り、明日の散策の舞台となる若狭へと向かった。

8月20日将来後悔しないための城址散策・その1(京都府舞鶴市)2011年08月26日 01時06分22秒

福島原発災害は色々な意味で厄介な問題を生み出したが、まだ訪れたことのない城址が立ち入り禁止区域になってしまうことが個人的に痛恨の極みな出来事だった。原発の20km圏内にはかつての相馬氏の居城だった小高城があり、さらに10km圏内には中世国人領主の標葉氏、楢葉氏の居城群が含まれている。ニュースでは3km前後の一部の地域は今後数十年に渡って封鎖される予定だというから、下手すると生きて拝めない難攻不落の城址が生まれることになる。

そんな苦い思いから居ても立っても居られなくなり、各方面で原発災害が最も懸念されている若狭地方の城址を悔いを残さぬよう散策するため今回の旅に出たのであった。

まず始めに向かったのは若狭と丹後の境界近くの舞鶴にある田辺城址で、ここは高浜原発から17kmの位置に立地している。

田辺城の二の丸石垣の一部
街中を移動していると関西電力の建物の側に発掘して出土した石垣が展示されていた。この場所を地図で見ると不自然な斜めの道と用水路があるが、古絵図と見比べてみるとその場所がちょうど堀だったことが判る。


城址公園内部
城址の本丸跡を中心とした一帯が今は舞鶴公園となっているが、ここには立派城門と櫓が築かれていた。ところが、この城門は模擬建造物で内部は資料館となっている。おまけに建っている場所は本丸の内堀があった場所(画面中央の石垣より右側)で、丁寧に石垣まで積まれているため、なかなか勘違いしそうな縄張りへと変貌してしまっている。


天守台
現存する遺構である天守台は模擬門を潜ってすぐ右手にあり、この天守台が本丸の南西隅にあたる。つまり、ここより西と南に接する一帯は内堀であったことになる。


本丸内の井戸
公園北側には石垣を丸くくり貫いたような場所にある井戸があるが、細川氏時代にあった井戸を後に京極氏が塞ぎ、その上に石垣を整備したためこんな奇妙な状況になったのだという。なんとも面白い遺構である。


二の丸石垣
公園自体は本丸から二の丸に跨っており、内堀が消滅しているため境界がわかり辛いが、天守台と現存する北側の石垣のおかげで本丸の範囲が容易に想像することが出来た。公園の線路側に近い場所には二の丸の遺構がよく残っており、石垣と堀の跡が確認できた。


明倫館の門
公園の外ではハッキリした遺構は確認できなかったが、明倫小学校の南側にはかつての藩校・明倫館の門が今も現存していた。