8月21日将来後悔しないための城址散策・その6(滋賀県大津市)2011年09月01日 23時26分37秒

雨天により本来の目的から脱線した旅路は、大津市街地へと入って大津城のあった場所へと辿り着いた。

大津城碑
かつて篭城戦が行われた水城の名城は今は完全に市街地と化しており、本丸跡の現在は歩道橋の階段があるあたりに城址碑があるだけの寂しい状態だった。情報によれば三の丸石垣がどこかに残っているらしいが、場所が判らなかったので確認していない。


大津城本丸跡
本丸跡の東南角にスカイプラザがあり、本丸北側の湖との境界部分が公園となっていた。そして画像が本丸の中心付近の現状で、右のマンションが建っているあたりに天守閣があったという。見事なまでの遺構壊滅状態だが、一つ思いがけない収穫があった。ちょうどこの日、スカイプラザで大津城についての展示や説明会をやっており、それを偶然覗くことができたのは幸運だった。展示パネルによれば画像の右奥のマンション隣の駐車場のような場所で石垣が発掘されていたが、改めて見に行った所、埋め戻されたのか撤去されたのか判らないが、痕跡すら見つけれなかった。

8月21日将来後悔しないための城址散策・その7(滋賀県大津市)2011年09月03日 01時21分13秒

大津城跡散策の後は、大津城を廃城にして築城された膳所城跡に向かったが、こちらも現存遺構の壊滅具合ではどんぐりの背比べと言った感じだった。

移築城門
ただ、移築された城門等が市内に多く残されており、膳所本町駅のすぐ側の膳所神社に至っては城門が3つも移築されているという豪華さだった。後に篠津神社にも立ち寄って移築城門を見てみたが、基本的にどれも構造が似たような感じになっており、移築というのもうなづけるものだった。


復元城門
市街地化で縄張りはほとんど埋もれているが、本丸跡付近だけは一応城址公園になっていた。公園の入り口には移築城門を参考にしたと思われる復元城門があったが、絵図等と見比べると立っている位置はいい加減だった。城壁や水堀もあったが、こちらもただの雰囲気造りの模擬構造物だった。


本丸現存石垣
とりあえず、公園の外側にある石垣は現存する石垣だと聞いていたが、パッと見た限りでは公園化で手が入っているように見られた。画面中央奥が天守閣跡。


模擬櫓風の水道関連施設
一見すると三の丸の多聞櫓のように見えるこの建物は、水道施設を櫓風に造っただけの建物で、ただの模擬建造物だった。散策した限りでは、全体的にこの城址には残念な部分が多く、城跡の整備について考えさせられる場所だった。

8月22日将来後悔しないための城址散策・その8(静岡県掛川市)2011年09月04日 00時02分09秒

今回の旅の最終日も相変わらずの雨天だったため、帰路のついでに遠州の城へと立ち寄った。ここにも東南海地震最大の不安要素である浜岡原発があるため、今のうちに付近の城址に立ち寄っておくべきと判断したためである。

本来であれば「遠州を制する城」と呼ばれ、徳川と武田の激戦地となった高天神城(浜岡原発から約12km)へと行きたかったが、さすがに雨の中登山は不味 いので、高天神城を攻め落とす拠点となった横須賀城(浜岡原発から約17km)へと向かうことにした。こちらなら標高も低く、整備されているため雨天でも 周れると思ったからである。

横須賀城の玉石垣
横須賀城は川原から集めた玉石で石垣を構成しているのが特徴的な城で、今は中心部が公園となっていて、建物は無いものの立派な遺構が残る城址だった。


横須賀城天守台
城内最高所の本丸には天守台跡があった。絶景ではないものの本丸からの眺めは良く、晴れていないことだけが不満点だった。


お姫様の祠
本丸の切岸東側には「お姫様」なるものが祠に祀られていた。説明板等が無いため詳細は不明だが、帰ってきてから調べた感じでは江戸時代頃に若くして亡くなった姫君を祀っているそうである。


松尾山の土塁と水の手?発掘孔?
城内には本丸と同じくらいのピークとなっている松尾山があり、こちらは整備されていない・・・というか発掘中になっているようだったが、ちゃんと土塁が残っており、水の手なのか発掘孔なのかは不明だが、謎の窪地もあった。ただ、ここでは虫除けスプレーが全く効かない藪蚊の群れに襲撃され、満足に見て周ることが出来ずに撤退する羽目になったのが心残りだった。


西大手門跡と櫓台跡
城跡の平地部分(二の丸、三の丸)は今は住宅地と化してしまっていたが、外堀部分は一段低い空き地になっていてその名残を良く残していた。その外堀を西に向かうと西大手門跡があり、門跡の隣には櫓台跡の丘が残されていた。


地震で隆起してしまった入り江跡
横須賀城で一番驚いたのは、かつてこの城は入り江に接していて船着場を備えた水運の城だったことで、1707年の宝永大地震によって地盤が隆起し、入り江は全て陸地になってしまったのだという。現在その入り江だった場所の大部分が水田になっており、ここが海だったと言われても信じられない景色が広がっていた。

8月22日将来後悔しないための城址散策・ラスト(静岡県掛川市)2011年09月05日 23時09分10秒

横須賀城から引き上げると同時にバケツをひっくり返したような豪雨に襲われたが、通り雨だったようでしばらくすると小雨になったため、次は掛川城へと向かった。ちなみに掛川城は浜岡原発から約20kmという微妙な距離にある。


復元大手門と門の本来の位置
掛川城の復元された大手門が本来の位置からずれているのは前回訪れた時に知ったが、本来の位置(柱穴の位置)がちゃんと車道や歩道に表示されていたのは今回初めて気付いた。


二の丸御殿
貴重な現存建造物である二の丸御殿は相変わらず雰囲気が良かったが、三の丸美術館や茶室等はこの日は休館日で営業していなかった。


本丸から見上げた天守閣
天守閣と天守曲輪も相変わらずの景色で、天守最上階からの眺めも良かったが、天守の石垣に咲く百合の花が何気に印象的だった。


二の丸から見上げた天守閣
ただ、二の丸側から見ると現代石垣(護岸ブロック)が見えるため、見栄えが悪いのが残念な点である。

9月5日足利散策・その1(栃木県足利市)2011年09月06日 22時40分21秒

台風が猛威を振るう中、野暮用で栃木県の両毛線沿線まで出かける用事が出来てしまったため、昼飯ついでに足利の街中の史跡を散策することにした。最初に向かった先は日本最古の学校とされる足利学校である。


入徳門
足利学校の入り口は南側にある入徳門で、入って右側に料金所と休憩所がある。入場料は大人で400円ほど。


孔子廟
料金所からさらに先の門を潜った先が学校の敷地内で、周囲は土塁で囲まれている。門からまっすぐ進んだ先にある建物が孔子廟で、ここが儒教を参考とした学校だったことが判る。


方丈庫裡
孔子廟の東隣にある大きな建物(方丈と庫裡)が学生達が学び生活していた場所で、平成2年に復元されたものだという。敷地内で最も大きな建造物で、予想していたよりも立派なものだった。


庭園
方丈の南北には庭園があり、これも復元したものだというが、なかなか良い雰囲気である。敷地内には広葉樹もあったので、庭園も含めて秋にはまた違った風景が楽しめそうな気がする。


寮
当時の学生寮。いわゆる長屋で、一部屋あたりの間取りは現代の感覚ではかなり狭く感じる。まぁ、寺院などで大部屋で数十人で暮らしていた話よりは、個人的にこっちの方が向いているかもしれない。


水堀と土塁
学校の敷地は土塁と水堀(現在は東半分のみ)に囲まれた正方形に近い形であるため、一見すると平安時代や鎌倉時代の武士の館にも見える。まぁ、隣の鑁阿寺が足利氏の館跡なので、ここもひょっとするとその一部だったのかもしれない。